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天然理心流の秘伝


天然理心流 習いはじめて 一年後あたりか
平井師範 拙者に こういった
四十二年にわたり当流を修行し 身をもって実感していることがある
このときから 何年 経っただろう

十ノ巻で “証言”された (拙者の聞き書き)
【天然理心流の秘伝  
平井泰輔{たいすけ} 天然理心流九代】

補:天然理心流 四代・近藤勇→五代・甥で養子の近藤勇五郎 
六代・不明 七代・近藤新吉 新吉の撥雲館道場で教えを請けた
八代・加藤伊助 平井師範 中学のときから加藤伊助に師事

さて 平井師範が語る<秘伝>とは
司馬遼太郎 『燃えよ剣』が創り出し 通説となった
天然理心流
試衛館{しえいかん}
新撰組
木っ端微塵にするものだった

平井師範の「身をもって実感」したのは
天然理心流 勝つための剣法でなく 相打ち剣法ではないか
一人“探索” はじまった

新撰組隊士末裔から切紙 五本の形を手に入れる
序中剣{じょちゅうけん}  平正眼{ひらせいがん} 斜剣{しゃけん}
手鏡剣{てかがみけん} 山形剣{やまがたけん}

五本とも脇構えからの相打ちだった
真剣は重い 長く構えていると脇構えが楽だ
古くからある実戦に即した構え

相打ちは まず相手の力を凌ぐ力がなくてはならない まず「力」である 
相打ちの太刀筋を何度も繰りかえしていると
違った筋を使いたくなるが 変化した側は必ず負ける
その経験から じっと我慢する それが「根」
<力と根>が天然理心流の基本  加藤伊助師から教わる

 『燃えよ剣』  
≪実をいうと天然理心流という野暮ったい喧嘩剣法で、近藤などは一つ覚えのように
「一に気組、二にも気組。気組で押してゆけば、真剣、木刀なら必ず当流は勝つ」といっていたが、道場の試合は弱い。≫

「力」と「根」が 「気組」となったのだろう
司馬遼太郎 執筆にあたり 膨大な資料 手にしたことだろう
その中に「気組」 あったのだろう
 
初入門許された者 最初にもらう
目録免許 に「決心」の項
人は生まれながらにして器用な者と不器用な者にわかれる
だから不器用な人は人が稽古を一やれば百やれ 人が十やれば千やればよい
といい 「唯士道一息裁断の勝負」とある
これを近藤勇 こういったという話も加藤師から聞いた
「なあ〜に 剣術なんてものはな 勝負なんぞにこだわらず
常に稽古してりゃ〜いいのさ
体さへ動かしてりゃ〜いざというとき 誰だって仕事ができるもんさ
修羅場に立ちゃ〜上も下もね〜」
 
「血判神文書」も 残っていた
あらゆることが門外不出とされている
当時の人の血判は いまの世の者には想像できない
なぜ農民が多い入門者からも そこまでにして秘密を守ったか

天然理心流の秘伝
次回につづく
2024/07/27(土) 晴れ


雑感

 
話はつづく どこまでも
佐川幸義のつづき → 織田信長 →日本人の原動力 → 西郷隆盛
 
前田 → 塩田先生 腰をピッと張れと
腰の張り方がすごく大事だと
★拙者 誰に云われることなく 腰の張り 大事だと
角帯をするようになる
ゆえに 通常着 和服となる
といっても 野袴に筒袖
 
津本 →九十五歳 風呂につかりながら眠るがごとく亡くなる
★入浴中 浴槽内での年間死亡者数は四千人
交通事故死者数とほぼ同数入浴中のウトウトは失神と同じ
拙者 湯船につかるのは ぐっすり寝たあとの早朝
ぬるま湯で三十分 ほど
気をつけるのは 湯船から上がるとき ゆっくりと
 
津本氏 → 織田信長 もうちょっと生きていたら
ヨーロッパより先に産業革命をやっていた
困難にぶつかっても工夫し乗り切っていく
知恵や戦国時代のエネルギーはなくなっていない
★この対談から四半世紀たった
津本氏 享年八十九 肺炎
墓場の陰から何を思う

津本氏 → イギリス公使 オールコック 『大君の都』
その中に日本は強い 日本人一人に俺たち二、三人でかかっても負けるかもしれない
一対一では日本人の方が強いと書いてある
★祖母 『大君の都』 讀んでいたわけではないが
敗戦後少年の孫に云った
「日本の兵隊さん 一対一なら負けなかった」

前田  → いま『現代小説』に西郷隆盛をお書きになっていますが
『下天は夢か』で信長を 『夢のまた夢』で秀吉 『乾坤の夢』で家康を書かれていますが 西郷隆盛は三人と比べてみてどうですか
(これはMCのせりふ  題名『巨眼の男−西郷隆盛』)

津本氏 →  比較するということでなく 西郷隆盛 わかわからないところがある人で
生きているよりも死ぬほうへ考えが向かう
天道思想というもの 全部天命だと 沖永良部島に流されたとき論文みたいなもの書いているんです
それからあの征韓論 あれは一体何だという疑問が起きてくる
(ここでMCがの征韓論の真意 いい始めたのは大久保利通 西郷は道義心で自分が話しにいこうと  それが征韓論は西郷ということに)

津本氏 →  西郷が月照と心中する現場にいた平野国臣がそれを一部終見していて
全国の志士に伝えた 西郷とはこんな男だと
それで全国の志士たちは皆 西郷を信用した
だから六千何百人も西南戦争で戦死しても鹿児島では
今でも西郷隆盛の悪口を云う人は一人もいない
★ご先祖さん 沼津兵学校から西南戦争へ参戦
2024/07/25(木) 晴れ


皮膚の中の筋肉の動き


【「合気揚げ」という座り技があって、正座して向かい合うんです。先生の膝に置いた拳を向かいあった弟子がぐっと握って押さえつけるんです。すると何十年もやっている弟子が悲鳴をあげてふっ飛ぶんです。
 私にやっみなさいと言うんです。他の人にはなかなか拳を持たせてくれないんですけど、私は何度も持たせてもらったんですね。一瞬、畳の上にビューとふっ飛ばされているんです。あれはまっすぐの力をちょっと外すんですね。三十年習っている弟子にも絶対に教えない技、いま教わったこと覚えておかなきゃダメだよと言って、教えてくれたこともありました。私は二、三回教わたんですが、一時は覚えたつもりでも、ずぐに忘れてしまった。】

佐川幸義 相撲のテレビ 欠かせず観ていた
【千代の富士が好きだったんです。 あいつは合気が 合気とまではいかないが、あいつには教えたらわかるなと言っていました。それで非常に熱心に見ていました。】

前田 → 千代の富士には合気の素質があったんですね。体が小さくても横綱を長く張れたのも合気の素質だったんですか

【ええ、生まれもった資質、感性でしょうね。石舟斎は「一合の器に一合の水。一升の器には一升の水」と言ったんです。だからその人のもって生まれた資質がないと。武田惣角が何百人、何千人教えたかわからないけど、そのうちで合気が本当にわかったのは佐川幸義一人でしょう。やはり素質ですよ。
 佐川先生は十七歳で、合気道とは何かがわかったと言ったんです。皮膚の中の筋肉の動きと、パッと出会ったときの角度、それで決まると言いました。でもそのわかったtぉいうのは今から考えると非常に単純で、それからだんだんと進歩していって、七十歳のときに初めて合気ができるようになったと。
  それ以上に、私にはいろいろ話してくれましたけど、結局わからなかったんですよ。】

佐川幸義 津本氏に書いてほしかったんだ
津本氏の弁 
木村達夫氏 『透明な力―不世出の武術家 佐川幸雄』 刊行
書かれていることは 先生から教えていただいたこと大体同じこと
でも木村氏 二十五年も稽古している だから先生の技がわかるんでしょう
そばで見たら何もかも

文庫本の帯 「魔法としか思えない」津本陽

【塚原ト伝、伊藤一刀斎、宮本武蔵とかいう一流の剣豪、あれやはり合気ですね】
2024/07/23(火) 晴れ


「相気」


佐川幸義{ゆきよし}  津本氏に合気柔術の小説 書かせようとした
津本 → 先生の合気がわからなかった 高弟たちがわからないのですから
私にわかるわけない それで書かなかった

前田 → 養神館 塩田剛三先生と生前 二、三回 対談したことがある
先生に技をかけてもらう 自分 少林寺拳法の段 もっているですが
少林寺の決めて動きを静止するというのとちょっと違う
パッと固められたとき 痛みとかいうのはたいして感じない でも外そうとすると
姿勢がグッと崩れるんです 自分の姿勢が何だか知らないうちに自然に崩れちゃう
何でかわからない 不思議だなぁという感じでした
『武道通信』の杉山さんが『格闘技通信』の編集長のとき
塩田先生の技に驚いて これをどう説明しようかと考えて
たとえば相手を一本の綱の上に立たせてしまう状態に置いてしまうのではないか
そうすれば、どんな大男でも指一本で落とせる
津本 → 理屈ではそういうことでしょうね

そう 理屈では である
塩田剛三氏の道場 養神館をアポ無しで訪ねた
高田馬場 社から近かった 昼過ぎ 三時か四時か 
入門者 中年の男性 三人ほどいた
組み合ってから塩田剛三氏が肩をポンと手を叩くと コロンと転んだ

「合気」 元の言葉は「相気」
明治の世 以降 「合気」となる
大東流 武田惣角{そうかく}の造語であろうか
いままでの柔術の「相気」とは違うと アピールしたかったのではなかろうか

稀有な達人しか使えない神業であろう
しかし もし 「合気」にレベルをつけるとして
一から五までの五のレベルをつけるとして
凡人でも五は使えるのではないか
使っているのではないか

相手の気と合わせる  相手の気を飲む 気を払う
日常生活でも 使っているのではないか

余談だが 拙者 蚊と気が合らしい すぐ食われる
ひとより先に寄ってくる
2024/07/21(日) 晴れ


あす 武道通信かわら版 配信


驟雨{しゅうう} に 
慌てて洗濯物を取り込む主婦
ランドセルを頭に被り 慌てて走る小学生

驟雨 の驟 馬が早く走るとの意味
小学生 にわか雨(俄雨)なら知っておろう
村雨{むらさめ}とも云う  群れた雨の意味

驟雨 ひとつで 異常気象と姦しい

「日ざかりに 白く渇き 驟雨に黒くぬれる道」
城下町の道である
2024/07/19(金) 晴れ


飛んで 飛んで 飛んで……


前田 → 武田惣角{そうかく}を書いた『鬼の冠』 愛読書です
津本氏 → 大東流合気柔術に興味をもって調べていき 
武田惣角の跡を継いだ佐川幸義{ゆきよし}師範を知る
十一歳で惣角に入門 代理教授を許され 惣角と共に全国を回り長い修業 
惣角を超えたとも云われた
最初に稽古を拝見したとき先生 八十五歳 一昨年 九十五で亡くなられた
前田 → 亡くなったんですか。会いたかったなあ 創刊当時の『格闘技通信』に
会わせてくれって頼んだことあったなぁ
(MC 覚えてないなぁ)

津本氏 東京・小平 佐川道場へ出向く 筑波大助教授 木村龍雄氏を同行
木村氏 パリの合気道で外国人 教えていた 2mの男を投げ飛ばす腕前
木村氏 最初 佐川道場を訪れたとき 「どこからでもきなさい」と云われる
七十七歳 162cmの老人の胸ぐらを掴んで投げようとした瞬間 
まりのように道場の隅まで投げ飛ばされた わけがわからない
その後も六回飛ばされ 門人になった
この類の数々の逸話 紹介

津本氏 佐川道場を訪れるまでは このような話 実は疑っていた
でも この奇跡を目の当たりにし 形だけでも入門
津本氏 実際 投げ飛ばされたのか? 

話 変わって
前田 → だいぶ前 マスコミが騒いでいた人 いましたね
気で弟子を飛ばして 
弟子が一回 自分でワンステップバックしてから飛んでいる
津本氏 → 私はその“実”はよく知っているのですが 今さら云ってもしょうがない

MC 『HUMAN  BODY』の折 見に行った
弟子 ワンステップバックしてから飛んでいた
まあ 弁護するわけじゃないが
その先生 一度か 二度 成功したことがあったんだ
弟子も それを体験した それを見た
でも やろうと思ってやれるものではない
ついつい 弟子 ワンステップバック使って飛んだ 師弟愛

津本氏 → 佐川先生の合気柔術 海外で披露したら一大センセーショナルになったでしょう 先生 そのようなン売名行為 武道修業者 やるべきでないとはねつけた

やろうと思ってやれる 佐川幸義
その奥義は いかに?
やろうと思ったとき 瞬時に<無心>になれる術を心得ている

弓道体験 
一度だけ<無心>になれたときがあった わからない
その後 一回も<無心>になれなかった
ト伝/武蔵/一刀斎
瞬時に<無心>になれる術を心得ていたんだ

弓道で 知ったこと 

ト伝/武蔵/一刀斎
合気 わかっていた との話  
次回に
2024/07/17(水) 晴れ


スポーツチャンバラ


「過去は すべて 正しかった」
意味が いまひとつ わからないと
とある御仁からメール

過去を
誤ったものにするか
正しかったものするか
<いま>  いまからが決まること

別の解釈もあろうが
これが 武士が禅に魅かれた理由だ

−−−−−−★−−−−−−
中村泰三郎
【刄隠】  籏谷嘉辰氏 手ほどき受けたこともあった

【三ノ六 中村泰三郎師本流の戸山流に納得できないものが渦巻いてくる。
柄の握りが竹刀と同じ。くそ握りではない。あれも違う、これも違う。
田辺師を離れたのは戸山流斬奥伝六段斬りをいつまでもやっても仕方がない。
波返し、稲妻斬り、逆稲妻斬り、風車、霞斬り、水車など新しい技を幾つか編み出していたからだ。吾が流儀を伝えたかった。】

ここまでの経緯 ざっと
籏谷氏 三十路少し前 戸山流 小阪橋完寿師に入門
師は元陸軍将校 竹刀剣道では人は斬れぬと昭和十五年 
戸山にあった陸軍歩兵学校で軍刀操作と試斬を教えた
戦後 自衛隊へ 定年退職後 会社の寮長に
戸山流を指南 戸山流と名乗らず戸山流振興会
柔剣道の白い体操服 刀を差すベルトを占める旧陸軍と同じ

当時の試し斬りは単純そのもの
角度は関係なく左右袈裟斬りができれば一人前
逆袈裟斬りができれば上手 
一本の巻藁 表巻藁 六回斬れれば名人 
隔世の感を禁じ得ない

小阪橋道場に 中村泰三郎 徳富太三郎 ときどき巡回し 指導 受ける
小阪橋師範 転勤でいなくなる
よい先生はいないか と探していたとき
戸山流事務局長 田辺哲人師と巡り合う
師は中村師に多くの弟子の中でも腕は一番 
袈裟斬りが大変な時代 六段斬りはもちろん 片手抜き打ち 逆袈裟斬りもする
田辺師の道場へ通う 
田辺師は教えと違うやり方をしていたも 目くじら立てることもない
自分に合ったやり方なされ すぐに教えどおりになるからと 大らかな師であった

【三ノ五 ナイフによる事件が頻繁に起こる。田辺師が対刃物の小太刀護身術を興す。
刃物からの護身はまず身を逸らす。刃物を怖がっていてはまずもって失格。柔道、空手の有段者にも刃物を怖がる者がいる。血を見る怖さか。わからぬ。
刃物を突きつけられたら笑顔で返せ。刃物一点だけに集中できる。一点からだけ身を逸らせばよい。師は「小太刀護身術道」から「スポーツチャンバラ」と名前を変え、狭い日本を飛び出し世界へ羽ばたいていく。忙しい身となり、戸山流事務局長を任さられる。(田辺道場師範となる)】

ここから 前述の三ノ六へ
その前の三ノ三 
【三ノ三 戸山流が戸山流振興会 さらに戸山流居合道連盟
第一回戸山流大会 入門したてで参加するほどの腕はなく 観戦
私服刑事が十人以上  会場に張り付いていた
右翼の集まりが刀も持って巻藁を斬っていると。】
隔世の感  禁じ得ない

右翼 警戒ではない
GHQの差し金
奴ら 日本刀が怖かった
<陸軍が配給したモリブデン製の量産された軍刀>でない
江戸の世から遡る世の伝家の宝刀 軍刀仕立てしたものもあった
やつら斬味に恐怖した
敗戰の仕返し 日本刀がシンボルになる 奴らは恐れていたからだ

−−−−−−★−−−−−−
武道通信 オンライン復刻版
軍刀の操作及試斬  陸軍戸山学校 編  昭和19年発刊
昭和15年、大東亜戦争開戦1年前、
『軍刀の操作法及試斬』を刊行。17年には『短期速報教育軍刀(一撃必殺)
訓練要領』を刊行。そしてまさに時局、本土決戦の風雲急を告げる19年、この2
冊を併せたものが編まれた。これが陸軍戸山学校編『軍刀の操作及試斬』である。
2024/07/15(月) 薄曇り


人を斬るのは この五つしかない


津本氏  豚の腿は斬れたが 巻藁は失敗
一ヵ月後  再挑戦
中村泰三郎 曰く
「刀を回したら絶対 斬れない」
「刃筋は必ず立てなければいけない」
「頭上に降りかぶり ちょっと身体を斜めにして さっとまっすぐおろす感じ」
「左手の小指 親指の二本だけで握る 右手は添えているだけ それであくまで下腹で斬る」
「斬る瞬間 茶巾絞りといって両手小指をギュッと絞る」

そのとおりやったら 左右袈裟斬り 左右上下斬りあげ 横からの一文字斬り
全部できるようになる
中村泰三郎 人を斬るのは この五つしかない

巻藁 一時間で六十本 一本=十分
調子が出てきて その後  斬ってから一秒ぐらいしたらスッと落ちるようになる
津本氏 中村泰三郎との出会いから
小説の斬る場面で「手ごたえある」と書かなくなる
何の手ごたえもない 振っているだけだ と書くようになる

前田 → 武士の情けだ 峰打ちだ あれ…………
津本氏 → あれはみんな嘘です
峰(棟)と鎬{しのぎ}が一番折れやすい
少年の頃から刀を差している  武士が知らないわけない

「武士の情けだ 峰打ちだ」との嘘は どこから生まれたのか
戯作者の<武士の情け>の賛美
戯作者 少年の頃から刀を差してはいない

斬れ味伝説も 事欠かない
「髭切」 →伯耆国の名工「安綱/作
試し斬りで罪人の頭部を斬ったら髪まで斬れた
「骨喰藤四郎」 → 京都東山の粟田口吉光/作
骨を喰むほの斬味
「小豆長光」 → 備前国長船派の長光/作
小豆が刃に落ちたら真っ二つになった
「鉄砲切り兼光」  備前国長船派の兼光/作
鉄砲兵を鉄砲もろとも切り捨れた
「人間無骨」 や美濃国関の和泉守二代目兼定
人間に骨がないも同然によく斬れる

斬れ味伝説 誇張 いや嘘もあろう
日本刀信仰といったものだろう
剣 武器であり 神器でもあった

−−−−−−★−−−−−−
徳田虎雄氏  死去
「過去は すべて 正しかった」
徳田氏 人生の至言としていると
徳洲会事務所で聴く
参議院戦出馬 断るつもりで出向いたが 止めた

これ 武士の禅だと気づいたからだ
2024/07/13(土) 晴れ


武士の記憶の遺伝子


いよいよ 豚を斬ることになる
中村泰三郎 ポンと斬ったら直径10cmの骨が出てきた
もう一つは3cmぐらい
「骨が太いとの細いのと二本あるし、死んでからかなり日がたっているから硬いぞ」
と中村泰三郎
津本氏 大きく振りかぶって振り下ろす
手ごたえゼロ 大腿は二つとなり 断面を見せていた
ただ 板をたたいただけ

【前田 → 日本刀は怖ろしいほどよく斬れるんですね
スポーツ・チャンバラをやっていた田辺哲人{てつうんど}さんに会いに行ったんです。
斬れる刀と斬れない刀はこんなに違うと。巻藁を土壇の上に置き、刀をその上からストンと落とすだけ。よく斬れる刀はスーと半分くらい入ってしまうが、斬れない刀はポンと弾かれた。
津本氏 → 田辺さんは中村先生のお弟子だったと思います。日本刀の斬れ味をというのは体験した人でなければわからない。日本刀を持つと、いままで隠れていた能力が甦ってくるような気がします。】

拙者の 常套句 「武士の記憶の遺伝子」であろう

前田の 「田辺哲人さんに会いに行ったんです」
MCのセリフであった
『武道通信』創刊以前 まだ勤め人であったとき
田辺哲人氏に会いに行った
抜刀道稽古場にお邪魔した

十代の若者も多かった
「あの子(女子)の持つ刀 家から持ち出したそうですよ。よく斬れる」
記憶に残る言葉

稽古の最後のシーン  
記憶では 巻藁の上に斬らえた巻藁 20〜30cmを乗せ
ヤーとかの掛け声をかけ 刀を振り下ろす
首切りの真似  

帰り寿司屋へ招かれた
忘れ得ぬ 記憶に残っている言葉
「刃物を一番 使い慣れているのは女(主婦)です
週に一、二回 使っていては適わない」
抜刀の達人だけではなかった

−−−−−−★−−−−−−
小学生だった
祖母から包丁 研げと云われた
「包丁は 男が研ぐものだ」
2024/07/11(木) 降ったりやんだり


中村泰三郎 試し斬り速度 00.8秒


中村泰三郎 当時 七十歳
全日本抜刀道連盟/全日本戸山流居合道連盟会長/中村流抜刀家
津本氏 まず見せられたのは
茶碗ぐらいの太さの青竹をポンと置くなり
袈裟懸け 角度45度に斬る 上半分が飛び 下半分は立ったまま
次に 巻藁 左右袈裟斬り 左右上方斬り 
横から一文字斬り 一瞬に巻藁が宙に飛ぶ

米國の映画会社 撮影
拳銃の早撃ちチャンピオン0.3秒
試し斬り速度 0.1秒ぐらいと思いきや
高速度撮影したら写っていなかった
中村泰三郎の振り 00.8秒 撮影者 驚く

次に 大きな板の上に 特大の巻藁 二つ重ね 一刀両断 
一個で人間の胴 一つ

ここから 中村泰三郎に促され 津本氏の巻藁初体験
「斬れると思って斬る 斬れないと思ったら斬れない
茶巾しぼりで 手の内を締めて」
パーンと下の板を叩く音だけ 何の抵抗もない 空気を斬った感じ
次は二つ重ね これまた空気を斬った感じ
中村泰三郎 初めてにしては大したもんだ 剣道高段者でも 斬れる者は少ない

剣道で 津本氏の相手は面を打たれると目から火がでる
小手を打ったら晴れあがる
皆から嫌われたと笑う
でも 抜刀ではそれがいいんすねと

中村泰三郎 今度は巻藁を 
剣道では横面しかやったことがない
刀身が巻藁に食い込んで 刀が5mmほど曲がった

次は 豚を斬ることに
つづきは次回

−−−−−−★−−−−−−
剣道をはじめる前 抜刀道場へ
模擬刀で型の稽古 半年ほどして 初めて真剣で巻藁斬り
真剣を持ったのは初めて
天然理心流十代 平井泰輔師範 何と云ったか覚えていない
右袈裟斬り 斬れた 巻藁上の方が床に落ちた

ガキ大将の頃 チャンバラで何人も斬った
巻藁 子分どもに見立てたのか 定かでない
2024/07/09(火) 晴れ


日本刀の斬れ味


津本陽
サラリーマンを辞め 三十半ば 郷里 和歌山市に帰る
大地浦 伝統捕鯨を材に『深重{しんじゅう}の海』で直木賞
剣豪小説でなく純文学
受賞後  実在の紀州藩士をモデルにた 『闇の蚊龍{こうりゅう}』
読んだ河口松太郎 『オール読み物』編集長へ
「津本陽に剣豪小説書かせろ」とハガキ

前田 → 『隼人の太刀風』『明治撃剣会』『塚原卜伝十二番勝負』 など
立て続けに出されましたね
前田 読んでいたんだ

津本氏 剣道は子供のころからやっていたが
日本刀で斬ったことなかった
(後述 子供のころ 進駐軍に没収される前 家にあった脇差で庭木を斬りまくった)
巻藁とかの抜刀はしたことなかったとの意味だろう)

薪割りの経験はある
剣豪小説を書きはじめたとき
斧で薪を割る瞬間の手ごたえ ぎゅつと粘りがある 
そこをバーンと叩く
そんな手ごたえを書いた

山本七平 「日本刀は斬れない」と どこかで書いていた
前田 ここで補足 「陸軍が配給したモリブデン製の量産された軍刀」 
コレ MCの筆入れだろう

『小説・新撰組―虎狼は空に』を書きはじめた頃(昭和59年)
剣豪小説を書きはじめて四年目ほど
日本刀の斬れ味を知りたくなる

文藝春秋の編集者に 「日本刀の斬味を試したい」と何気なく
何を斬るかとなって
巻藁とか竹じゃなくて 生き物を斬った方がよいということに
津本氏 新撰組史料にあった
土方歳三が催した 罪人の遺体 試斬会を思い出したのではないか
豚の腰から膝までの片腿(18s) 車に積んで向かった先が
中村泰三郎

つづきは 次回

−−−−−−★−−−−−−
拙者 津本陽 『下天は夢か』 しか読んはいなかった
読んでいたのは藤沢周平
他は司馬遼太郎 『梟の城』『燃えよ剣』

なぜ 時代小説  取り上げたか
そのときの 気分だったのだろう
時代の空気(精神) 読んだのだろう
サムライ・イレブン サムライ・ジャパン
が流布したころだった
2024/07/07(日) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


都知事選挙戦も あと二日

あのときも 7月も暑かったな〜
東京 7月平均気温 28.5℃ 最高気温 38℃

二十三年前
熱中症  熱中症 と大騒ぎすることなかったな〜 
2024/07/05(金) 晴れ


自画自賛


十ノ巻 
【時代小説礼讃!懐に時代小説、心に日本刀】
論客対談 津本陽

≪『時代小説』とは、特定の時代や時代背景を舞台にした小説であり、
物語の中でその時代の風俗や文化、歴史上の出来事などが描かれます。
一方、『歴史小説』は、歴史上の実在の人物や出来事を基にした小説であり、
その時代の歴史的な背景や事実に基づいて描かれる。≫

こんな後出しジャンケンの杓子定規の区分けなどどうでもよいが 
ここでは「剣豪小説」とした方か的確だった

論客対談 津本 陽
【礼讃!懐に時代小説、心に日本刀】
よいキャッチコピーだ 自画自賛

論客対談のタイトルもよい
【歴史の流れよりも ひとりの男の夢を追う ――津本流極意】
自画自賛

◆編集部前口上
「時代小説を読む」をやろうとなったとき、歴史小説と時代小説の定義が問題になった。
出版社の時代小説、歴史小説と銘うったシリーズ刊行物を見ても、その区別は定かでない。そうか時代小説の代表的なものが歴史もので、剣豪、捕り物、市井ものは時代s小説の一ジャンルだと納得。
前置きが長くなった。剣豪、歴史ものの大御所にご登場願った。我が編集長は大のファンである。池波、司馬、藤沢ら巨星が逝った今、津本陽氏が追う任は大きい」

最初に「編集部前口上」を読んでいたら 前置きは不要であった
編集部・拙者よくわかっていたのだ  
自画自賛

時代小説を読むをやろうと前田に告げつると
では 対談は津本さんをと前田
大御所に どうアポとったか記憶ない
名文の依頼書 送ったのだろう よくぞ出ていただけた
自画自賛

自画自賛は 胸の中に収めてきたが
寄る年波には勝てずか しゃあしゃあと吐く(笑)

第一中見出し
「日本刀の斬れ味を試す 人間の胴は巻藁一本」

つづきは次回に
2024/07/04(木) 晴れ


四次元


♪探しものは何ですか?
見つけにくいものですか?
カバンの中も 机の中も
探したけれどみつからない♪

手元にあった
武道通信九ノ巻
見つからない
机の上も 別書斎にも
消えた…………

よくある <ものわすれ>ではない
しまう場所を変えると 見つからなかったり
よくある
半月 一ヵ月して見つかる よくある
この手でない 消え方である

結論
異次元へ飛んでいった
「幅」「奥行き」「高さ」の三次元でない 異次元へ

素粒子の世界では この世の世界は四次元
「幅」「奥行き」「高さ」に加え
四番目の次元として「時間」 

この「時間」 いまある時間だけでなく
過去をも行き来するのではないか
<記憶の引き出し>も四次元の「時間」か

九ノ巻 刊行の平成十二年へ
飛んでいったのだろう

仕方が無い  次回
十ノ巻 【時代小説礼讃!】へ参ろう
2024/07/02(火) 晴れ


火葬場の煙


パイプの紫煙  
早朝の無風の中 漂っていく
木々の葉を揺らす風は見えないが
紫煙 漂わせる  大気 流れている

どこかの映画 こんなセリフ
「煙草は人と同じ 煙になって値打ちがわかる」
拙者の火葬場の<煙> 値打ち ナンボだろう

土葬文化のニーチェ パイプ吹かしていただろうか
もし 吹かしていたら
パイプの紫煙に 何をみていたのだろうか
紫煙は消えていくが また吹かせば 漂う
 「永遠回帰」  「永劫回帰」
インスピレーション したのではないか

ニーチェ
煙になった値打ちなど どうでもいい
煙になったあとの評価など どうでもいい 気にするな
いまの一瞬一瞬を充実させて生きろ と

このセリフ
その昔 武士が《禅》から みつけたセリフだった
火葬場の<煙>など気にするな
いまの一瞬一瞬を生きろ
2024/06/30(日) 晴れ


切亜断欧


前回述べたのは 中見出し一
西尾版「ツアラトゥストラ」  
中見出し二  切亜断欧の孤独
では こう記している
古代から日ノ本にとって文明の師匠であった支那の原理を
法家の冷酷な厳罰主義と見る
近代以降 日ノ本の目標であった西洋の その闇の原理を
三百年にわたる軍事革命と独善的な審判思想に見える

その上で
戦前戦中の空虚な理想――東亜一如とか五族協和等々――
を排することでアジアとの観念的な結びつきを切って棄てると同時に
戦後の空虚な理想――平和主義とか平等な市民社会等々――
をその背後にある国際社会のパワーポリティクをあばくことで断罪し
もって福沢諭吉の「脱亜入欧」ならぬ「切亜断欧」を説いて
孤立無援の戦略的立場を築こうと云う

それのみ 支那と欧米の闇の原理を抽出してみせるだけでなく
日ノ本人の漢意{からごころ}をあえて打倒するため
みずからが その闇の原理 西洋の闇の原理を身にまとってみよ
とまで云う
とりわけ西尾氏 筆が勇みたつのは
日本と韓国/朝鮮との近代史うぃ捉え直そうとする章においてである

【小杉 → 「彼ら西欧人の冷酷無比な、しかしも合理的な、それでいて異民族に恩恵を与えているようなスタイルをとりながら、さらに文明のオブラートで上手に包み隠して、あたかも上位文明を与えてやっているんだから、かかる処置は当然だといわんばかりの対応をして、利益を収奪しながら恬{てん}として恥じないスタイルは少し見習ったらよい」とか、「イギリス人の、自分の悪をもどこ吹く風と受け流す飄々とした語り口を身に着けることである」とか、「アメリカ人の、自己主張すべきときはなんのためらいも、けれんみもなく胸を張って自己中心の世界像を描き出す物怖じしない態度を学ぶことである」とか言うのがそれである。】
−−−−−−★−−−−−−
USA 「東京裁判」 独善的な審判だったとの謝罪声明
出すの いつの日か

「安楽死」は神に背く行為だったが
どこ吹く風と受け流し
オランダ/ベルギー/ルクセンブルク/スイス/カナダ
そしてUSA(6州)  「安楽死」OK

いまの世の日ノ本 文明のオブラートで
「安楽死」させた医師は殺人罪
2024/06/28(金) 雨


自由であることに耐えつつ

本稿 読者から
<ニーチェが「ツラトゥストラはかく語りき」を書いた家>
との写真が送られてくる
「数年前、スイスのリゾート地、サンモリッツに行きました。
そこから少し離れた小さな村にニーチェが「ツラトゥストラはかく語りき」を書いた家が残っていました。すぐ裏が山で目の前が湖です。空気が冷たく清澄で、太陽がとてもまぶしい土地でした」

白壁と明るい土色の屋根 白い煙突
九部屋ある ベランダに真っ赤な花
入り口のドアから長い白い石畳
背景 木々に囲まれている 
民宿といったところであろうか 
このどこかの部屋にニーチェ 滞在した
いま ニーチェの記念館、「ニーチェハウス」となっている
多くの観光客 訪れるのであろう

−−−−−−★−−−−−−
【小杉 → その意志とは、西尾氏が本著で繰り返し強調するとおり、中国と欧米に対する日本人の漢意{からごころ}をあえて打倒せんとするバッションであるが、この心情は、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』において、生命の混沌としたエネルギーであるディオニュソス的ものを現代に甦らそうとして、ソクラテス以降の論証的な知のいとなみであるアポロン的なものあえて打倒しようとした意気に通じるし、その際、ニーチェがとった態度、すなわち従来の古典文献的な研究態度から神話的な認識方法への転換もまた、本著の縄文文化や日本語の成立をめぐる一連の考察の中に生かされているのである。】

補:
ディオニュソス → ギリシャ神話で、酒の神。もと、北方のトラキア地方から入ってきた神で、その祭儀は激しい陶酔状態を伴い、ギリシャ演劇の発生にかかわるともいわれる。(英語 → バッカス)
アポロン → 古代ギリシアで崇拝された芸術と知識の神

【小杉 → 西尾氏が、本著を締めくくるあたって、ついに神仏を「信じることのできない時代に立ち至った、人間の悲劇の前で立ちつくしている自覚をもって、閉じなければならないのは遺憾である」、と述べたのは、苦渋の認識をのみこんだ人間に特有の恥じらいが、そう言わせたのであって、彼の真意はその直前の文にこめられている。
すなわち、存在の根源的不安に抗して、自由であることに耐えつつ、毅然と立っていられる人間になろうではないか、という秘めたる呼びかけがそれである。その自覚に立って、人間に神になれと要求したツアラトゥストラの「超人へのいざない」が『国民の歴史』をつらぬく通奏低音なのである。それを大仰に奏でないところに、近代人の含羞{がんしゅう}がある。】

−−−−−−★−−−−−−
西部邁{すすむ}氏
「武士道というは死ぬこことみつけたり」に
近代人の含羞などなく
《存在の根源的不安に抗して 自由であることに耐えつつ
毅然と立っていられる人間》をみた
十三ノ巻
特集 武士道とは― 現代日本のモラル・マインドを求めて  
●生命は虚無の根 ――それを断たんとした武士道の冒険
西部 邁
2024/06/26(水) 晴れ


『ツァラトゥストラは かく語りき』


小杉英了さんの『国民の歴史』  
書き出しの一句
【一言でいって本著『国民の歴史』は、西尾幹二氏の『』ツァラトゥストラ』である。】

ツァラトゥストラとは?

日ノ本歴 鹿鳴館落成した明治一六年 
ニーチェが書いた 小説仕立ての哲学書の主人公
山奥に住んでいたツァラトゥストラ
下山し  人々に語りかける

題名 『ツァラトゥストラは かく語りき』
語る その一つ 「ルサンチマン」
「妬み」や「そねみ」だけでない
このルサンチマンこそ <神>を作り出した原因だと云う

その二つ  「ニヒリズム」
日ノ本語訳 「虚無主義」
ツァラトゥストラの「ニヒリズム」
<この世に絶対に正しいもの 絶対に良いと思うもの
そんなものは何もない>
ニヒリズムを脱却する過程で出てくるのが

その三 「永遠回帰」
この世界 全てのも 大いなるものも 卑小なものも
まったく同じように永遠にくり返される

キリスト教的な時間
始まり(天地創造)があり 終わり (神の国の到来)があって
歴史はこの終点を目的として進行する
だが ツァラトゥストラ
永劫回帰する世界には それ以外の世界はなく、
そこには始まりもなく終わりもない
時間を直線で考えるのではなく 円環と云う

彼岸的な神 神の国 この世ではない理想の世界があるならば
それが人生の目的となり 人生の様々な物事は意味を与えられる
しかし 永劫回帰 到達すべきものはない 究極目的もない
いかなる世界内の物事も意味 価値もない

ツァラトゥストラ 思案する
全てのものは無意識に力の及ぶ範囲を拡大しようとしている
(コレ 宇宙の法則)

永劫回帰を乗り越えるのはこれだ
「超人思想」だ
虚空に一人立つ意志の力だ

−−−−−−★−−−−−−

虚空に一人立つ意志の力を持つ者を
都知事選立候補者掲示板から探す…………
2024/06/24(月) 晴れ


虚空に一人立つ意志の力


【ホームページ掲示板「思考の無名刀」
私たちは『国民の歴史』をこう読んだ
■西尾幹二著『国民の歴史』への感想が寄せられました。ご紹介します。】

小林よしのり氏との論争もあり
掲示板に多くの意見が投稿されたのであろう
さて 投稿ページの前に掲載された
小杉英了さんの『国民の歴史』

【『国民の歴史』を読む
秘められた意志
――ニーチェを思わせる虚空に一人立つ意志の力を人々の心の中に呼び覚まそうとした「超人のいざない]」が『国民の歴史』」をつらぬく通奏低音である。】  

小杉さん  二ノ巻から三/四/五/六/七/八と
寄稿いただいている  
三島由紀夫にも東洋思想にも教育思想にも織田信長にも吉田松陰にも民族の思想にも触覚を伸ばしておられるからだ

ルドルフ・シュタイナー研究家として ニーチェも“通過”している
そう 「通奏低音」 
小杉さんの原稿で初めて出会う

小杉さん 十二年前  小説を書き 霊を扱う何とか賞 受賞
本 送られてきた記憶
その後も 霊に関する小説 書いておられるようだ

小杉さん  巻末 こう閉じた
【私自身は、『国民の歴史』」の観点に、全的に賛同するものではない。
けれども、ニーチェ没百周年にあたる二〇〇〇年の今日、本著をニーチェの思想を
ふまえて読むことの意義は、限りなく大きいと思うものである。】

西尾幹二氏にニーチェを重ねる

つづきは次回
2024/06/22(土) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


きょう 武道通信かわら版
6/20 2024 通算574号 配信日

きょう 東京都知事選 公示日
立候補者 何人になるのか

あの 富士見通りに入る
三井住友銀行 前の候補者ポスター板
貼り切れるのであろうか
2024/06/20(木) 晴れ


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