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十一ノ巻 平成12年6月刊(カラーが取り組めません)
[発行人敬白]
鍛錬」から「焼入れ」―
火から水へ、更なる工程 杉山頴男
この稿を綴るにあたり、机上に零ノ巻から十ノ巻まで重ねて積んだ。縦幅はちょうど片手の親指と小指を広げた長さ程度で、横幅は親指と人指し指。十一冊積んだ高さは床につけた親指から人指し指の付け根までである。これが『武道通信』の二年間の身丈である。
詰まらないことを早々に申した。この稿の本意ではない。ただ、嗚呼!と、いや、それほど大袈裟ではないが、一寸法師を思わせる、その身丈に、あらためて唖然としたのだ。
創刊準備号「零ノ巻」は30頁ほどのでもので、前田日明のリングスラストマッチ(平成10年7月20日)に会わせ製作した。論客は前田日明の刀剣鑑定の師匠である高山武士さん。八年前ほど前か、前田日明に誘われ高山さんの刀剣鑑定勉強会の末席を汚した。あの夜、『武道通信』の精子が受精卵と遭遇したのではないかと指折り、数えたことがあった。そんな秘めたる思いがあり、介添え役の前田日明に編集長役を願った次第であった。
ゆえに準備号の零ノ巻は日本刀であった。これが『武道通信』の初心であり、十巻を完結し、新たな戦いの場に駒を進めるための残心にしたい。十巻完結の残心として、巻末に零ノ巻論客対談を附記した。ご了承願いたい。
この稿、各論客への感謝の意を述べるものであったが、書き出し、寄り道したことから誌面が残り少なくなった。寄り道の行き止まりまで行くとする。
鉄は熱いうちに打ての諺どおり、十一人の論客ほか筆者の方々に、まだ熱い鉄の塊でしかなかった小誌を鉄の鎚で打ち、「鍛錬」「折返し」をしていただいた。いま「生仕上げ」が終わった段階だろうか。これから刃文を生み出す土を塗り、「焼入れ」である。火から水へ、己を清明にし、天然の加護を祈り、『武道通信』は更なる工程に入る。何世紀後、その世の日本人の末裔に、無銘刀にしては、美しく、よく斬れる刀だと言われることを祈って。
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前田日明と十一人の論客
[ 残心!零ノ巻論客 高山武士]
日本、日本人よ!
十巻完結記念 編集長対談合本
各巻論客と主な内容
●十巻完結記念
十一ノ巻 藤岡 弘
日本刀と日本人
壱ノ巻 小林よしのり
『戦争論』
弐ノ巻 猪瀬直樹
三島由紀夫
参ノ巻 高橋 巖
ふたたび三島由紀夫
四ノ巻 呉 智英
儒教とは
五ノ巻 西尾幹二
『国民の歴史』
六ノ巻 井沢元彦
織田信長の謎
七ノ巻 福田和也
吉田松陰の「公と私」
八ノ巻 坂井三郎
日本人の戦争論
九ノ巻 松岡 正剛
宮本武蔵
十ノ巻 津本 陽
時代小説
●残心をとる、そして初心に戻る
零ノ巻 高山武士
日本刀
無銘刀宣言
T革命という名の第三次世界対戦。
この戦、国境もない城もない。
個人の自存自衛の戦いである。
武士の強靭な個の遺伝子を呼び起こせ。
【無銘刀】
「発行人敬白」で『武道通信』の身丈が一寸法師に似たものと述べた。正直、机上に積んだ怏艪ェ身揩見て、遠い記憶のおとぎ話を想い出した。一寸法師はお椀の舟に乗り、箸の櫂で、川を下り都へのぼる決意をする。『武道通信』はインターネットというお椀に乗り、パソコンを櫂として、川という波(web)に漕ぎい出る……。小誌のweb販売は、さしずめこんなところか。
一寸法師のおとぎ話は打出の小槌を手に入れ、人並みの身丈になり、めでたし、めでたしだが、人の世、時代の節目には大きな波が襲って来る。して、この波を乗りきった者が勝者となるとの至言を秘めているのかも知れぬ。
駿河湾の海辺で育ち、寄せては返す波のリズムは体感としてあり、後年、それが人の世の常であり、しかし繰り返す波は同じ波ではないと知った。そしていま寸暇を惜しみ、初老化した体に鞭打ち、パソコンのイロハを覚えていく中、指先の彼方に今までと異なる世界像を垣間見ることができた。終身雇用、年功序列、学歴社会が、もはや難攻不落の砦でないと、遅ればせながら実感できた。新しい波が足下の砂を洗い始めている。この波は一つ前の波と違い、護送船団では乗りきれそうにもない。
日本の近代勃興は戦国時代からで、武士は西洋の個人主義の倫理よりも強い個我の倫理を持っていた……。西洋文明の波に襲われた明治人は、心の支えに武士道を発見した……。これら論客たちの言葉が切れ切れに響いてくる。改めて十二人の論客たちのとの出会いに感謝する。
世界IT戦争の火蓋はすでに切られたが、護送船団方式の栄華に長く酔った分、出遅れた我が国が、反撃に必要な兵士は強靭な個の武士である。武道精神の遺伝子はまだ消滅してはいない。手前味噌のたとえで恐縮だが、現代版お椀と箸で都(世界) へ挑むことではないだろうか。 |
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