■ナショナリスト 洪 思翊{こう しよく}
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「前口上」でMC(Master of Ceremonies)拙者 こう記している 《論客は中近東、編集長はアメリカと御両人とも異国での長期滞在で早くから決まっていたものの対談日は11月3日となった。この日は文化の日、もとを正せば天長節、明治節。日本の激動の転換期を象徴する日である。十三回に及ぶ対談で、初めて同世代同士の組み合わせとなる。若い分だけ熱かった。編集長、在日の、その胸中を初めて語った。》
同世代同士の組み合わせ 木村氏 四十四歳 前田 四十一歳
坂井三郎氏の話から三島由紀夫へ そして 洪 思翊{こう しよく} 【前田 → みんな自分の考え、基本デザインを持っていない。アメリカがどうの、中国がどうのだけ惨憺なるものですよ。自分、山本七平さんみたいな人、好きなんですが、いなくなりましたね。ああいう人。】
【木村 → そう、洪 思翊がフィリピン絞首台に着くとき、黙って逝った。 それに較べ山下奉文は----と書いています。日本の大将より洪さんの方が日本人らしく振舞ったと。】
洪 思翊 朝鮮語読み ホン・サイク 戦犯裁判 一切沈黙を守った 山下奉文{ともゆき} 戦犯の理由に抗議したのだった 死刑台では あっぱれな佇まいであったこととを かつてのMC 弁明しておく
洪 思翊 朝鮮語読み ホン・サイク 陸軍士官学校卒業後 陸軍大学校へ 日本統治時代に陸軍大学校に入校した朝鮮人 李垠/桃山虔一(李鍵)/李鍝と 洪だけで 洪以外の三人 皇族同様の優遇を受けた王公族
陸軍大学校 卒業後 参謀本部に配属 戦史編纂にあたる 昭和四年 陸軍歩兵少佐 陸軍歩兵学校教官を経て 関東軍司令部に配属 満州国軍に顧問として派遣される 奉天軍官学校(陸軍士官学校に相当)の指導に当たる 満州国軍将校への門戸を朝鮮人移民にも開放 陸軍歩兵中佐となり、1936年(昭和11年)まで関東軍司令部参謀部に
洪 旧韓国軍・日本陸軍士官学校時代からの大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われる が 朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず いま立ち上がることは良策ではないとして断る だがその一方 旧大韓帝国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち その家族を自費を以て支援した 創氏改名が行われた時 最後まで改名を行わず 姓の洪をそのまま氏としたまた、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を生涯身に付けていたとも言われている。
昭和十六年 少将に進級 華北の八路軍を相手に戦う 昭和十九年 比島俘虜収容所長に赴任 終戦を迎えた 皮肉な事に、これが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった 終戦後は、故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だった
洪所長 連合国軍に捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われる 他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行ったが 自らについては一切沈黙を守る 死刑判決を受けマニラで絞首刑
辞世の句 「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」 「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」 なぜ 沈黙を守ったか 辞世の句に書き留めたような気がする
洪 思翊 日ノ本軍人以前に 祖国のナショナリストだった
2025/01/09(木)  |
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