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背番号3


見渡せば 男子みんな「背番号3」
ファン以上の存在
天覧試合 九回裏逆転ホームラン
中学一年だった テレビで観ていた
日本テレビ独占中継 だが日テレ 映らない地域ある 
で NHK中継も許可  
異例の処置 <天覧>の威信

「背番号3」 巨人入団した 昭和33年
ベースボール 月刊誌から週刊誌へ

週刊ベースボールで「背番号3」 引退記念号つくる
近くの旅館 宿泊作業
昼間は週刊 夜は 引退紀年号
宴会場の大広間 真中に 年代別に「背番号3」写真 並べる
周りに布団ひく ほぼ徹夜作業

売れに売れたそうだ
週刊ベースボールスタッフに内緒のボーナス支給

「巨人軍は永遠に不滅です」
ゴーストライターは報知新聞の〇〇さん

昭和100年 
「天皇が天皇であった昭和は終わった」
誰か云わないかな
2025/06/04(水) 晴れ


円覚寺弓道場


「パリは燃えているか」(ヒットラー)
いや 「パリは荒れている」(サンジェルマン初優勝騒動)
優勝祝賀パレードが商店街打ち壊し騒動となる
パリには禅は根付かなかったらしい

さて こちらは 鎌倉の円覚寺 
栄西禅師 開祖の「鎌倉五山」と称される禅の教え臨済宗の寺
五山は格上から 建長寺/円覚寺/寿福寺/浄智寺/浄妙寺

円覚寺 北鎌倉駅 鎌倉方面の下りホームの出口をでるとすぐ目の前
正式な参拝の順路を行くと徒歩三十分
(拙宅から射徳亭 ゆっくり歩いて二分 すこし早足で一分)

アルディ州の道場をみた 須原和尚
「帰ったら円覚寺に弓と禅の道場 建てたい」
北島師 「ひと肌 脱ぎましょう」
下見にでかける
「すずめのお宿」と呼ばれている閻魔堂を建て替え弓道場にしよう
計ること 矢道の28メートルは充分 取れた

荒れた庭の隅に矢坂地蔵と呼ばれていた石碑があった
縄で洗うと文字が讀めた なんと鎌倉武士の鎌倉権五郎景政
相模国鎌倉郷を本拠とした平安末期の武士
後三年の役 現在の秋田県横手市にあった金沢柵(かねさわさく)城
源義家 冬が本格的になる前にどうにか攻め落とそうと
坂東武者たちに突撃を命じる

その時に いの一番に駆けだしたのが 鎌倉景政
しかし 突撃した兵は向こうからは丸見え 
先頭を真っすぐに駆け抜ける景政めがけて矢が飛んできた
なんと右目に深々と刺さってしまう
けれど運よく致命傷には至らず
景政は邪魔とばかりに刺さった矢を折って射返す
すると見事敵に命中 敵兵を射殺した
そして 本陣へと引き返した所でバッタリと倒れれる
そこに寄って来た家来 刺さった矢を引き抜こうとすると
景政 「武士が矢に斃れるのは覚悟の上 
顔を踏まれてまでも生き延びたくない」

北島師 閻魔堂を建て替えの意義 肝に銘じた

北島師 ヘリゲル夫人からの手紙もらっていた
「主人と私は 日本の弓を手にして 第二の人生を知ることができました
主人の弓が鎌倉の由緒ある場所に飾っていただけることは
亡き主人も喜んでいるでしょう」

次頁に あの オイゲン・ヘリゲルがズボンとカーディガン姿で
的に向かって弓を引いている写真が掲載されている 昭和四年とある
この弓であろか

さて 工事費を見積もった 予算は三文の一しかない
やめるならいまのうちだ」 と一瞬 過ぎったが
そのとき ヘリゲル夫人からの手紙も過ぎった
損得無しでやろうと決めた

−−−−−−★−−−−−−
拙者 円覚寺弓道場 訪ねたことがあった
どこかに 北島師への感謝の言葉が記されていた
2025/06/03(火) 晴れ


南フランス「安沢平次郎追悼射会」


安沢平次郎  癌におかされていた
オイゲン・ヘリゲルの墓参りをしたと
北島師 そこで
鎌倉・円覚寺須原和尚 全日本弓道具協会会長小沼英冶らの協力のもと実現
安沢平次郎の願いと云われれば 弓道界の大物も動いたのだろう

ヘリゲルの墓の前で
ヘリゲル夫人と並んだ安沢平次郎の写真がこの頁に掲載されている
北島師から借りた
タイトル頁の「安沢先生射型 昭和38年 十段昇格祝賀射会にて」も

帰国したその年 
「自分が死んだら 安沢がここで弓を引いていたことを
何かの形で残してくれ」
昭和四十五年二月十七日夕方 
「皆さんにはお世話になりました さようなら さとうなら」
その後 意識不明  十八日夕方 没 享年八十二

遺品の中から 安沢自筆の「射道の本質」
生前 小冊子として印刷されていたもの
昭和四十五年 「射徳亭」を版元として刊行
して 三十三回忌を期して再出版した

墓参りのあと 
ヘリゲルで著書で和弓を知った欧州人との弓を通じた交友 生まれる
昭和四十七年二月 安沢の命日にヨーロッパ弓道連盟が結成
翌年の二月十八日 ヨーロッパ弓道連盟主催
「安沢平次郎追悼射会」 
南フランス・アルディ州へ
山の斜面を利用した弓道場と座禅の道場があった
招待状受け 円覚寺須原和尚と出席
その弓道場に 
安沢が書いた「無心」を染め抜いた的場の幕を持参しプレゼント

アルディ州へ行く前 再度 ヘリゲルの墓参り
夫人と再会 ヘリゲルの遺品の弓と巡り会う

遺品の弓 持ち帰り射徳亭に飾った
そしていま円覚寺に収められている
その経緯は 次回に
2025/06/01(日) 晴れ


阿波研造とオイゲン・ヘリゲル


【日々、弓道に励む若い方々に安沢平次郎先生のこと、また弓友であったオイゲン・ヘリゲル博士、お二人の師であった阿波研造先生のことをお話ししておきたく筆をとった。】

その前に 安沢平次郎との出会い
昭和三十一年ごろ 安沢平次郎 国立からさほど遠くない昭島
昭和飛行場道場に週一で教えに来ていた
それを聞き 北島師 その日に通い 稽古を受け 入門を許される

拙宅から徒歩一分ほど その道場はある
つまり こうだ
【先生がいま住んでいる処は、何かと不便であったので、当時、建設中だった家に先生をお迎することにし、敷地内に先生の道場を建てた。先生は「射徳亭」と命名した。これで私も毎日の様に先生のところに通い稽古ができるようになった。しかし、そのとき一番がっかりしたのは家内であった。「家族で住むことを楽しみにしていたのに、出来たら人に貸してしまうなんて」と言っていたが、私のわがままを許してくれた。今は亡き家内であるが、いま私があるには家内の支えがあったからこそである。話が逸れた。】

「射徳亭」は駅近くの北島弓道場から徒歩十二、三分。建てたばかりの家に
安沢平次郎を住まわせ、庭に弓道場を造ってわけだ
拙者も「射徳亭」で何回か射た 二人立ちの幅だった

古参の道場生が語っていた
「奥さんが亡くなられてから先生 偏屈になった」
もともと頑固な人であったろう
奥さんが<先生>と弟子たちの間を取持っていたのだろう

話が逸れた
阿波研造の名は ここを訪れる御仁なら周知のことだろう
阿波研造に射道を学んだ ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲル
帰国した1941年(昭和十六年) 
"Die ritterliche Kunst des Bogenschiessens(騎士的な弓術)
と題した講演を行う
1948年 ヘリゲル自身が執筆した
『Zen in der Kunst des Bogenschießens(弓術における禅)』が出版
英訳 ポルトガル語にも翻訳され
世界に 日ノ本の弓道を伝播した

あのシーン 邦訳『弓と禅』に書かれている
オイゲン・ヘリゲル 弓術を研究することで阿波に弟子入り
狙わずに当てるという阿波の教えには納得できない
「本当にそんなことができるのか」と阿波に問うた
ならば夜九時に自宅に来るようにと

真っ暗な自宅道場で一本の蚊取線香に火を灯し 的の前に立てる
線香の灯が暗闇の中にゆらめくのみ 的は当然見えない

阿波は矢を二本放つ
甲矢(一本目) 的の真ん中に命中
乙矢(二本目) 甲矢の矢の筈に当たり その矢を半分に引き裂いていた
暗闇でも炸裂音で的に当たったことがわかったと
オイゲンは『弓と禅』において語っている
乙矢の状態 垜{あづち}側の明かりをつけてわかったことだった

この時 阿波 云う
「先に当たった甲矢は大したことではない
数十年馴染んでいる垜(あづち)だから
的がどこにあるかあなたは知っていたと思うでしょう
しかし 甲矢に当たった乙矢・・・これをどう考えられますか」
とオイゲンに語った(オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』より)。

オイゲン・ヘリゲル
騎士道の武術が消滅した欧州だが
日ノ本では 武術が芸術の域に達しで残っている
それに驚き 和弓へのめりこんでいった
2025/05/30(金) 雨


<無心>の境地


【弓道から射道へ  北島芳雄】
副題がついている
『大射道』再出版によせて

北島八段 師であった安沢平次郎十段 三十三回忌を迎え
師の著書を再出版した
【関係各位に贈呈し、また北島道場門下生に配った。残部を安沢先生を懐かしむ全国の弓道家にも読んでいただけたらと思い、門下生の杉山君の会社(杉山頴男事務所)を通じ販売したところ予想を上回る反響があった。その中に多くの若き弓道家がいることを聞き驚いた。これこそ安沢先生への何よりの供養と思うと目頭が熱くなった。】

日本武道館が刊行している『月刊武道』に『大射道』再出版の知らせを兼ねた書評を持ち込んだ
ベースボール・マガジン社のころから編集部と懇意にさせていただいていた
その反響がすごかったのだ
『武道通信』編集部の電話 鳴りっぱなし

HPで注文のお知らせも『月刊武道』にしていたのだが
ネットとは無縁な高齢者は電話で注文
安沢平次郎の名の威力は当然だが
かれら<弓道の本>に飢えていたのだ

『克つための弓道 ――的に克つ、己に克つ』
販売部が全国の弓具屋にダイレクトメールした
凡そ 9割の店から注文がドットきた 
販売部 弓道の本 売れるんだと知った
拙者が退社してから新装版がつくらっれた
拙者の手元に送られてきた

弓道は 剣道/柔道と違い 相手がいない
相手は 動かない 無言の 
直径的36cmの28m先の的

拙者 居合/弓道/剣道 カジったが
弓道で<無心>の境地とは これなのか を体験した 
それは弓道だけだった

さて 次回
安沢平次郎とは 何者であったのか
2025/05/28(水) 晴れ


村川さんを了承させた ひと言


村川さん 断った理由
「わたしごときの者が 本を出すなど」
拙者流に 村川さんの本音を云うとと
「弓道連盟から お前 いつから偉くなった」と お叱り

出版部へ来て 弓道関係書 
初心者用の技術指導シリーズの中の一冊
その著者に尋ねると 弓道連盟から お前書けと」

そう ここで想い出した
ベースボール・マガジン社入社したと実家に連絡すると
父から「○○先生の本があるから送るようにと」
一階の品出しに行くと あった 新書版の大きさ
もらっていきます ハーイ で父に送る

○○先生 父の弓道部の顧問だったのだ
戦後 出版されたのだろう 

大日本武徳会 解体 戦後の日本弓道連盟が認めたのであろう
○○先生 傑物だったのだ ゆえに“凡”旧制中学弓道部を
大日本武徳会京都会館まで連れていけたのだ

村川さんに断れたが 拙者 あきらめなかった
村川さんに こう云った
国立の弓道場で一番懸命に努力しているのは
三段 四段の方々です
弓を習いはじめた者への弓道書はありますが
三段 四段 その上を目指す
上級者の書は一冊もないのです

これが村川さんの胸に突き刺さったのだろう
村川さん 「わかりました 破門になるかも知れませんが出します」

『克つための弓道 ――的に克つ、己に克つ』
いいタイトルだ
ロクな弓の引き方は出来なかったが 題名は“よく引けた”

後日談:
英国弓道連盟とつながりがあった知人から
「村川さん 英国に来てほしい」
村川さんに 伝える
村川さん 「行きます」
数日後 弓道連盟から電話 「お前 行くのか」
村川さん 「行きます」

知人から聞いた
英国弓道連盟 本家日本弓道連盟に顧問を依頼すると
“老体”が来る
英国弓道連盟 現役に来てほしいかった

談余:
拙者 道場へ通っていた頃
女子の袴には腰板がついていなかった
拙者の野袴 腰板がある
僧の作業衣 作務衣{さむえ} 腰板はない
「さむえ よく似合いますね」 とお世辞を云われる
わざわざ説明するのも面倒などで 笑みで返す

そのむかし 腰板のある袴は武士しか着けられなかった
僧の 作務衣{さむえ}には腰板はない
「さむえ よく似合いますね」 とお世辞を云われる
わざわざ説明するのも面倒などで 笑みで返す

ポルトガル人がやってきた 彼らのズボン あれ履きやそうだな
袴風に仕立てた 
カルサン袴と呼ばれた ポルトガル語のズボンcalça(カ-ルサ}からだ
まあ武士のジーパンといったとこころだが
武士しか着けられない 腰板がついている

弓をとっても 女子は武士にはなれなかった

さて 次回 本題
【弓道から射道へ  北島芳雄】
2025/05/26(月) 晴れ


弓との縁


著者名の横に肩書/履歴
著者名といっても 拙者がゴーストライター

北島芳雄{きたじまよしお}
大正元年生まれ。国立弓道場「射徳亭」「修倫亭」道場主。
教士八段。著書に『射道―我が師の教え』『道ひとすじ―弓と事業』
『宮大工を志して』など。

国立駅南口からの電車沿いの道すがらに弓道場があったとのは知っていた
駅から三、四分のところだ

帰郷した折 床の間に二張(二本)立てかけてあった
「一本 もらっていくわ」
国立の弓道場がチラついたからだ

亡父 旧制中学から弓道やっていた
いまの世で云う 高校インターハイ弓道
試合会場は京都 大日本武徳会 武道の殿堂
(敗戦後 GHQによって潰される)

16歳か17歳の父 大日本武徳会弓道場 的に向かって弓を引き絞る
とのとき 太鼓の音 皇太子(現・上皇)がお出ましになったからだ
「太鼓の音で外した」と父
それが予選か 決勝戦かは不明

国立の弓道場には「北島道場」との看板があった
道場主 稽古をつけることはなかった
すぐ脇の私邸にいた
門下生は 入るとき挨拶し 帰りにも挨拶だけ
本業は大工さんだった 敷地は広く 奥に材木置き場と作業場
息子二人も大工さん 長男は六段 三男は弓は取らず
若いときやめたと云う 父の指導に反発したのか
そんな話を 本人から聞いた記憶
次男は別の職に たまに高級車に乗って 弓を引きに来る

いま 懐かしんで書いている だから余計なことも
そう 父から弓がけ(かけ)ももらってきた 大日本武徳会で引いたかけだ
そう 退職し 巻藁{まきわら}を 隣の大工さんに つくってもらい 
射ていたらしい

弓愛好家の屁理屈
「かけ」との名称は「かけがえのない」から
一生 使うもの 人には貸さない 
他人{ひと}のかけを使うと当たらない
拙者 一度 経験がある 確かだ 変な方へ飛んでいく
つまり 自分の<手クセ>がつくのだ
だから「かけがえのない」のか

出版部にいたとき 弓との縁から
弓道の本を出そうとした
ある日の新聞記事 小さな欄
<全日本選手権3回優勝(最多記録) 弓史に残る決勝戦24射の射詰めを成しえた村川平治>

村川さん宅へ 
本を出すことをお願いにいった
断られた

つづく
2025/05/24(土) 曇り


また 老人の感慨


『時計屋の娘』(2013)というTVドラマがあった
脚本/池端俊策{いけはた しゅんさく}
娘役/沢尻エリカ
好演

大河ドラ 『麒麟がくる』(2020)
脚本/池端俊策
帰蝶役/沢尻エリカ
池端が抜擢したと 想像するに易い
だったが 不祥事で降板
沢尻エリカの帰蝶 観たかった

橋幸夫(82歳) 認知症とか
♪いつでも夢を いつまでも夢を〜
この歌 忘れてしまっただろうか

吉永小百合 『いのちの停車場』
認知症患者へと向き合う医師役

次回 
十五ノ巻 【『大射道 』再出版によせて
弓道から射道へ       北島芳雄】
北島氏 拙者が通った弓道場の師であった
2025/05/22(木) 薄曇り


本日 武道通信かわら版 配信日


老人の感慨

あの『ふたり』(1991)の北尾実加
あの『弱くても勝てます』(2014)の田茂青志
あの『海街diary』(2015)の浅野すず 
カンヌ映画祭 レッドカーペットを歩いた
(広瀬ずずは 2015年と二回目か)

日ノ本映画
毎年 お蔵入りも含め 1200本ほどつくられるそうだ
一ヵ月 100本か
一日 30本か
一時間に1本はつくられているわけか
2025/05/20(火) 晴れ


<右翼>に質問状


夏日が つづいたせいか
15日からの 一日 飛び石 掲載に間があいた

【質問状 民族派の真意を問う
左翼は死んだいま、対極軸にあった右翼――民族派はいま何を機軸とし、
いかに行動しようとしているのか?
『武道通信』が公開質問状を発す
一、戦後日本のこの混迷、瓦解した状況をどう思われますか。
その起因はどこにあり、一番に憂うことは何ですか。
二、この日本が危機を脱し、再生への道を示す方法は何かとお考えですか。
いまどのような行動を行い、今後どのようなことを計画してますか。
三、冷戦構造の崩壊で左翼イデオロギーが滅亡したいま、松本健一氏は、
「右翼は終わった」と言われましたが、それについてどうお考えですか。
四、弊社対談で一水会木村三浩氏が、ナショナリズムの良心は二つのハイガイ
(拝外、排外)を拝することと言われていました。また対談全体を読んで
異論、賛同をお聞かせください。
五.小泉政権(または総理個人)をどう思われますか。
回答者(到着順)
丸川 仁 (大行社)
山田勝利 (大悲会)
桂田智司 (日本民族青年同盟)
成島健二 (一水会)】

−−−−−−★−−−−−−
『武道通信』十五ノ巻 平成二十三年三月(2001)刊
この年 こんなことがあった

2月9日/愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が
    米原子力潜水艦と衝突し沈没 教員と生徒合わせて9名が死亡
4月26日/小泉純一郎内閣誕生
6月8日/大阪教育大学付属池田小学校で小学生無差別殺傷事件発生
    小学生8名が死亡 被疑者宅間守を現行犯逮捕
7月21日/明石花火大会歩道橋事故発生。兵庫県で花火大会の見物客が将棋倒
    11名が死亡。
9月1日/歌舞伎町一丁目雑居ビル火災に伴う多数焼死事件発生。東京都新宿
     のビル火災で44名が死亡 未解決
9月11日/アメリカ同時多発テロ事件発生。航空機4機が世界貿易センタービ
     ルにペンタゴン等に激突 約3000名が死亡

そう 外務省不祥事もあったな
松尾元要人外国訪問支援室長による公金横領事件
九州・沖縄サミット準備事務局のハイヤー契約詐欺事件

♪ まわるまわるよ時代はまわる
そんな時代もあったねと
今日も 今日の風に吹かれましょう
2025/05/19(月) 薄曇り


「死」のフィクション


【床几  殺陣と武道
      高瀬将嗣{まさつぐ}(殺陣師)】

高瀬氏 殺陣の道場を開いて 
その演武会を 府中かどこかへ観にいった記憶

高瀬氏 末尾 
「ただ困ったことに 
殺陣と武道をゴッチャにしている俳優がいるコトは頭痛のタネ」

要は「バーリツゥード」と「プロレス」の違い
どちらが強いかといった類の話でなく
目的も結論も違う

絶対に経験できない「死」をもって結びとする演技
それが殺陣 と高瀬氏
「死」を いかに必死で
フィクション化するというのであろうか

−−−−−−★−−−−−−
殺陣で白眉だったのが
「椿三十郎」ラストシーン
何度 観てもカッコいい

黒澤の台本
「これからの二人の決闘はとても筆では書けない
長い恐ろしい間があって 
勝負はギラッと刀が一片光ったただけで決まる」
これだけ 

殺陣師の久世竜 “椿三十郎” 頭をひねった
毎日 あーだ こーうだと
片や 斬られ役“室戸半兵衛”は 
ただ 刀をに抜くだけの稽古させられていたそうだ

左手で太刀を抜き 右手を添えて相手を斬るという方法が編み出された
たしかに 右手で抜くより左手で抜いた方が 零コンマ早い
アノ 血吹雪 “室戸半兵衛”の胸に巻きつけられいたポンプの手違いだったらしい

黒澤 ほんとに仲代達矢が斬られたと思った とのオチまでついている
2025/05/15(木) 晴れ


辺境風土が育む絆


信濃の武士  二題
ともに 筆者は女性

【海野幸氏{うんのゆきうじ}の名誉
 戦国の武勇高き信州真田家――この血脈の源は海野幸氏にあった。主君の仇、頼朝に仕えながら「一所」を守り通した古武士の生きざま
                      西川かおり】

鎌倉の「弓馬四天王」の一人 
しかし かつては頼朝に反旗を翻し 長く捕らえられていた
罪人から弓馬四天王に変貌
なぜ主君に殉ぜず 鎌倉三代 執権北条に仕えたのか
古武士の生きざまと その悲しさを見ると 鎌倉武士の郷土への念{おも}いを見る…………という話

幸氏の主君 志水義高が 頼朝の長女・大姫の婿という名目の人質になる
とか 義高の逃亡劇は検索なされ

西川氏が云わんとしたことは
主君の後を追わず 敵方におめおめと生を全うした幸氏に潔くないとも云えるが しかしどんな時代の荒波にもまれようとも
自らの領地から足を離さず 家を一族を守り通す生きざまも
これまた潔く 武士の名誉ではないか


【義仲と木曽四天王
「今は誰を かばはむとてか 戦をもすべき」――心と心が響きあうから
死を共にする。それが信州軍団の武士の心だった
                  三好桂子】

「今は誰を かばはむとてか 戦をもすべき」→「今となっては、だれを守ろうとして戦う必要があろう(もうその必要はない)」
今井四郎業平 そう吐いて
太刀を咥え 逆さまに飛び落ち 太刀が体を突き通って逝った
木曽義仲を最後まで裏切らなかった 木曽四天王の一人

「木曽四天王」は検索されよ
三好氏は 最後まで裏切らなかった木曽義仲の魅力を語る

島崎藤村 『夜明け前』「木曾路はすべて山の中である」
信濃国山奥 木曽で育った 義仲と乳兄弟(四天王)たち
絆は そこから生まれたと 三好氏
辺境だったからこそか

三方山に囲まれた鎌倉
が 目の前には 相模湾
辺境と云えぬ相模湾沿岸は《御恩と奉公》

−−−−−−★−−−−−−
きのう 都心に出た 中央線で 
次は御茶ノ水 との英語放送
will be Ochanomizu

will be 殺陣と武道
2025/05/13(火) 晴れ


狭間


【床几  武士というもの
弥七郎 (歴史HP「古今夢想」管理人】

一枚の肖像画 源頼朝
白い顔を描く柔らかな曲線と 黒の束帯を描く鋭い直線が
あざやかに対照的で印象に残る京都神護寺所蔵の肖像画
別人との説もある(足利尊氏の弟である足利直義)

私の頭の片隅に「源氏」がひっかかり続けたのは
この肖像画のせいと云ってもいい と弥七郎氏

東国の武士たちの生活や願望も充分に理解したからこそ
東国武士団の棟梁として鎌倉幕府を興すに到った
だが 彼自身は都や貴族文化への憧憬との
狭間で 常に揺れ動いていたのではないかと
一個の人間としての頼朝を見たとき
どこからが武士なのかという疑問にとらわれる
と弥七郎氏

で 拙者も考えた
鎌倉武士のモチベーションは《御恩と奉公》
将軍が御家人い与える恩賞 
具来的には 領地の安堵 戦功によっての新たな領地
奉公とは
合戦に一族を率いて戦う 平時には番役を勤めること

これは<道理> 坂東武者から生まれたものだろう
朝廷と貴族の<道理>では生まれない こと
頼朝は知っていた
坂東武者のリアリズムを知っていた
「頼朝の妻」から感化されたか 定かでない

頼朝は知っていた 
京(都)に戻れば 朝廷の手に乗るだけだ
都や貴族文化への憧憬 断ち切っていた
だから 京の武辺を鎌倉へ呼び寄せた
坂東武者にプライドを持たせるために

義朝の父・義朝
義朝の幼名 鬼武者とつけた
坂東平氏率いて勢力を伸ばし 再び都へ戻り下野守
東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げる
頼朝
武士と貴族の狭間から
父・義朝の陽が差してきた
2025/05/11(日) 晴れ


北条政子



<御成敗式目と夫婦別姓>を考えてみる
補:夫婦別姓と選択的夫婦別姓とは
どちらも夫婦が それぞれ結婚前の姓を名乗り続けること
選択的夫婦別姓は 夫婦が同姓か別姓のどちらかを選択できること

夫婦別称/選択的夫婦別姓 賛成派 よく云う 
夫の姓を名乗るのが日ノ本の伝統などは勘違い
北条政子は実家名を名乗っていた それが明治以前の日ノ本の伝統
それは勘違い
この勘違いの源が御成敗式目
御成敗式目では
妻は 夫とは別の財産を管理する権利があった
いまの世の夫婦別称の考え方にも通じる部分から
北条政子は夫婦別称 実家北条家の姓を名乗っていたと

だが
北条政子 自分の名が「政子」なんて知らなかった
「政子」は本名でなかった
その「政子」が歴史に名を残すことになったのは 
当然源頼朝と結婚してからだ
それでも冠される名が父から夫に変わっただけで
「頼朝の妻」と称されていた
さらには将軍となった息子との関係で、「頼家の母」(愚管抄)
頼朝が平家を滅ぼし 鎌倉幕府を樹立させると
「御台所」(吾妻鏡)
頼朝の死後 出家して落飾すると 今度は「尼御台所」
さらに実家の北条氏が実権を握ると
今度は「尼将軍」という名に変わっていった

では「政子」は いつから出現したのか

建保六年(1218) 政子が六十二歳の折
朝廷(後鳥羽院)から従三位の位に叙せられた
その際 記録に残すための名前が要請され
当時の慣例に従って便宜的に 父「時政」から一字もらって
「政子」と記録された

普通は時政の娘ということで 
単に「大姫」(長女)とか「平氏女」とか呼ばれていた
当時の女性の名は 皇族か よほど身分の高い女性でない限り
亡くなったときにさえ 記録されることはなかった

どうやら「北条政子」は
江戸時代以後の書物に登場
それ以降に定着していった通称
ただし明治・大正の教科書では
「政子」や「平政子」は使われているが
それでも「北条政子」とは記されていない

それが昭和になると
日本史辞典などが「北条政子」としたことで
いつしかそれが本名だと信じられるようになった
ある意味 「北条政子」は辞書用語だった

こうしていまの世では「北条政子」という名称に疑問を抱くこともなく
堂々と本名としてまかり通っている 
大河ドラマでも便宜的に「北条政子」を使っているから
二重の意味で誤解を招く

−−−−−−★−−−−−−
支那と韓国では 結婚しても夫婦が別々の姓を名乗るのが原則
これは 儒教の教えや血の繋がりを重視する文化背景
でも 日ノ本は血の繋がりより《家》を核とした
その文化背景をも考慮し 選択的夫婦別姓を考えよう
2025/05/09(金) 曇り


「個人=武士」の自覚


【鎌倉武士の法観念
   御成敗式目にかえれ
         嘉村 孝】

法制史の専門家でもない私が 大それた題でと 嘉村さん 前置きし

明治憲法は イマール憲法の影響
戦後憲法 <マッカーサー憲法>の影響
そして その深いところで支那の影響と

徳川吉宗の「公事方御定書{くじかたおさだめがき}」も
律令と同じで 刑法において
犯罪行為に対して裁判官が刑の選択や量定の裁量を持たず
法律で定められた刑罰が必ず適用されるという 絶対的法定刑主義
支那の律令を日本風にアレンジしたもので 
「日本の法」とは云えないと

日本独自の法を打ち立てたのが
御成敗式目
<道理>という自然法を基本にし 
日本的習慣法に帰った民族精神の尊重であった

制定者であった北条泰時が
いかなる趣旨でつくったか 泰時が弟の重時に送った
消息(手紙)から うかがうことができる
「この式目を作るにあたっては何を本文として注し載せたのかと
人々がさだめて非難を加えることもありましょう
まことに,これといった本文に依拠したということもありませんが
ただ道理の指し示すところを記したものです
あらかじめ御成敗のありかたを定めて 人の身分の高下にかかわらず
偏りなく裁定されるように,子細を記録しておいたものです」

泰時は日頃から好んだ「道理」の政治を貫くための裁判のよりどころとした
この「道理」とは
武家社会において古くから培われてきた慣習や道徳

たとえば 支那の影響を受けた律令では
奴婢{どひ}(下男や下女:召使)の子は母の所有になるが
男は父へ 女は母へとなった
これは律令以前に日ノ本で施行されていた法に戻るもの
つまりは日ノ本適習慣法に戻ったわけである
女子の財産権が認められ
妻は 夫とは別の財産を管理する権利があった

また 近代法に近い自力救済肯定の考えもあった
土地を二十年間支配していれば 正式な権利として認められる
「知行年紀法」
個人が持つ利権状態を国家が保護し権利化する
「個人=武士」の自覚が生まれた
これが貴族がつくった荘園制度を崩壊させる要因となり
武家(武門)が頂点に立つ
その影響は 江戸初期の武家諸法度まで及んだ

−−−−−−★−−−−−−
例の選択的夫婦別姓法案
今国会成立 不透明な状況に
次回は 嘉村さんの原稿を離れて
<御成敗式目と夫婦別姓>を考えてみる
2025/05/07(水) 晴れ


本日 武道通信かわら版 配信日


五月晴れである
もともと旧暦の五月、いまに世の梅雨どきの晴れ間を指す言葉
いまでは新暦五月の晴れた空を指す
言葉は変化する 

明日は雨
天気も変化する
2025/05/05(月) 晴れ


内なる神


「ブラッシュアップライフ」(2023)「不適切にもほどがある!」(2024)等々
<ワープドラマ> 花盛り
もし北条時宗が いまの世に生きていたら……

日蓮や親鸞など「鎌倉仏教」の開花も 
元の脅威に対するナショナリズムから生まれた
それが武士に影響を与えたというのは 本当ですか?

すべて学説が そう云ってますね
神道すら「元寇」と「新仏教」の影響下で理論武装された と
でも 私(兵頭)が考えてみたいのは
「胆、甕{かめ}の如し」と謳われた相模太郎こと北条時宗にも
政治的大勇断のためには 内なる神を必要としていたこと
それがあって 初めて支那大陸や京都からの圧倒的<文化支配力>跳ね返せた

今の世の政治家は「鎌倉仏教」も「鎌倉神道」も腹中に持って無いから
米国や東京の空気に追従するだけで何の決断もできない

鎌倉刀も大鎧も あの流鏑馬すらも 鎌倉武士が発明したものではない
最初は京都で出来たもの
京から熟練者を招き 鎌倉武士は必死で学習に励んだ結果なのです

ただ 人が時代を創るのか 環境が人を創るのかは
答えが得られない問題
(それを 兵頭さんは<内なる神>と云うのか)

で 北条時宗が いま生きていたら 凡人で終わるかもしれないし
逆に 今の世の生臭坊主を 一人 鎌倉の世にワープさせたら
日蓮クラスの大思想家に大化けするかもしれない

私が「改憲する前に まず日米安保条約を捨てろ」と云うのも
その環境が日本人を変えるのでは と願うからに他ありません

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「ただ 人が時代を創るのか 環境が人を創るのかは答えが得られない問題」
近年 <親が後天的に得た経験や記憶も子へと遺伝する>
いう事実が明らかにされている

これは生物学的なDNAでない
言語や習慣のように脳の長期記憶に蓄積される知恵の遺伝子である
これが内なる神か

これをテーマの核に
いま 物語を綴りはじめた
何らかの文学賞を狙って(呵々)
2025/05/03(土) 晴れ


同じ飯を食う仲


元軍のてつほう(鉄砲)に悩まされたみたいだが?
日ノ本側の記録をよく読めば 
元軍は退却時の<めくらまし>として投げつけるだけだった
攻撃用の武器ではなかった
兵頭氏 自説 曰く
犬は花火をひどく恐れる
モンゴル人は 馬を喰いに集まってくる狼を追撃するために
あんなオモチャを作ったのではないか
狼が逃げ散るぐらいだから 馬も人も驚くと思ったのだろう
これが有効な兵器でなかった証拠に 日ノ本は輸入してはいない

話は 元に戻るが
日ノ本の馬はモンゴル馬より貧弱ではなかったか?
支那事変のとき 現地で蒙古馬と支那馬を調達したのだが
牽引力は日ノ本軍の国産馬より弱かった

江戸の世の農作馬は確かに小さい 蒙古馬/支那馬に負ける
これは妊娠した牝馬に重労働をさせてしまうから 仔馬が小さくなる
しかし 武家屋敷の馬は高さ145センチほど
「平家物語」に出てくる最大の馬「生咬{いけづき}」くらいあった
それでも英国軍の4歳馬と比べたら「ポニー」だが 
馬力は負けてはいない
モンゴル人は馬のことはよくわかる
日ノ本軍の馬を見ただけで これはヤバイと怖れたのではないか

乗馬術もうまかったか?
今の世の競馬騎手が落馬して 脊椎を損傷する事故がしばしばある
昔の乗馬も命がけ
乃木希典は成人してから馬の練習 始めた
日記を見ると 門を出たところで すぐ落馬し 頭を強打 人事不省
何度も ひどいめにあっている

これを鎌倉武士は子供にも強いた
関東武士の鑑とされた斎藤実盛の「乗るとは知れども落つる事なし」と
評したようになるまで 何人の子らが死んだか
鎌倉武士は 生涯ロデオ大会をやっていたみたいなもの
馬と同じ稗の飯を食いながら 「同じ飯を食う」仲だった
当時の者たちですら「キツイ」と感じていたはず
大河ドラマですら再現できない世界の一つ

だから 鎌倉三代たたないうちに
御家人たちは 文化的生活に慣れ 元の質素に戻ろうとはしなかった
小説家 脚本家 学者の想像を絶した世界が
日ノ本には確かにあったのだ

「弓と馬は少年時代から訓練しないとモノにならない」
は鎌倉武士の格言
そのとおり
刀は違う あとから修業しても兵法者になれた
2025/04/30(水) 晴れ


元寇の戦い


【いざ鎌倉へかえれ
日本の身の丈の旗を揚げ 一所懸命、駆け抜けた鎌倉武士たちよ
元寇の戦いと鎌倉武士 ◎勝利は神風にあらず 兵頭二十八】

元は なぜ日ノ本へ攻めてきたのたか?
GOLDラッシュ は俗説
近くに独立國がある それが皇帝 気に入らなかった
独立國だから攻められた それが真相

文永/弘安 二度の使者の首を刎{は}ねたのは?
鎌倉幕府は元の底意が日ノ本全土の占領以外無いと理解していたから

北条時宗は勝算あったか イチかバチかの賭けだったのか?
鎌倉幕府は己の「弓馬」に絶対的自信を持っていた
その上で敵の情報も集め 勝算は成立していた

歩兵が圧倒的の多い宋に元が勝てたのは
モンゴルの騎兵だった
元軍が騎兵の力を発揮できないとき勝てる

文永の役 船旅17日 波/うねりは高い 潮流もある
夏に250トンの舟に何十頭も詰め込まれた馬はストレスで痩せる
何割かは便秘で斃れる 蒙古馬の餌は大豆穀物でなく牧草
上陸後 すぐに回復できない
そんなフラフラの馬より 日ノ本の去勢していない戦闘用猛獣
甲斐の黒駒の方が位勝ち 
ちなみに 蒙古がインドを征服できなかったのも
高温多湿の地では馬の蹄が軟化して病気になり
使い物にならなかったからだ

蒙古の弓は200mも飛んだ 日ノ本の弓の二倍あったのに?
そんな凄いものだったら なぜ技術立国は模造しなかったか
これも多湿では接着剤が軟化 すぐ弾発力が劣化するからだ
歩兵の一部が弓を捨て 鑓を投げたのはそのためだ
和弓は接着剤でなく糸で巻き締めた 湿気は漆で防いでいた

そんなことより弓射る 射手の凄さ
いまの世の高段弓道家が引き絞れない弓を
当時の御家人衆は皆 遣いこなしていた
異国の矢と違い
矢先はわざわざ貫通しにくそうな 
遠射に向かない鏃{やじり} そして毒は塗らない
これは古の武士の弓勢が強すぎた証拠

元寇の役でも鉄ヘルメットに革製の乗馬指揮官を
鎌倉武士は弓で狙撃して殺せた
それで弘安の役では敵の上陸船は
宗像{むなかた}海岸の防塁に近づくことができなかった

談余:蒙古軍の歩兵鑓を導入して 後年 「馬と弓箭{きゅうせん}」の時代を終わらせた
利用できないものは利用しなない 利用できるものは利用する
技術立国の基本

次回 てつほう(鉄砲)に悩まされたみたいだが?
などなど

−−−−−−★−−−−−−
故・山本伊佐夫氏から頂戴した鏃
ディスプレイに前に
室町乱世を生きぬんた短刀と並んで置いてある
PC バグ/ウイルス お払いのオマジナイ

鏃の種 鎧通しだろう
先 長さ3センチ 4面 一面幅1センチ 
竹矢に差し込む部分17センチ 元から先端が先細に

弓の引きの強さ 弓力測定ハカリで
一般男性は11〜12kg  拙者の弓は13kg
鎌倉武士は40〜50kg程度とされる
三人張りの弓(男衾三郎絵巻)のアノ絵図だ

確かに こんな鏃が40〜50kgの威力でスッ飛んできたら
元寇の兵 ビビッたことだろう
2025/04/28(月) 薄曇り


古賀不二人{ふじと}


田中光四郎さん 「巻頭談言」で書いている

【五・一五、昭和維新の志士・古賀清志の武魂伝承】
五・一五の檄文からはじまる
≪日本国民に檄す――日本国民よ! 刻下の祖国日本を直視せよ
政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや
政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を
擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と悪
化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と…
日本は今や斯くの如き錯騒[綜]せる堕落の淵に死なんとしてゐる
革新の時機!今にして立たずんば日本は滅亡せんのみ。(後略)≫

田中光四郎さん → いまの日本に そのまま通じるですね
対談 平成13年(2001) 四半世紀前
いまの日本に そのまま通じるか
通じない <怒り>の度数/密度が違う

当時の政党政治の腐敗に対する反感から
クーデターの将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こる
将校たちへの判決は軽いものとなった
古賀清志 禁錮15年 4年9ヵ月で仮出所
戦後 「不二人{ふじと}」と改名し
「不二流体術」を創始

田中光四郎さん 古賀不二人との出会い
九州に植芝盛平・合気道開祖の初期の頃の直弟子の一人がいた
田中光四郎さん 昭和40年生まれ 福岡・田川出身
八木不動の「柔気武徳流」道場があった
居合もやり「今武蔵」と云われるほど強かった
田中光四郎さんの兄弟付き合いをしていた者が八木不動の一番弟子

某氏が 八木不動/古賀不二人/田中光四郎 合同講演会を開く
この縁で田中光四郎さん 古賀不二人と出会う

毎週 古賀不二人を訪れる
田中光四郎さん 曰く
一言で云えば 古賀不二人「清廉潔白」「仁の道」の人
<先生の宅を訪れ帰るとき 全身をクリーニングされたような気分
古賀先生に会ってから 「俺が 俺が」の俺 人の話を聞くようになる>

古賀不二人から<大地塾→大地社>と不二流体術をやってくれないかと
田中光四郎さん 大地社は若いモンに譲り
不二流体術だけを継ぐ

前田 → 古賀先生にしろ田中先生にしろ 誰もやらないことを
一番はじめにやってこられたんですね

前田 お前も 誰もやらないことを一番はじめにやってきたんじゃないか
2025/04/26(土) 晴れ


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