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「気」


<だけでない>話
前田 (話 変え) 両脇は意識的に閉めるんですか
拙者 剣道をはじめたとき 先輩師からそう云われた
<これはMCの質問であったか>
古岡氏 いや別に意識しない 
手の内の左手の小指を強く握るのが大事
据物の場合 力の入れ方 左手八分 右手二分 これ鉄則
前田 足はどうですか 親指に力が入っているとか
<前田 剣道の体験なし これも拙者MCであろう>
古岡  そう 入っているかもしれないが 意識はしてない
前田  (水瓶)斬る前に斬れると思っていましたか

【古岡 →  それは絶対斬れると思わなければ斬れない。そういうもんです。
その気とは、また別ですが、斬れないの基本は「気」があるか、ないかだと思います。】

学研 以前 支那から気功師 六、七名招いた
要は 超能力者 支那 気功師 一級から三級ある
一級は超能力者のレベル 米国 ソ連の軍が引き抜こうとしたが支那 出さなかった
その一級の気功師たちが来た

実験  隣り合わせの部屋で 
一つの部屋で気功師が手を動かすと 
隣の部屋の人間  学研の社員の手の動きに合わせ動く
動かされている社員 なぜかわからない
で 古岡氏 登場  全然 かからない 通じない
気功師 交代しても 通じない
「あなたは武道をやっていますね」と気功師
「あなたの中には すでに気があるから通じない」

古岡氏  半年ほど気功の習う
寝つきの悪い奥さんを眠らせることができるようになる
昔の侍など気を持った人がいたんでしょう
前田  先の対談で 津本陽先生が宮本武蔵などの
武芸の達人は皆 合気がわかっていたと

支那の気功家の その「気」と
日ノ本の「合気」とは どう違うのか よくわからぬ 

が 「気」は確かにある 電磁波のようなものだった
「格闘技通信」ライター 米国からやってくる
その昔 文化大革命 気功など迷信だと迫害
米国へ逃れた気功師 多くいた 
中国武術が好きな日本の青年 渡米し 学ぶ

「編集長 両方の掌を胸の前に掲げてくだい」
ライター 目をつぶり 念を発した風情
両掌にビリビリと 軽くきた
ライター 「気とは これだけのものです」
ライター  「気」をどこまで極めたか よくわからぬ
「気」って 何んなんだ

−−−−−−★−−−−−−
ベースボール・。マガジン社 人民体育出版社と提携
気功師 来日した
この気功師  ○○さん(名 思い出せない)
当時 「格闘技通信」と「HUMAN BODY」かけもちしていた
「HUMAN BODY」の企画として ○○さんにインタビュー
おまけに オレの身体 気功で見てもらう
通訳の出版部の年増の女性 ○○さん(名 思い出せない)
恥ずかしそうに云った
下半身(急所)あたりが弱っているそうです
2024/10/15(火) 晴れ


斬れる 斬れないは  腕次第


古岡氏の 日本刀のハナシ つづく 
どこまでもつづく

前田  瓶を斬った刀 いま ありますか
古岡  あると思います 探してきましょう (席を立つ)
前田  まいったな 名刀でも何でもなかったんだ
     松田さん 聞いたらショックだろうな
     斬れる 斬れないは 斬り手の腕次第
古岡氏  刀を持って戻る
前田  これが あの刀か…………(また絶句)

刃肉 薄く 元重ね(区際の峰の厚み)二分もない
地鉄も柔らか 
前田 柄を持ち 刀身を振る ブルブルと揺れる

前田 刀工はどなたですか
吉岡 名は知りません それに無銘です
    刀工が名を刻むほどのものではないということでしょう
前田 古刀であろうと 現代刀の無銘であろうと 結局は技術か…………
前田が気を取り直すため MC 写真を見ますと 刃先がだいぶ出ていますね
吉岡 先ほど刀が一番斬れるところを教えましたが ただし据物斬りの場合
    また その下を使うんです あのときも意識的に中にいれたのです
    手の内がよく 刃筋さへ立っていれば日本刀は斬れるものです。
    武道家が余興で 割り箸の袋で名刺など斬ります
    あれと同じ スピードと刃筋が合えば斬れる
    紙でそうですから 日本刀ならもっと斬れます
    
あっ そうだ 想い出した
俺も 割り箸の袋で 名刺斬り やった できたことあった
社の近くに よく行く割烹料理屋 座敷
どなたかと会っていた  名も顔を記憶ない
たぶん 割り箸袋で名刺斬りのハナシでもなったのだ
冗談で 割り箸袋で自分の名刺 叩いてみた
斬れちゃった
あれ?  手の内がよく スピードと刃筋がが合っていたのだ
もう 二度と できないが  あれは なんだったんだろう
ただ 手の内がよく スピードと刃筋がが合っていた 
だけでない気がする

次回で <だけでない>話をする

−−−−−−★−−−−−−

ドジャース  勝った
山本も パドレスのダルビッシュも 
直球 150以上
打者 150以上の玉を打つとき
打者の視神経が捉え 脳神経に伝え 筋肉を動かす
神経の伝達の速度を考えれば 理論的にとても間に合わない
打者が この球を打ち返せる反射運動の謎を
現代科学は説明できない

現代科学で説明できないこと まだまだある
2024/10/13(日) 晴れ


「水瓶割り」の真相


<前田 物打ちではないんですか>

物打ちでも若干 刀によってズレがある
鉄砲もクセがある 右にそれるもの 左へそれるもの
斬る前 イの一番にそこを探しておくこと
と古岡氏
では どのようにして探す?

【古岡氏 → 先ほど刀身に傷つけてはいけないと思い、しなかったんですが、
一番斬れる場所を探す方法は、棟を上にし、柄を左手で持ち、右手で拳を作り切先側を物打ちの前後に移動する。ここで刀が自然と真っ直ぐなったら、そこがその刀の一番斬れるところですね。】

前田 さっそく 前田刀で試す
あ ほんとだ 真っ直ぐになりましたね

西郷隆盛の武家目利き 一番斬れるところでなかったのか
では 西郷 何の武家目利きであったろうか

さて 水瓶斬りだ
「日本刀の斬れ味」という企画の一つだったと云う
瓶がニセ物と思われるから水を張ろうということになる

瓶を斬れば曲がるか 折れるかもしれない
(弟子に)誰かもって来い  (弟子)誰も自分の刀 持ってこない
じゃ 曲がってもいい いつも(自分が)巻藁斬りでつかっているのを使う

前田 古刀ですか 現代刀ですか
古岡 あの頃(昭和四十年) 六万円で買う 
曲がっても 折れても 惜しくなく刀
前田 えっ 六万円---- 絶句
古岡 今なら四十 六十万円かな 前田刀の方とは 月とすっぽん
前田 刃こぼれしましたか
古岡 刃こぼれはしなかったが 刃がまくれ 刃が鈍{なま}ってしまい
   すぐ研屋へ出した 柔らかい刀は折れにくいし刃こぼれもしない
前田 長さは? 重ねは? 反りは?
古岡 二尺四寸二分 重ねは薄い 斬るには一番の長さ
   身幅は前田刀より太くて 重ねは薄い 肉を斬るもの 薄いから斬れる
   でも そのかわり曲りやすい
   反りはほとんどない
前田 どの辺まで斬ったんですか(と 写真の底の当たりを差す)
古岡 底から五、六センチほど 
ここで 古岡氏  裏話を披露
カメラに見えない髪の毛ほどの鋼線を張って そこに刀が触れると
フラッシュがたかれる そして撮った 一万分の一秒

髪の毛ほどの鋼線 瓶の底から五、六センチほどに張られていたのだ
【(ここで今川カメラマンが「今は赤外線センサーですね。野鳥を撮るとき使います】
との 添分がついている
そう 今川カメラマンいたな この対談のカメラマンだった
今川カメラマンを訪ねた ワン・カットだけの記憶 思いだす

−−−−−−★−−−−−−
記憶 → 過去の経験の内容を保持し 後でそれを思い出すこと
記憶とは おかしなものだ 何が残り 何が消えていくのか
脳(心理学)だけで解明できる ものではないのではないか
最先端量子科学のような領域でないと

キーボードの上の台 モニターの前に置いてある
銘 豊前{ぶぜん}國長光
短刀(脇差) 長さ 九寸七分〇厘 反り 壱分 目釘穴 弐個
連載「刀剣講座 比較刀剣学」の高山武士さんの鑑定によると 室町後期の作
五万円で買った 平成十年  
連載「日本武道医学」のパリッシュの紹介人から
買った そのとき 財布から五万円出した記憶
紹介人の顔 記憶無し
五万円 なけなしの金ではなかったか
2024/10/11(金) 晴れ


波紋は動いている


前田日明刀
前田 弟子入りした
松田泰司次刀匠の作
これが業物 斬れ味の良い刀かどうか
古岡氏に 武家目利きしてほしい

【前田 → 今の刀匠は「斬れる」ということでは、自分たちのやっていることは正しいか自信がないのです。昔、「武家目利き」というのがあったと聞くのですが、今は絶えて久しく、鑑賞のため鑑定目利きがほとんどです。一度、どなたかに武家目利きで観ていただきたいと松田刀匠と以前から話しておったんですが、今日やっと実現すると持参したのです。
平成十一年の刀剣美術保協会の新作刀剣展で特別章(寒山賞)をいただいた松田刀匠に自分の引退を記念し注文打ちしたものです。】

古岡氏 『武道通信』に書かれていましたね と
前田  曽我兄弟の討ち入りに書かれている刀を真似
長さ三尺三寸(約1メートル) 重ね(刃の厚さ)厚さ四分(約12cm)
そう  重さ  一度 手にしたことがある  
通常の刀の三倍の重さとの記憶

古岡氏  拝見する前に そばの余分なものは置かないようにしましょう と
特に金属は置かない 刃に当たると取り返しがつかない
前田とMCの拙者 テーブルの上のテープレコーダー 茶碗 和菓子などどける
前田 刀袋から前田日明刀を取り出し まず油を拭紙で取る そのとき
【古岡氏 →  帽子のところへきたら力を抜かなければいけません。三角{みすみ}が消えると価値が下がります。また研ぎ直さなければなりませんからね。
(どれどれと古岡氏、前田日明刀を受け取る)
茎{なかご}に梵字{ぼんじ}が彫ってありますね。「動如電電発如風雨」とありますね。(茎を持ときも布を当てる。茎にも油がつくことを嫌う刀匠がいるからだと言う)】
 
前田  自分の好きな言葉の一つ 
伊藤博文が高杉晋作を評して云った言葉だと説明

【古岡氏 →  …………(じっと、前田日明刀を観入りしばし沈黙。(あまり長いのでMC、前田に何か話しかけようとしたとき) いい反りですね。姿が実にいい。匂{におい}もよく出ていますね。これを電子顕微鏡で見ると、生きているといいます。刃文は動いていると言んです。戦前、本田博士という高名な鋼鉄の研究家がおられ、その方が言われていました。たしかに生きているように見えますね。普通のものならこんな刃文は出ないです。これを打った松田刀匠は大した方だと思いますね。】

前田 刃文は生きているですか いい言葉ですね
前田 感動して聞き忘れている
MC 質問  前田が聞きたかったこと
「これ 斬れますか」

【古岡氏 →  斬れますね。でもこれで斬るのはもったいない。美術品の領域です。
刀によって若干差はあるんですが、一番斬れる場所というものがあるんです。どこが
一番斬れるかを知っておかないと、試し斬りをするとき失敗する。】

前田 物打ちではないんですか

つづきは 次回

−−−−−−★−−−−−−
刀の鑑定 必ず出てくる「沸{にえ」と「匂{におい}」
《沸も匂も冶金学で言うマルテンサイトやトルースタイトの組織である。
その粗密度や多少によって、見た目にも異なっている。一つ一つの粒が肉眼でとらえられ、星のようにキラキラと輝いているもの沸である。匂は粒としてとらえられず、天の川のようにかすんで見える。
刀の端縁にはどのようなものでも匂いが認められるが、沸が少なく匂がちのものを匂本位(匂出来)、匂に比べて沸がちであるものを沸本位(沸出来)と言う。》   

前田から 杉山さん、これいいですよと、もらった『刀剣鑑定読本』永山光幹著

−−−−−−★−−−−−−
水戸学の大御所 藤田東湖{とうこ}の元に
西郷隆盛が訪ねてきた 江戸藩邸へだろう
 
藤田 西郷に ある刀の鑑定を頼んだ
西郷 刀の刃文など 見向きもぜず
ポンと庭に降り 刀を振り始めた
藤田 西郷を只者では ないと察した
 
西郷 この刀の一番 斬れる箇所を調べていたのだろうか
これも 武家目付か
2024/10/09(水) 雨


武家目利き


武道通信 十二ノ巻
論客対談  論客 古岡 勝{まさる}
論客 前田日明のリクエスト
前田 以前見た 写真
前田 この人物と会いたいと

で 拙者 水瓶斬り達人の元へ
「武道通信」 持参 

古岡 勝氏の経歴 誌面に拙者 こう記した
陸軍予備士官学校卒業。その年、大東亜戦争戦争開戦。支那戦線に配属。
陸軍大尉で復員。戦後、学習研究社入社。副社長を経て現最高顧問。「夢想
神伝流」「無雙直伝英信流」を学び「無双流居合斬道」創始。国際居合斬道連盟理事長。著書に『秘剣無双 流居合斬り』ほか。平成元年、勲三等瑞宝章受賞。

『秘剣無双 流居合斬り』 拙者の書庫に収まっている
このとき頂いたのであろう。

前田 開口一番
【前田 → 5、6年前からお会いしたと熱望しておりました。謎の「水瓶割り」の達人にお会いできて感激しております。】
前田 知人から瓶を斬っているこの写真をもらう
この人 誰だ?
たまたま 虎ノ門刀剣店で その話しをする
学研の古岡副社長と教えられ 二度 びっくり

【前田 → 今日は日本刀の斬れ味についてのお話をお聞きできると思い、喜び勇んで来ました。】
前田 いままでの論客の中で 最大級の敬語調であった

【吉岡 → 最初、対談の打診を受けたとき、興味本位で扱われるのではないかと思ったんですが、『武道通信』 を読ませていただいて、今の日本にこのような本があることに嬉しく思ったんです。と同時に、まだまだ日本刀への誤解があると思い、そのことを話したく思いましてね。】

<まだまだ日本刀への誤解がある>とは いかなることか?

前田 実はその前にと
刃渡り 三尺二寸(約1メートル)の前田日明刀を持ち出した
前田 吉岡氏に「武家目利き」をしてほしかったのだ
「武家目利き」とは

次回につづく
2024/10/07(月) 曇り


本日 武道通信かわら版 配信


彼岸花  路地裏 空き地
咲き乱れている

彼岸花  無縁仏の墓に
よく似合う
2024/10/05(土) 降ったりやんだり


小柄{こづか}工房


【『小柄工房』 事始め  角田芳樹{かくたよしき} (日本武道具)】

武道具店の店主に角田さん 以前から不思議に思っていたことがある
剣道の面/銅/小手/竹刀
作り工程を見る機会は少ないとしても 無くはない
しかし 日本刀となると ほとんど とっかかりがない

記念祭 刀物祭り 刀工が白装束に身を包み
鳥帽子を被り 焼き入れの場面 ちょっと公開するだけ

刀の鍛えとか焼き入れをやってみたいと思っても
「作刀体験入門OK」の看板がかかっている所など どこにもない

【角田 →  刀、作刀とはそれほど特別なものなかであろうか?
日本刀は世界に誇る火と鐵{てつ}の結晶として今では美術品としての枠組みで「保護」されているが、刀そのものを作りたいと思っても作れない仕組みになっている。
長さ云々のことがあるにしてもお役所の法の網がしっかり被せられていて、
カスタムナイフ作りのような自由さはないに等しい。
また、残念ながら多くの作刀家は「作刀行程を体験させてもいい」とは言わない。
そもそも素人が鍛錬場に立ち入ることを拒み、仕事場は見せるものではないと思う人が多いのである。それはそれで理解できない事ではない。】

しかしながらと 角田さんは云う
作るとすぐ売れる刀工は稀 多くの刀工 経済的に恵まれていない
高価で手の届かいもの ガラスケース越しに眺めるだけのもの  
居合愛好家 美術愛好家 投資家だけのものになっている
こんなことで日本刀 生き残っていけるのだろうか

角田さん そこであることを考えついた
それが 「小柄工房」であった
某刀工の作刀場に出向き 作刀現場を見 焼き入れを体験する
第一回目 角田さんから連絡 すっ飛んで行った

ちょこっと素延を体験し 焼き入れを体験
熱され赤くなった刃 すばやく水桶に突っ込む
「ジュウー」との音 いまでも 耳底に記憶さている

銘は何にします と刀工
頴男の 頴でと
鎺{はばき}の下に 「頴」と刻まれた銘がある
刃渡り14cm 小柄

平成十二年のハナシだ
その後 作刀体験  「Youは何しにニッポンへ」の一つになって
西新井大師の近くの小柄工房には 作刀体験するYouが訪れると聞いた

★------------------------------★
GHQ 日本刀を恐れた
日本兵に闘争心を植えるけるものとして
報復を恐れ 民間人の日本刀も没収した 
敗戦後 刀劍界 生き残り策として
GHQに忖度した
2024/10/04(金) 雨


Infomation と intelligence


きのう  「刀劍はたや」さんのところの月めくりカレンダー
九月 破った  月めくりカレンダーも あと三枚

武道通信 十二ノ巻に“衣替え”
十一ノ巻  一ノ巻からの十ノ巻  巻頭 論客対談の合体本
ゆえに 飛ばす

十二ノ巻 特集
【IT戦争に勝つ!】
平成十二年 西暦2000年 すでにサーバーテロ 
ネット上ではじまっていたのだ
これを武道精神にひっかけて 【武の精神と知恵で学ぶ】とした

■嘉村 孝 → 中世の戦闘集団 一味同心
  官僚の責任を押し立てる新渡戸稲造武士道ではIT戦争に勝てない
■橘 薫 → 膨大な情報の荒海にこぎ出すにあたって 情報そのものを
 判断する力を身につけることだ それは自分の身体うぃ使って解くことで
 武道の「奥義」や「秘伝」に通じる
■佐々木 建 → 『五輪書』で勝つ
 目付 武具の利などIT戦争に勝つための戦い方が見えてくる
■吉田翰玄{ふみはる} → IT戦争と『葉隠』 公に奉すべき奉公人
 問題はInfomationではなくintelligenceとして
 私たちがNetに参加できるかだ 『葉隠』 にはIT戦争を勝ち抜くヒントがある

最後の項 耳を傾けよう
【Infomationとintelligence
◆情報とコミュニケーション
もともとの話に戻るとITの“I”ってInfomationなんである。intelligenceじゃなくて.
なのに両方とも日本語に訳すと「情報」になるんだが、わたしは「消費財としての情報」をnfomation、そしてintelligenceを、情報←コミュニケーション(情報)と式で考える。
この式を説明すると、情報がコミュニケーションによって新たな情報を生み、そして、新たな情報が、また、コミュニケーションしてさらに新しい情報を生むという循環を表している。これは、IT革命が起こる前から、ひょっとすると、人類が言葉を操るとうになる前からあったことを式にしただけだ。そしてITはこの循環のスピードアップし、関与者を爆発的に増やし、創造のプロセスよりも生産的にする。
では、政治的IT戦争に勝つため、すなわち、如何にしてITを駆逐して国民国家と対抗するのか、そして、勝利するか?
国民国家に対抗するには、それを相対化すればよい。その為には、@国民国家の領域を越えて、市民の活動の場を広げるか、あるいは、A地方分権を徹底して、各地域に市民の政治参加を可能にする公共空間を形成するかの二つの方法が考えられる。
この二つ、正に今日、Net上で行われつつある。Netはヴァーチャルであるが、国民国家の領域を越えて、私たちの活動の場を広げてくれるし、各人が持つホームページなどは、私たち政治的参加を可能にする公共空間と考えられる。
問題は、Infomationでなくintelligenceとしての私たちNetに参加・活動できるか。
『葉隠』にそのヒントが書かれている。
「わが智慧一部の智慧ばかりにて萬事をなす故、私となりて天道に背き、悪事となるなり。脇より見たる所、きたなく、手よわく、せまく、はたらかざるなり。眞の智慧にかなひがたき時は、智慧ある人に談合するがよし。その人は、我が上にてこれなき故、私なく有體の智慧にて了簡{りょうけん}するとき、道に叶ふものなり。脇より見る時、根づよく悎かに見ゆるなり。例えば大木の根多きが如し。一人の智慧は突っ立ちたる木の如し。」(一ノ五)*(一ノ六の間違い)

敢えて「五〇字以内で答え」ることもあるまい。
私を含めNetに参加する各人が、『葉隠』に触れ、「長け高き」奉公人となることを願ってまない。


★------------------------------★
次頁 「床几」 だった
日本武道具の角田さんが書いている
「小柄工房」のことだ
拙者 第一回参加者だった
次回はこれで
2024/10/02(水) 晴れ


強くなくてはならない


たとえ勝ったとしても
いろいろの戦争の反省 その後にやってくるもの
古代ギリシャの時代から そう だった
二十世紀になって
第二次世界大戦後 やっとこさ わかってきた
で どうする  

そこで 第二次世界大戦 一人勝ちの 米国
《プロパカンダ》  《情報支配》 だと気づいた

【兵頭 → この連載の第一節で紹介した「孫子」は、
最も上手な戦争は「伐謀{ばつぼう}だと書き残しています。
「謀」とは、戦争をしかけよとする心の動きです。「伐謀」とは、
そもそも外国が、自国に戦争をしかけて勝とうなど思わぬように
宣伝をしたり、工作をしなさい、というのです。
ただし、この「伐謀」が有効であるためには、
やはり自分が本当に強くなくてはならないでしょう。】

國ではなく 個人に置き換えよう
<やはり自分が本当に強くなくてはならない>
2001年 参議院選出馬 拙者のプロパカンダ
「自分の命は自分で守る 自分の國は自分で守る」

新総裁 自分の國は自分で守れるか

−−−−−−★−−−−−−
そうだ 杉山頴男Wikpedia
杉山頴男事務所設立2000年から
正しい 1998年 やっと戻った
2024/09/30(月) 薄曇り


目的


お互いに「自分が負けた」と 認めない
こんな場合 いったいどっちが戦争に「勝った」といえるのか

より損害が大きかった方が「負け」でしょうか
違います
こんな云い伝えがあります
古代ギリシャの王
戦争には勝ったが あまりにも多くの損害を出してしまった
そこから「ピュロス王の勝利」とは
<犠牲の多い 引き合わあない戦争>の意味で よく使われます

戦争を始めるとき 「目的」がある
どちら側にとっても「目的」がある
どちら側にとっても
当初の「目的」を達成できたと思ったら勝ち」

ロシア  当初の「目的」 達成できてない
ウクライナ  当初の「目的」などなかった
奇襲攻撃ではじまった戦争 受けて発つしかなかった

1941年の真珠湾攻撃とイギリス領マレー攻撃
米国 当初の「目的」などなかったのか

米国 当初の「目的」 あった
白人のアジア植民地支配にいちゃもんつける
黄色人の覇者 ジャップを叩きのめす

日ノ本 大東亜戦争の「目的」
欧米の経済封鎖からの脱却
アジア諸国を欧米列強による植民地支配から解欧

目的を果たして勝った米國
「大東亜」  気にいらない 
大東亜戦争 太平洋エリアでだけ戦争でないのに
「太平洋戦争」との名称に強制変更

世にいう 「戦後」
アジア諸国の植民地 独立を果たす
日ノ本の「目的」 果たされた

−−−−−−★−−−−−−
人生に「目的」を持ちなさい
少年少女に 大人は云う

「目的」などない
ただ 食っていければ それでいい 
敗戦直後が 懐かしい

敗戦直後の少年少女
八十、九十年代に
残りの人生 「目的」を持ちはじめた
2024/09/28(土) 曇り


女の子


Netflixのお蔭で
きのうUPするはずだった稿 失念した
一日置き 二日に一回 が定番

−−−−−−★−−−−−−
編集部へ 小柄でデブッチョな女の子 入ってきた
「週刊ファイト」から引き抜いてきた山本
飛んでいって 肩を飽 く
「○○○ちゃん 有名になって よかったね」
その小柄なデブッチョな女の子  照れくさそうに 二コリと
この女の子  ダンプ松本だった

女子プロレス  クラッシュ・ギャルズ 大人気
後楽園ホール 社から徒歩 五分ほど
初めて 女子プロ 観る
異様な光景だった 客席 女の子だけ

「週刊プロレス」 女子プロ 掲載
「週刊ゴング」も「東スポ」も足踏み
新日本プロレス 坂口さんから電話
「女子プロと一緒にされるのは 
プライドが許さないと若いモンが」
業界誌から脱却した強み 無視

プロレス嫌いの ただ売れればいい編集長と
悪態つかれていること 百も承知
プロレス 好き嫌いではない 興味ない
試合取材  リングでなく 観客席しか観てなかった
観戦レポート プロレス好きなスタッフ任せ

観客席⇔時代
<時代の精神>みたいなものにしか興味なかった
大宅賞受賞(1991)『プロレス少女伝説』の
マキちゃんもそうだったであろう
マキちゃん 女子プロ専任にしたの編集長のオレだった
マキちゃん プロレス 好き嫌いではない 無関心 興味ないと知っていたから
リングの上の<女の子>という<時代の精神>が見えると思ったからだ

あっ そうだ
前田日明に長与千種 ダッコさせ写真撮らせたのオレだった

『極悪女王』で ダンプ松本 想い出した
で 【中学生にもわかる「兵法」】
今回も振り替え
2024/09/26(木) 晴れ


弔い方


自民党総裁選/立憲民主党代表選 酣{たけなわ}
しかし 日ノ本人口の凡そ70% 仏教徒
要は 寺で弔い 寺に骨を埋めるルールなのに
このルール 壊れかけている
なのに これを言及しておる候補者 誰ひとりいない

で 「秋分の日」振り替え日
【中学生にもわかる「兵法」】も振り替えで
テーマ <弔い方> に振り替え
故人への想いを共有すること

小川さんの『宗教問題』では
早くから これらの問題に言及している

吾家の菩提寺 臨済宗
臨済宗でも 
最大一万五千近い寺を持つ曹洞宗でも
「僧侶数の縮小スピード化
二十年年後 僧侶数は40%減少する」と
曹洞宗 本山は推定
つづく浄土真宗でも 日蓮宗でも 同じ
でも 各本山 打つ手出す気配無し

文化庁宗務課 今年1月に公表 
宗教法人の約63%が年収300万円以下
世にいう「寺院消滅」の現実化
原因 →ほとんどの人がお葬式や法事をしなくなる
<弔い方> 忘れてしまう

自民党総裁選/立憲民主党代表選の諸氏
<生きてる人間>しか 見てない
<人は死ぬ>を 見てない

戦国もの 
TVドラマ/読み物で人気 あり続けるのは
<人は死ぬ>が
重低音で流れているからだ
2024/09/23(月) 薄曇り


審判がいない 戦争


『武道通信』十ノ巻  つづく

【中学生にもわかる「兵法」
「勝つ」とは? 最終的な「勝利」とは?
兵頭二訴二十八 】

野球/サッカーとかのスポーツ競技
将棋/囲碁とかの遊戯競技
勝ち負けを決めるのはルール
やる前から決まっている
審判/レフェリー/ジャッジがいて 
ルール違反者にはペナルティが課せられる
制限時間/点数などで勝負は決まる
誰もが文句のないような形で
一部熱狂的ファンが騒いだとしても  勝者と敗者に分かれる

ところが 國と國との戦争は 政府軍と反政府軍との内戦も
審判/レフェリー/ジャッジはいない
戦争はどちらか一方が好きなとき 好きな場所で始めることがきる
ロシア⇔ウクライナのように
互いが相手を非難する 審判がいないのだからルールは有っても
無いようなもの
両方がやめたくない場合 いつまで際限なく続く
ロシア⇔ウクライナのように

2022年2月24日  ロシアのウクライナ侵攻開始
この9月で900日に及ぶ

【兵頭 → さんざん追い詰められた側が、逆に国際世論を味方につけ、
外国から武器や資金も人手の加勢もつけて
長い時間をかけて相手をとてもいたたまれないようにし、
ついには元の国境の外まで撤収させていまった、
そんな経緯をたどった戦争もあります。
そして、やがてどちらからともなく、なんとなく攻撃を停止し、
しばらく銃声が聞こえなくなった後、双方の側が、「我々が勝利した」
と発表したりします。】

ロシア⇔ウクライナ いつ お互いに 「我々が勝利した」と宣するのか
国際世論 これまた 二つに分かれる
では 本当は どちらが勝ったと云えるのだろうか

それは 次回に
2024/09/21(土) 晴れ


明日 武道通信かわら版 配信日


『SHOGUN』 エミー賞 18冠したこともあるので
異國のひと なぜサムライ好きなのか
異國のひと いつからサムライ好きになったのか
一考してみた

◆19日 UPするの失念
2024/09/21(土) 晴れ


スサビの心


松岡正剛氏の項も これが最後だ

【松岡 → 茶の湯は遊芸のひとつである。芸術とはいわない。
遊芸は遊びであるが、日本で遊びというのはなかなか深い。
そもそも「スサビ」が「遊び」であった。

スサビ⇒荒び 
ルーツはスサノオにまでさかのぼる
スサノウの「スサ」 スサビの「スサ」からきている
風が吹きすさび その景色に心が動くこと
それがスサビの起源 これが遊びの発祥

スサビの心を持つことを 遊びの本懐としたからだ
誰が 
紫式部 清少納言 藤原道長ら 王朝の人々
「あわれ」とか「をかし」の感覚

スサビ=遊び 次第に和歌の流行とともに
「歌数寄」と呼ばれるようになる
<数寄> 平安の世の<好き> 色好み
鎌倉の世になり 歌道の風流を意味する<数寄>になる
歌数寄を中心に日ノ本の遊芸のかたちができあがっていった
このかたちは連歌に継承され さらに茶の湯に受け継がれた
その遊芸にも覚悟と作分があった

松岡氏 最後は「武道の中の日本」のテーマに従い 収めてくれた

【松岡 → 遊芸に覚悟と作分があるように、武芸にも覚悟と作分がある。
武芸という言葉は遊芸よりも新しいが、そこに流れるものは変わらない。
遊芸が徹底を旨{むね}としたように、武芸もまた徹底を旨とした。

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「茶の湯」が「茶道」に
「武芸」が「武道」に
徳川家康 非武装のため
スサビの心を封じた結果

『SHOGUN』  家康モデルの<虎永>には
スサビの心 あったか?
2024/09/17(火) 晴れ


四畳半


「覚悟と作分」 その前に 「一客一亭」
辞書 → <一人の客と亭主だけの茶事>
茶室に 亭主と客の二人だけのイメージ 
違う 四人 いるときもある
亭主は その一人一人の客の心をもてなして
その客の心に従ってふるまう
これ 「茶振舞い」

茶を出すだけではない
当日の茶席をどのように用意するか
あれこれ考える
道具の取り合わせ
茶花や掛軸を選び
懐石の茶菓を組み立てる
当日は当日で その日の気象によっては
水の撒き方も変わってくる
寒ければ 湯の具合も変わってくる
こんな風に
気分をしだいに昂揚させ そして当日の客に対峙する

【松岡 → このような一客一亭の心は利休が茶の湯を大成する前に、
すでに武野紹鴎{たけのじょうおう}によって確立されていた。
紹鴎はもともとは連歌師で、その後は茶の湯に精通して、村田珠光{じゅこう}が発案した草庵をさらに「侘び茶」までつきつめた。四畳半という極小のスペースをつくりだしたのも紹鴎である。
のちに利休は究極の二畳台目を考案したが、紹鴎の四畳半という大きさこそ
その後の茶の湯のスペースを決定づける画期的なものだった。茶の湯のリングはここに決まったのである。それが茶の湯の「埒」だった。
武野紹鴎は一客一亭の心構えについて、「覚悟と作分」を説いた。
「胸の覚悟」と「景色の作分」である。
覚悟とは亭主の用意がそこまで徹底しているか、仮に徹底してなくとも、どこまで踏み切るか、そのことを迷わぬことをいう。
たとえば、床の間の茶掛け(掛軸)を本阿弥光悦なら光悦の消息(手紙)にするか、
それとも一休禅師の黒跡にするか、迷ったとしても、どこかでどちらかに踏み切らねばならない。それによって茶釜が決まる。茶釜が決まれば茶花も決まる。いや、茶花は決めないで当日を迎えようというのでもよい。…………
いずれにしても、そのような覚悟が決まれば、ついで景色をつくる作分もおもしろくなってくる。
元来、茶の湯というものは、その次第の全体が景色の連続でできている。景気というのは、露地の風景だけでなく、茶碗の形や色も景色であり、茶杓の一本にも景色があるというふうにとらえる。それら景色が連動していなければならない。それをつくるのが作分になる。このように紹鴎は「覚悟と作分」を亭主に求めたのである。】

ちょっとでも茶道 いや茶の湯をかじった者にしかわからぬなぁ

次回は「荒ぶる」が「遊び」になる話だ

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実家が区画整理で東へ15mほど移動する際
老いた父母が新築した
その折 嫁いでいた姉が 四畳半の茶室をつくらせた
姉 茶道の師範していた “出張先”の出稽古用であった
二畳ほどの物置には茶道具が詰め込まれていた

そういえば 子供ころ六畳間の床の間に掛けられていた
能楽に出てくるような爺さんが描かれていた掛軸
どこへ いったんだろう…………
あの掛軸にしたら 姉 どんな「覚悟と作分」するの やら
2024/09/15(日) 晴れ


同朋衆{どうほうしゅう}


茶室といえば
 “一般教養” 安土桃山時代 だが
茶室空間 いつごろできあがったか
正確なところはわからない
博学のひと  松岡氏が云うから そうであろう
鎌倉 平安まで 遡るのか
それはともかく

【松岡 → 茶の湯の発達につれて登場してきたことははっきりしているが、
まだ空間的な変遷の細部はあきらかになっていない。
が、この茶室空間が興味深いのは、そこに数々の道具立てとともに、
作法のようなものが付着し(茶礼)、そこに従来にはまったくなかった
「もてなし/しつらい/ふるまい」の完成がしくまれていったというこである。
これを仕上げたのは、室町将軍のかたわらにいた同朋衆たちだった。
とくに有名なのが足利義政時代を前後した
能阿弥 芸阿弥 相阿弥の“三阿弥”である。】

<三阿弥>
能阿弥{のうあみ}/芸阿弥{げいあみ}/相阿弥{そうあみ}の父子三代の称
代々唐物の鑑識・管理や座敷飾りの指導などを職としたが
水墨画家としても著名である
能阿弥 「白衣観音図」
芸阿弥 「観瀑図」
相阿弥 「山水図襖絵」

彼らは もともと将軍の身辺をめぐる雑役に従事していた者たちだが、
その中には絵師/工芸師/庭師/能/狂言師など
特技を持った芸能人の一団であった
将軍の近侍として仕える同朋衆と呼ばれる者たちも
独自のサークルを作っていた
彼らにはこの時代の芸能をリードする者が多く
能楽の観阿弥、世阿弥父子や
連歌師の頓阿弥/琳阿弥/庭師の善阿弥などがあらわれた

【松岡 →同朋衆はともともは道具立てのための目利きの役目をもっていた者たちであるが、すぐさまスペース」・デザインのいっさいを取り仕切っていった。
床の間のデザインから作庭のデザインまで、かれらがもたらした才能は、今日の日本の美の多くの原型をつくっている。のみならず、かれらは絵師としても茶の宗匠としてもすこぶる有能だった。同朋衆は日本の最初のアートディレクターなのである。】

覚悟と作分
まだ 出てこない
次回へ
2024/09/13(金) 晴れ


空間文化史


さて 久しぶりに  松岡正剛 登場
【武道の中の日本<九>  覚悟と作分】
<作分>  <作文>ではない
作意  作者の意図だ

スポーツには ふさわしいスペースがある
と切り出し
かつての日本では このスペースのことを
「埒{らち}」といった
まだ 本題ではない 間口の話だ

【松岡 → 埒は古代からある言葉で、柵に囲まれた場所のことをさす。
一画といった意味をもつ。その埒の中で事が進み、事が仕切られた。
それを「埒があく」という。閉じた埒の中でなんらかの埒をあけること、成果をあげること、
そこに日本の「場所の精神」というものがあった。日本の格闘技もいつまでもそのような「埒のあけかた」を守ってほしい。】

その後 「埒」は さまざまな場面に出現する
その代表は 「庇{ひさし}の間」などの「間」
庇 → 建物の窓/出入り口/縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。
第二は鴨長明『方丈記』で有名な「方丈」
一辺が一丈(約3m)の正方形 一丈四方。
長明 このスぺースの中で書いたという洒落だ

日本の空間文化史にとって重要な「埒」であると 松岡氏
空間文化史と きたか
大谷のホームラン打球がスタンドに飛び込む野球場
米國の空間文化史なのだろうか

狭い日ノ本の空間文化史のはじまり
「九間{ここのま}」 縦三間、横三間

九坪ほどの部屋
特に縦三間 横三間の部屋
室町時代にはこれが正式の座敷の基準の広さであった 
正方形のリングのようなスペースだ
日ノ本人は 長い間 この九間を最も基本的なスペースとして重要視した

この九間につづいて第三に登場したのが
室町時代に入り流行した「書院」 「会所」
部屋の一隅に「床の間」や「棚」が加わった
これこそが 後の近世近代の“日本間”の試作品となった
と松岡氏

そこへこれらの考え方を破るスペース感覚が出現
それが茶室空間であった

次回 本題の 覚悟/作分
2024/09/11(水) 晴れ


東郷平八郎 乃木希典


さて やっと 「トーゴー」「ノギ」の話だ
エルトゥールル号沈没から十三年
日ノ本 ロシアと開戦
トルコ人 皆 アジア西端から一喜一憂し見守った

アブドゥルハミト二世 観戦武官を
日露 あわせて六十万に及ぶ将兵
十八日間 満洲の荒野で激闘を繰り広げ
世界史上でも希に見る大規模な会戦となった
奉天会戦に従軍させる

この武官 後年 回顧録
「両国民(日本とトルコ)は誠実にして名誉を重んじ 誇り高い国民である
日本の神道はトルコ・シャーマニズムと共通点を持ち
トルコ神話と日本神話の源流は同じものである」

<日本語の教授と友好に関してはしかるべき人材を約束した>
人物が茶人 山田寅次郎
将兵たちは海軍兵学校の練習少尉候補生であったからだ

寅次郎  トルコ人将校に日本語を教えるから貿易を営み
トルコとの架け橋になっていた
その山田
黒海に展開するロシア艦隊の動向を探っていた
山田に協力するトルコ人たち 高台から二十四時間見張っていた
ロシア艦隊が黒海からボスフォラス海峡を抜けて地中海に出 バルチック艦隊と合流するかを探り その動向を逐一日本へ報告していた

奇しくも  「天気晴朗なれども波高し」の秋山真之{まさゆき}
エルトゥールル号の生存者を送り届けた比叡/金剛の練習生の一員であった

日本勝利の知らせに トルコ人 狂喜乱舞
息子や孫の男子に「トーゴー」「ノギ」の名をつけた
という話

オワリに
落日のオスマン帝国を徹底的に解体し
明治維新にならった本格的な近代国家に向けて
決然と歩みだした青年将校らがいた
一九〇八年 こうした将校中心に革命 起こる
青年トルコ人革命
その中に トルコ共和国建国の父 アタトュルクがいた
彼もまた寅次郎に日本語を教わった将校の一人であった

いま エルトゥールル号遭難の場所としても知られる
大島の堅野崎「かしのさき}灯台 近くに建つ
エルトゥールル号遭難者 墓碑は
アタトュルクが献じたものである

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拙者
日ノ本の○○○○になろうとした
なれこっないとわかったころ
男子が生まれた
○○○○と名づけた
2024/09/09(月) 晴れ


エルトゥールル号


小杉英了さん トルコの話
【トルコ―百年越しの民族感情
イランからの邦人脱出に唯一協力した国、トルコ。
新聞は金の力と伝えた。が、トルコ人なら誰もが知る
日本とトルコとの一世紀前の出来事があった。】


小杉さん 曰く
【日本人のために、危険を犯してまでも救援機を飛ばしてくれたその行為を、
当の日本の新聞が、あたかも金の力であるかのように言うその心根の腐りぐあいもすさまじいが、日頃、経済大国日本の諸外国における振る舞いを、斜に構えて酷評してみせるインテリたちの頭は、目先の利害や力関係で動く人間のあさましさは――まるで自分のことのように――分析できても、百年越しの民族の記憶が突き動かす心情など想像の埒外なのだろう。】

新聞 → 朝日新聞 一九八五年三月二〇日付け
朝日新聞の<心根の腐り> いまでもつづいているのだろうか
朝日新聞のChina Koreaの反日感情の<民族の記憶> いまでも大きく扱う

一世紀前の出来事 → エルトゥールル号の沈没 
明治二十三年 九月十六日 夜
諸氏 よく知ることであろうから省く
「トーゴー」「ノギ」の話だ
いや その前に  やはり一言 付け加えて置かねばなるまい

エルトゥールル号の生存者を乗せた 比叡/金剛 両艦
十月十一日 日本を発ち 翌年元旦 
祝砲の中 イスタンブール港に着く
トルコ側の歓待 熱烈
アジア人にしてはじめて近代化に成功しつつある
Japonya{ジャポンヤ}(トルコ語)が
海軍も漁民も 一つになって
傷ついたトルコ将兵の窮地を救い 手厚い介護の上 
本国まで送り返してくれたのである。

皇帝アブドゥルハミト二世 尽きせぬ謝意をあらわし 友好を求めた

日本将兵 ぴっぱりだこ
軍艦 千客万来
トルコ人 日本人の風俗習慣 何事にも興味津々
中でも皆が切望したのは 日本の武道
資料にある 剣道 柔道 角力(すもう}までもが演武された

1199年 建国以来600年
衰えたりといえどもオスマン=トルコ
尚武の気風を尊ぶ國 オスマン帝国
それが18世紀以来 西南部はイギリス フランスに侵略され
北方は絶えずロシアに脅かされる
そして19世紀末 エルトゥールル号沈没のころ
イスラームを体制理念とした老大国オスマン
動脈硬化の中 弱体化の一途を辿っていたのだった

日本使節団 帰国の途 迫っていたとき
トルコ高官 「日本の海軍士官 数名 このまま残してはくれまいか」
トルコの士官たちに日本語を教え 国交を深めたいのだ と

将校の残留はかなわなかったが 日本語の教授と友好に関しては
しかるべき人材を約束した

歓迎の熱風一過 比叡/金剛 イスタンブールの港を発ったのは
予定より大幅に遅れた二月十日のことであった

長くなった
「トーゴー」「ノギ」の話は 次回で

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某君の総裁選出馬表明で
選択的夫婦別姓 是非 巷でにぎやかだ
『真似てみたい武士の妻の作法』で書かなかったかな
江戸の世の武士夫婦 <強制的夫婦別姓>
妻の羽織の家紋も実家の家紋

拙者 総裁選出馬表明の折
<夫婦別家紋>を呈す
2024/09/07(土) 晴れ


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