■終章
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隆慶一郎 『鬼麿斬人剣』で 何を描きたかったのか
ここは小川氏の言葉に 耳を傾けよう 【この作者、学徒兵の一人であった池田一郎は岩波文庫『葉隠』で、死とは何かを深く問いつめる。 「一番勝負氷柱割り」で、高崎藩勘定奉行野末頼母{たのも}との対話に三十数年後の『葉隠』の思想が語られる。 「刀は人を斬るものじゃない。武士ということを示す飾りにすぎない」という 頼母の言葉に、鬼麿は心の中で「刀を抜くことは、確かに一生に一度あるかないかのことだ。だがその一生一度のために、常に身構えているのが武士ではないか。一生一度の闘いに不覚をとれば、たとえ生命は助かったとしても、その男の武士は死ぬ」と呟く。 死とは主体として死ぬばかりでない。「士道不覚梧」もまた死である。この言葉は、三島由紀夫の思想にも通じる。このエロスの陶酔を昇華させることを描いたのは小説『憂国』であったが、隆慶一郎は、この『鬼麿斬人剣』でどう描いたか。順を追って読んでいこう。
清磨は逃亡の旅で併せて十二振の刀を打っている。このうちで金沢と三国(福井)、そして最後の丹波亀山で鍛えた脇差し、それに三国の芸者置屋豊田屋の女将お吟に与えた短刀と周山街道深見峠を下った山国村の猟人{またぎ}の娘に与えた薙刀造りの山刀の一振は、清磨らしい本造りであった。残る七振はずべて鬼麿の手で折られた。 五振の本造りの中で心を許した三国の狭客五郎蔵に贈った一尺八寸五分のほかは、みな清磨のシャーマンのカリスマ性に魂を魅了された女性たちのために鍛えた三振であった。 刺客に追われ死と背中合わせの逃避行の旅の束の間の愛だが、その愛に愛された女性たちに生涯に渡って刻印される。ここには他の時代小説家に見ない隆慶一郎の浪漫的な恋愛観が語られていた。
終章「八番勝負眉間割り」の中の有栖川宮の落胤、かやの里のお仙と、ここで打った焼身{やけみ}の脇差を見ることで、鬼麿は師匠が萩に向かったかの秘密を知る。脇差は出雲鋼であった。出雲路をたどり出雲鋼を求めて長州萩にたどりついたのであった。 「かやの里」。そこには有栖川宮の庶腹の息女を護り、現世の風塵の届かぬ民族学の聖域である。ここを終章に置いた構成はやはり非凡ではなかった。 古代の倭国から面々と続いている民族感情を巧緻な形で演出して見せた。 この異色作家はかつてのフランス文学者池田一郎であることは知る人ぞ知る。】
−−−−−−★−−−−−− 映画『The Bodyguard(ボディガード)』 サムライ好き主人公(ケビン・コスナー) 日本刀の刃を上にスカーフを落とす 二枚になって落ちる ありえない ハリウッド版 妖刀伝説
2025/09/11(木)  |
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