HOME

アイコン
OLD NEW

マバラカット慰霊祭


前田 → 18,19年前  TVドキュメンタリー番組で
パオラ諸島ベリリュウ島
塹壕や地下壕 遺骨ゴロゴロ
厚生省 回収したと聞いていたが驚く

米軍に通信機を破壊される
選ばれた80名  パオラ本島に向かって島伝いに泳いでいく
着いたのは一人 後は皆 鮫に食われた
特攻隊だけではなく そこまでして戦った人達の遺骨
いまだ回収されす野ざらし

*ペリリューの戦い 
昭和19年 9月15日から11月28日にかけ
ペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた
米軍 当初の計画では島を4日で攻略する予定であったが 
最終的に2ヵ月半を要することとなり
米軍の作戦計画を大きく狂わせるた
要塞化した洞窟陣地などを利用した日本軍の組織的なゲリラ戦法は
米軍を苦しめ 後の硫黄島の戦いへと引き継がれていく

徳田 →  神風特攻隊が初めて飛び立った飛行場
ルソン島マバラカット飛行場跡でのマバラカット慰霊祭 
日本政府が建てるべきものを フィリピン中学校先生
ダニエル・ディソンさんが中心になって反日感情がまだ強い昭和49年
反対する人達を説得して建てた
除幕式には多くのフィリピンの人達が集まった
日本からの参加者は一人もいなかった

*ダニエル・ディソン
神風特別攻撃隊員からマスコットとして可愛がられた
当時14歳のダニエル
長じて第一航空艦隊猪口力平参謀と第二〇一航空隊中島正飛行長共著の
「神風特別攻撃隊」(英訳文)を読む
往時の優しかった隊員が別人の様に厳しい顔付きをして
凛々しく出撃しえ征ったことを思い出し
同志を慕って一九七四年(昭和四十九年)
マバラカット飛行場跡に顕彰碑 を建立

−−−−−−★−−−−−−
フィリピンの映画館
神風特攻機 米空母に激突
館内観客 一斉に歓喜の雄叫び
国際線パイロットであった鎖帷子剣士から聞いた話

反日感情とは何であったか?
2025/09/30(火) 晴れ


特攻隊員


【論客 徳田虎雄
弱きを助け、悪しきを挫く
――前田さん、僕はね、このメジャー(ものさし)で
政治改革、アフガンもすべて計る】
 
前田 → 15,6年前 『徳洲会の挑戦』 読んで徳田を初めて知る
初めて会ったのは 杉山の参議院選挙決起集会
自分もいろいろな政党から立候補の話
杉山の応援演説をとおし他の政党を比べ
自由連合のユニークさと同時に 徳田代表への興味を持つ
杉山がフィリピンへ神風特攻隊慰霊祭ツアーに参加すると聞く
そのツアーの牽引役 徳田と聞き
「ますます「わからん人だな」(笑)
かねてから論客として対決してみたいと
 
徳田 → 格闘技のこと詳しくない 前田の輝かしい戦歴しらない
格闘技音痴だが 武道精神には一言 持っているつもり(笑)
 
前田 → そんな気がします
*徳洲会理事室に入ると 東郷平八郎「皇国の興廃 この一戦にあり」
の大きな額 その脇に「小医は病を癒し 中医は人を癒し 大医は国を癒す
徳田虎雄」の書かれていた小さな額
前田 それを見ていた
 
前田 → 先の大戦の本 よく読みます
森史郎『敷島隊の五人』 も読む
改めて特攻隊員の心情を思うにつけ
日本の戦後の彼らに対する処遇を思うとやるせない
特攻作戦の是非は今でも問われていて
非の一つとして片道燃料で飛んでいったといわれるが
片道燃料だったのは戦艦大和だけ
沖縄の海岸に浅瀬にの乗り上げて米軍を迎え討つ作戦上の片道燃料
 
徳田 → 前田さん いまお幾つですか
前田さんの世代で無念の思い出で死んでいった多くの戦没者のことを
考えてくれる人がいることはうれしいですね
 
前田 この年 42歳であった
拙者 55歳であった
敗戦後少年二期生
多くの戦没者のこと考えるには幼すぎたが
敗けた悔しさはあった
小石を特攻機に見立て 大きな石を米軍艦に見立て
投げ続けた
特攻隊員になりたかった
 
−−−−−−★−−−−−−
『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯』
昭和十九年秋 五人の特攻隊員たちが比島マバラカット基地を飛び立った
彼らは三度引き返し 四度目にレイテ島沖でその若い命を閉じた
隊長の関行男は二十三歳  残る四人の隊員たちは二十歳前後の若者であった米空母に体当り突入を敢行し みずからの肉体を四散させた五人の若者たちは最後の出撃にいたるまでの残された時間の中で何を思い いかに生きようとしたのか 五年の歳月を費やし、新事実を駆使して描かれた
2025/09/28(日) 晴れ


ものさし


自民党総裁選 10月4日投開票
 
【米国のテロ報道を見るにつけ、政治もマスメディアもムードで流れるものだと実感させられた。それは時代の空気とでも言っていい。その時代、その時代の空気を人々は気づかず吸い込み、そして、その空気に流されていく。バブル経済に浮かれたこともそうであり、大東亜共栄圏への傾斜もそうであった。
自由連合が政治政党として党議拘束をしないのは、このムード、空気に流されない各自の判断を重んじたいからだ。国会での投票も各議員の判断で賛成、反対を決めればよい。一色に染まったムード、空気に一石を投じる自由を失いたくないと考えるだけだ。
アメリカ会議でテロ報復の決議に一人反対した議員がいた。皆が言う「正義」に、彼女は一人だけ異議を唱えた。それは、この正義が果たして正義だろうかと、アメリア国民に考えるチャンスを与えたと言える。】
 
武道通信 十七ノ巻
論客談言 <論客>徳田虎雄
「正義」を計るものさし(メジャー)
――自由連合の党議拘束とは、この「ものさし」
 
次回 論客対談 徳田虎雄
 
−−−−−−★−−−−−−
物としての「ものさし」以外 
物事を判断する際の基準を表す 「尺度」「規準」「指標」
自民党総裁選 五人の「ものさし」 
尺度」/規準/指標 異なるようだ
2025/09/26(金) 晴れ


「象徴の武士道」


武道に秘められた花 
そのつど 時と所と象徴を得て うつろった
武と花の象徴が 日本刀に求められるようになったのも
そういう うつろいのひとつである

そこには時代変化のなかで 二度にわたる“事件”が関与したと
松岡氏は考える
刀狩り
一度目 戦国の世の末
集団としての武道は解体し 一人ずつの剣法者が自身を鍛える道 拓かれる
その自身の内なる武道を鍛えるため 朱子学 陽明学が発達した
二度目 明治
武門の廃止とともに 刀剣所持が許可制になっていった
もはや刀は武器でなく 刀は武器の「魂」にならざるを得えなくなっていった
日本刀は象徴化されていった
「象徴の武道」というべきである

このように「武の花」が象徴的に転移していったということは
別の言い方をするなら
一本の日本刀にすべてを託せる
「沈黙の力」とでいうものが限りないほどの内部の力を持たねばならぬ
その日本刀は もはや人を殺傷するものではないからだ
またそれは 一本の刀に 日本における武道に変遷のすべてを
万感をもって去来させる「おもい」を対応させることでもあった

世阿弥は「秘すれば花」と言った
現代の武道は 何も語らないかに見える
一本の日本刀に 万事を読み取る力と ともに
(武道を)蘇生させるしかなくなっているかもしれない
しかし そのことは「秘すれば花」であっても
「言わぬが花」でいいはずはない

−−−−−−★−−−−−−
毎朝の儀式
野袴に筒袖のなりたちになったとき
腰に脇差(小刀)を差す
拙者なりの
「秘すれば花」
2025/09/24(水) 晴れ


「皇国武士道」


ときは明治に
幕末に並びたった武士道と士道に
日本的キリスト教から新たな視点を見出す
新渡戸稲造/内村鑑三
その視点には もはや葉隠/陽明学の区別 なかった
江戸期の武道精神はまとめて日本人の道徳 美学
そのものと見なされた
そしてそれ以降 これら多様な武道のすべてをひっくるめて
「武士道」と呼ばれるようになる

田村直臣/松村介石/内村鑑三と共にキリスト教界の四村と呼ばれた
植村正久
「我輩が欲するところの者は洗礼を受けたる武士道である」
「洗礼武士道」である

この考え 明治のグローバリズムのなかで 
右も左も 軍人も政治家も商人も社会主義者も受け入れた
なうなると 右も左も その勝利に結びつく精神
ずべて武士道という風潮となる

東京大学 日本人初の哲学の教授井上哲次郎
明治三八年『武士道叢書』
<日清日露の戦果は「壮烈なる武士道精神」>

それだけではなかった 大東亜戦争前夜
武士道は皇国思想とも直結されていく
陽明学者 大橋健二
「皇国武士道」と名づけた

このような傾向に警告を鳴らす者もいた
和辻哲郎 『日本論理思想史』
武士道における忠君思想を天皇への忠誠にすりかえた

−−−−−−★−−−−−−
兵頭さん 初めて拙宅を訪ねてきたとき 開口一番 
「天皇教武士道」と吐いた
「武道通信」は天皇教武士道になるな 
と云いたかったのあろうか
「皇国武士道」より名づけて 妙である
2025/09/22(月) 晴れ


明日 武道通信かわら版 配信日


「忙中閑あり」  戦国の世の<女>たちを綴ってきた
父の死 夫の死で 当主(大名)となった女たち
従来の戦国の世の<女性の悲劇>史観に 
NO! と一矢報いたかった

『使ってみたい武士の作法』  上梓したあと
並木書房の奈須田さんと談笑していた折
「武士の妻が夫の後ろ 三歩下がって歩くわけ」を話した
奈須田さん 感嘆
「これいきましょう」で できたのが
『真似てみたい武士の妻の作法』

その翌年 柏書房さんから
『武女 乱世を生きた夫婦の絆』 上梓

夫が合戦へ 勝つか負けるか わからない
負けた場合 妻は
家臣の妻子 使用人らを逃げさせる手はずをとる
武士の夫婦は 実の戦友

江戸の世となり 合戦はなくなくなったが 私怨は残る
突如 夫が斬りかかられたとき 
妻は手に持った風呂敷包みを相手に投げかけ 
夫が鯉口を切り 抜刀する一瞬{とき}をつくる
2025/09/19(金) 曇り


「陽明学的武士道」


時代と社会の変質によって
窮地に追い込まれてきた武士道であるが 
その窮地をもってこそ武道は蘇生する
その方向 いくつかに分かれる
一つは 前述した『葉隠』
戦場の気風を感情的に教えようとした点 以外に
『葉隠』の本音 主君への忠誠

『葉隠』より 凡そ十年後 
大道寺友山 『武道初心集』
主君への忠誠を核に「死ぬ」を前提とした武士道
あえて自分をさらなる窮地に追い込んで心身を鍛えた

もう一つは 「儒学的武士道」
二つの系統に大別される
山鹿素行/室鳩巣{むろ きゅうそう}の流れをもった
「朱子学的武士道」

もう一つに
中江藤樹/熊沢番山にはじまり 
横井小楠{しょうなん}/佐久間象山/勝海舟/吉田松陰
/坂本竜馬/山田方谷{ほうこく}/河井継之助に継承された
「陽明学的武士道」

江戸後期に向かって
「朱子学的武士道」 衰退
「葉隠的武士道」と「陽明学的武士道」とに大きく分立していった

−−−−−−★−−−−−−
朱子学 → 「理気二元論」「性即理(せいそくり)」
この世界のすべてのものは 「理(り)」と「気(き)」 の二つで成り立っている
人間の本質(性) 本来 正しい道(理)に従うものである

陽明学 → 「知行合一」 「致良知{ちりょうち}」
知識と行動は切り離せない
人間の先天的道徳的知覚力・判断力を発揮せよ

世相も時代と社会の変質によって変化する
とくに 外部(黒船)からの影響は大きい
「朱子学的武士道」 時流に乗れなかった
2025/09/17(水) 晴れ


「懸命武道」から「衆の武道」 そして……


平安後期 摂関政治の解体と荘園の自立化 武門が誕生
一族郎党の御恩奉公/一所懸命の生き方 拡張 誇張されていった
男の良き生き方 問われはじめる
それとともに 所領や戦場が結びつけられ
土地に生死を懸ける存在のあり方に転移していった

このころから武門の棟梁たち
浄土の教え 禅林の感覚 武具甲冑の美にも近づいていく
これらは総じて 「懸命の武道」

戦国期 武道は「國」「家」ごとに多様化した
そこに國自慢/家自慢があった
それでそこには武田家『甲陽軍艦』を読めばわかるように
荒ぶる武士のための道徳を前提にした戦場武道あるいは集団武道としての
共通性があった
これを松岡氏 「懸命の武道」につづき
「衆の武道」と名付けている

ところが それが信長・秀吉の天下一統で大きく変質させらる
戦場も集団も 天下人の支配システムのシナリオの一部となる
さもなくば徹底的に追撃される
*「シナリオの一部」とは云いえて妙
 朝倉義景 浅井長政 武田信玄 上杉謙信 松永久秀 毛利輝元
 小田原城の後北条氏 九州の島津 奥羽の九戸
 「シナリオの一部」になることを拒否した

戦国の「國」「家」を背景とした一族郎党社会は
あっというまに麻を引き裂くように散り散りにされた
それが信長/秀吉/家康が天下を治めた意味である

そうなると 武道はもはや各地の戦国大名のためのものでなくなっていく
刀をもって生きることを 組織でなく 一人一人が確立するしかなくなった
ト伝/武蔵/宗矩らはそうした時期に登場してきた
「個性の武道」を引っさげてきた武人だった
彼らは腕試しの機会も少なく むしろ「身」と「心」をつなげることに向かう


しかし さらにその後
元和偃武を境に 戦乱と戦場がすっかり姿を消してしまう
仇討ちや闇討ちを別とすれば 
たとえ一人一人が命を賭して武道をまっとうする覚悟になったとしても
その心と技を発揮する場すらなくなっていった
集団/個としての闘いは幕府によって完全にもぎ取られてしまった
これが江戸時代の武士道の出発点となる

そこでやむなく「剣法を伝える」ことが重視され
武道の大半は道場で経験するプログラムやエクササイズになっていった
それを葦津珍彦{あしづうづひこ}は かつて
「教室武士道」と呼んだことがあった

−−−−−−★−−−−−−
葦津珍彦 出てきた
どこかにあったな 探す 出てきた
『武士道 ― 戦闘者の精神』(神社新報社:平成十四年刊)

一点 付箋が貼ってあるページ めくる
「『葉隠』は、主として戦場の気風を感情的に教えようとした点に
異色ある<教室武士道>といえるだろう」
2025/09/15(月) 薄曇り


一本の日本刀


きのう ゲリラ豪雨
モノ凄かった
土砂降りの雨/集中豪雨 なんてもんじゃなかった
ゲリラにも ゲリラの正義がある
不平等な名称だが 
人間社会にモノ申す 作為がある気がする

だが 雨上がりの空気の匂い 清々しい
大気も邪心/邪念 消し飛ばられたやも知れぬ
これ 石器人も 感じたのではないか
時代が変わっても 変わらないものある
時代とともに 変わるものもある
たとえば 武士道

−−−−−−★−−−−−−
【武道の中の日本<十三>
秘すれば花
武道は時代とともに変化した。もののふの道から皇国武士道へ
現代の武道は、一本の日本刀を読み取る力から蘇生させよ
             松岡正剛 】
 
 武道は時代とともに変化
「懸命」から「戦場」
もともと武道の源流
「もののふの道」「ますらおの心」に兆{きざ}したはず
男児の生き方というより 男児のあらわれ方を差していた
丈夫あるいは大丈夫と云った
注:「丈夫」 本来は「ますらお」と讀む
「大丈夫」の意味 「立派な男子」

それは必ずしも兵馬を操ることではなく
魂の漲{みなぎ}る高揚や充実を意味していた

−−−−−−★−−−−−−
松岡氏 刀の数え方「振」 知らないわけはない
なぜ 「一振」でなく「一本」なのか
日本刀に疎い現代人に あえて「一本」使ったのか
2025/09/13(土) 薄曇り


終章


隆慶一郎
『鬼麿斬人剣』で 何を描きたかったのか

ここは小川氏の言葉に 耳を傾けよう
【この作者、学徒兵の一人であった池田一郎は岩波文庫『葉隠』で、死とは何かを深く問いつめる。
「一番勝負氷柱割り」で、高崎藩勘定奉行野末頼母{たのも}との対話に三十数年後の『葉隠』の思想が語られる。
「刀は人を斬るものじゃない。武士ということを示す飾りにすぎない」という
頼母の言葉に、鬼麿は心の中で「刀を抜くことは、確かに一生に一度あるかないかのことだ。だがその一生一度のために、常に身構えているのが武士ではないか。一生一度の闘いに不覚をとれば、たとえ生命は助かったとしても、その男の武士は死ぬ」と呟く。
死とは主体として死ぬばかりでない。「士道不覚梧」もまた死である。この言葉は、三島由紀夫の思想にも通じる。このエロスの陶酔を昇華させることを描いたのは小説『憂国』であったが、隆慶一郎は、この『鬼麿斬人剣』でどう描いたか。順を追って読んでいこう。

清磨は逃亡の旅で併せて十二振の刀を打っている。このうちで金沢と三国(福井)、そして最後の丹波亀山で鍛えた脇差し、それに三国の芸者置屋豊田屋の女将お吟に与えた短刀と周山街道深見峠を下った山国村の猟人{またぎ}の娘に与えた薙刀造りの山刀の一振は、清磨らしい本造りであった。残る七振はずべて鬼麿の手で折られた。
五振の本造りの中で心を許した三国の狭客五郎蔵に贈った一尺八寸五分のほかは、みな清磨のシャーマンのカリスマ性に魂を魅了された女性たちのために鍛えた三振であった。
刺客に追われ死と背中合わせの逃避行の旅の束の間の愛だが、その愛に愛された女性たちに生涯に渡って刻印される。ここには他の時代小説家に見ない隆慶一郎の浪漫的な恋愛観が語られていた。

終章「八番勝負眉間割り」の中の有栖川宮の落胤、かやの里のお仙と、ここで打った焼身{やけみ}の脇差を見ることで、鬼麿は師匠が萩に向かったかの秘密を知る。脇差は出雲鋼であった。出雲路をたどり出雲鋼を求めて長州萩にたどりついたのであった。
「かやの里」。そこには有栖川宮の庶腹の息女を護り、現世の風塵の届かぬ民族学の聖域である。ここを終章に置いた構成はやはり非凡ではなかった。
 古代の倭国から面々と続いている民族感情を巧緻な形で演出して見せた。
この異色作家はかつてのフランス文学者池田一郎であることは知る人ぞ知る。】

−−−−−−★−−−−−−
映画『The Bodyguard(ボディガード)』
サムライ好き主人公(ケビン・コスナー)
日本刀の刃を上にスカーフを落とす
二枚になって落ちる
ありえない
ハリウッド版 妖刀伝説
2025/09/11(木) 雨


四方詰


なぜ 甲伏{こうぶ}せ造り 折らねばならなかったか?
古刀から慶長新刀期までは「本三抜造り」という工法
最も硬度のある刃金 刀の地になる皮金に
軟質のある心金の三種類の鋼を組み合わせ鍛着(鍛接)する
注:鍛着 → 複数の金属を加熱し打撃し接合する
これが「本三抜造り」 

さらに心金と同じ軟鉄を棟{むね}に組み合わせる「四方詰」
これは棟割れという棟の剥離を起こさないための製法
清麿の名声 この古法の「四方詰」で鍛えられた刀
注:刀身の反対側の部分を<棟> その背部を<峰> わかるかな?

しかし 井上真改 長曽祢虎徹{ながそねこてつ}の時代が終わった
江戸中期以後 より簡易な「捲{まくり}造り」「甲伏せ造り」が主流
捲{まくり}造り → 一枚の皮金と心金を鍛着させて心金を折り曲げ
皮金で包むように捲る この場合 皮金がそのまま刃の部分となる
「甲伏せ造り」 先に注で説明した
いずれも「本三抜造り」「四方詰」より安易な工法

清麿 己の<悪作>をこの世に遺すまいと 
鬼麿に折れとの遺言を遺したのだ
小川氏 「隆慶一郎の異色伝奇小説」と云うように
ハナシは荒唐無稽
身長2メートル弱 体重約120` 巨躯の野人
鬼麿 師の遺言に従い 諸国に散らばる駄刀を探し出し
それを切り捨てるために旅に出る
旅の道中で「斬人剣」と呼ばれる必殺の剣技を振るう

隆慶一郎 ここで何を描きたかったのか

−−−−−−★−−−−−−
隆慶一郎
処女作『吉原御免状』(1986) 直木賞候補
『一夢庵風流記』(1989) 柴田錬三郎賞
この間に書いたのが 『死ぬことと見つけたり』(1987)
主人公 山本常朝を彷彿させる
江戸時代初期 佐賀鍋島藩の浪人・斎藤杢之助
が 隆慶一郎(池田一郎) 肝硬変のため死去 で未完
享年66歳
2025/09/09(火) 薄曇り


漂泊民


海音寺潮五郎『日本の名匠』 <清麿の伝記>
佐藤寒山『日本名刀一〇〇選』 <窪田清音の清麿>
を讀むと 
一所に定住できぬ奔放な生涯 女性を魅了する個性
鍛冶の中で生きているシャーマンの性格が感じられる
隆慶一郎の着想も この辺りにあったのだろう
注:窪田清音{すがね} 江戸時代後期の旗本・兵学者・武術家

清麿の死 
史実 嘉永七年 明治維新14年前 十一月十四日
『鬼麿斬人剣{ざんじんけん}』 冒頭
その十一月十四日
末期の言葉
江戸出奔から長州萩へたどり着くまでに打った
甲伏せ造りの作刀 全部 打ち折ってくれ
愛弟子 鬼麿に云い残して死ぬ

清麿の弟子 史実 七人 鬼麿の名は無い モデルとされる刀工も無い
隆慶一郎 虚構の人物
十四歳で清麿に拾われた漂泊民 山人の子であった
注:甲伏せ造りとは
心鉄となる極軟鉄に安来鋼{やすきはなばね)を巻く日本刀の構造製法。
安来鋼とは
国内最高の砂鉄を採取できる旧雲伯国境地域(現・島根県/鳥取県県境)
で造られた鋼の総称

小川氏 ここで 漂泊民(ひょうはくみん)を説明する
土地を所有し 定住農耕で生活する「常民」
土地を所有せず 技術/芸能に拠{よ}って生活を立てていた郡民
誰からも支配されず また支配せず
古代以来 天皇家直属の民を誇りを持っていた

注:山間部で竹細工や川漁を生業としていた「サンカ」
良質な木材を求めて山を移動しながら椀や盆を作る「木地屋{きじや}」

王朝の碩学 大江匡房の談話 『江談抄{ごうだんしょう}』
淀川江口の遊女たちも この漂泊民

歴史学者網野善彦の研究で 
次第にその姿を歴史の中で鮮明にしてきた
隆慶一郎 その成果を伝奇の中に存分に採り入れ小説化した

−−−−−−★−−−−−−
網野善彦
昭和53年 『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』
学術書として異例の大ヒット
『異形の王権』『日本中世の非農業民と天皇』etc
拙者も数冊 讀んだ

渡辺京二/西尾幹二/福田和也ら 批判
「無縁」を「自由」と解釈するのは 
「戦後左翼の切ない夢想」
小谷野敦 『日本売春史』において 網野の「遊女」像を批判
史実において そうかも知れぬが
概念において
仏教における「無縁」 無条件の平等/慈悲の想いもあるのでは
2025/09/07(日) 晴れ


本日 武道通信かわら版 配信日


黒澤明 語り尽くされている
原節子 神話に覆われた銀幕のスター

かれこれ十年前になるか
『原節子の真実』
引退し引き籠った鎌倉・狛江の自宅を何度も訪ねる
そのたびに同居する甥夫婦が丁寧に応対してくれたが会えず
その三ヵ月後 節子は逝く
戦前戦後の資料を丁寧に調べ上げ
撮影現場の節子に関する貴重な証言も得て
著者が三年半かけてた労作

著書の中
小津安二郎の「紀子」 好きでなかった
好きな主演映画 挙げると
黒澤明 『わが青春に悔なし』
敗戦後 進駐軍に媚びる女優たちへの軽蔑
腹が減り 媚びる女優たちが捨てた ごみ箱を漁る
神話でない 
國を愛し 敗戦後の祖国を憂いた
大正九年生まれの女性がいた
2025/09/05(金) 雨


ヒッタイ族

U−NEXTで 古い古い映画 観る
拙者の生まれる二ヵ月前 公開
劇中 
♪青葉茂れる桜井の 〜  
「桜井の訣別」
学生たちの歌声 または BGMで流れる

古い古い 記憶 蘇る
二人の叔母と 倉庫で 絵本 見つける
二人の叔母 唄い出す 
♪青葉茂れる桜井の 〜 
美しいメロディーだった

B29で家は焼かれ 防空寓にいたろう二人の叔母
叔母らにとって戦前 美しかったかもしれない

監督/黒澤明 主演女優/原節子
非民主主義の世 批判的に描いた映画であったが
戦前 美しかったところもあった
と 映画に込めたのではないだろうか

−−−−−−★−−−−−−
さて 鉄を造る者 シャーマン
古代オリエントの遊牧民ヒッタイ族
紀元前1500年ごろ 小アジアに侵入
彼らはアジアを東へ東へ旅して
やがて地上から姿を消すのだが
彼らがもたらした鉄の製法だけは後世に伝わった

ヒッタイ族が滅亡した理由 諸説ある
それは置いといて その製造法だ 
ここから編集部の注
鉄鉱石を木炭で熱し 炭素を十分に含んだ鋼を製造する
金属表面に炭素を固溶させて硬度を上げる熱処理法
「滲炭法」を知っていた
紀元前 すでに 木炭が作られていたのだ

ヒッタイ族 製鉄技術を国家機密として厳重に管理し
他の民族に伝わることを防いだ が 滅亡
ヒッタイ族 製法技術をもって海を渡った 
製法技術 東へ東へ 日ノ本列島まで

日ノ本のたらら製鉄は砂鉄
樹木が豊富な日ノ本 鉄の生産に恵まれたいた
たたら製鉄
高品質ゆえに 日本刀が生まれた

海を渡り きたシャーマンの末裔
隆慶一郎が清麿に着目し 
清麿を通して超人的な漂泊民の鬼麿を
小説に登場させたことも故なきことではない
2025/09/03(水) 晴れ


鉄を造る者 シャーマン


隆慶一郎
むかしむかし よく讀んだ
『死ぬことと見つけたり』『吉原御免状』『鬼麿斬人剣』
『一夢庵風流記』『影武者徳川家康』etc

『死ぬことと見つけたり』 書いた経緯 気に入った
東大文学部 学徒出陣 支那大陸転戦
軍部推薦図書 『葉隠』三冊  中頁を破き
ランボー『地獄の季節』(小林秀雄訳)の頁 隠し持つ
活字に飢えたので つい 破らなかった
『葉隠』 の部分 読み出す
「山本常朝 ただ者ではない」と魅了された

「聞書」のどのあたりを読んだか 
もっと詳しい経緯 知りたいものよ

十六ノ巻
【刀と日本人・続
隆慶一郎の異色伝奇小説
名工・清麿の末期の願いに賭けて、山人鬼魔が往く
                  小川和佑 】
源 清麿  江戸時代後期の刀工
水心子{すいしんし}正秀 大慶直胤{たいけいなおたけ}
と並び「江戸三作」と称される
これは編集部:注

さて 小川氏の語りに 耳をかたむけよう
鉄を造る者 鍛冶屋 シャーマン 「呪術師」であった
鉱石を液体にし 金属をつくるという技
原始社会では 想像を超えた驚異の技であった
この冶金の技 神から特別な待遇を得た
人間にだけ与えられた人だと信じられた
鍛冶自身も 神から選ばれた者というプライド
大量の火を扱う鍛冶たち 常に危険と背中合わせ
鍛冶屋 神の加護を得ていると自覚

日本 アメノヒトツノ神(金屋子神)を祭る鞴{ふいご}祭りは
刀鍛冶ばかりでなく 野鍛冶 鋳物師{いもじ}まで含め
この神を尊敬し 心身を清め 斎{いつ}き祭る

これも編集部:注
アメノマヒトツは「目一箇(アメノマヒトツ」
いわゆる「一つ目小僧」
中国地方を中心にたたら製鉄や鍛冶 鋳物を行う職人たちに
信仰されている鉄と火の神
金屋子神(かなやごがみ) と同一視 また別神との説
アメノヒトツはアマテラスを岩屋の外へとおびき出す有名な天岩戸
祭りに使用する刀剣類や斧 および鉄製の大きな鈴などを作った
また ニニギが地上を治める為に地上に降り立った天孫降臨
ニニギに付き従う神の一柱として地上に降り立って鍛冶の祖神となる

鍛冶は人間の能力を超えた技術を授かったため
さまざまな禁忌{きんき} タブーと儀礼が伝えられた
たとえば 女性の立ち入りを禁じる「女人禁制」
金屋子神が女性に嫉妬するから 金屋子神 女神か
いや 古代社会通念
月経を「血穢{ちぎたれ}」として
不浄なものとみなすことで「不浄視{ふじょうし}」だろう

また鍛冶たちは土地に定着し農業を行わない
農耕民に農具や武器を与えることの出来る技術集団であることに
誇りを持っていた
鍛冶は 鉱石を求め 諸方を巡遊した 本来 漂泊民である

−−−−−−★−−−−−−
旧東海道沿い 生家の東側 隣のとなりに
鍛冶屋があった
いつも 体格のいいニイサン オジサン 火の前で
トンカン トンカン 鉄を打っていた
幼き吾 いつまでもじっと見つめていた
2025/09/01(月) 晴れ


オンリー・ワン


閑話休題

木村 → 戦前の民族派 スケールの大きい 気骨のある人たちがいた
欧米列強の植民地主義に正面から闘いを挑んで
「大アジア主義」という思想を担った人たち
玄洋社の遠山満 黒龍会の内田良平
そして大川周明 北一輝 滝川亀太郎ら アジア主義をさらに発展
大川周明 イスラム教の「コーラン」 初めて日本語訳
『回教概論』を書いたり 視野の広いアジア主義者 
大川 それぞれの民族が「本然を尽くす」ことを訴えていた
私も そのとおりだと思う
偏狭なナショナリズムでなく 世界の各民族が相互に尊重していくのが
私の基本理念

杉山 → 松本さんが机の上に置かれた『右翼は終わってねぇぞ!』
付箋がたくさん貼られている
ご本人に直接問いただしたいことがおありでないかと
お二人の対談終了時間も迫りましたし ご質問があれば

松本 → いやいや 一生懸命勉強させてもらっています

木村 → 松本先生にそれだけの付箋を貼っていただいたのは
右翼ではひょっとすると鈴木邦男と私だけはないでしょうか(笑)
新右翼も もっと勉強し 末松太平(「二・二六」を支援)さんの域を超えるようにしたい
我々は民族派活動家として つねに「行動」を起こさねばならない使命がある
イラク ユーゴ 北朝鮮へ飛んで行って意見交換をしたり 連帯を組んだり
自分の体を動かし いわば「実践」をすることから 地に足がついた考えを鍛えていきたい
今回「対談」なんておこがましくて 先生の胸を借り 勉強させていただいている次第

松本 → それだけ経験があり 私とは違った世界や民族を見てこれたのですから教えられることがある
ただ若干 私が歳上だというだけです
人 それぞれ資質が違うし 役割が違う
変革期に表れる三つのタイプ
一つは予言的思想家 いまの世 こうなっている 
だからこうしなければならない 
佐久間象山 吉田松陰
二つ目 言的思想家の考えを 「これは正しい」という人間
では自分は何をやるか 見て行う志士タイプ
奇兵隊をつくった高杉晋作 海援隊をつくった坂本龍馬
三つ目 政治的人間
もうこれからは武士の時代ではないといって
廃藩置県 徴兵制度 近代国家制度を作った
西郷隆盛 大久保利通 木戸孝充
変革期 自分が成すべきことは何か? を確かめるために
違った考えの者と議論しなければならない
議論していくと 自分の資質 役割 アイディンティティが見えてくる
これは国との関係もそう
ナショナル・アイディンティティの再構築を
日本だけに閉じ込めっていてはダメ
つまり日本のオンリー・ワンを考える必要性
 
これにて 松本⇔木村対談は閉じ

−−−−−−★−−−−−−
オンリー・ワン → たったひとつしかない 他にない唯一無二

「日本人ファースト」→ 日本人優先
「日本のオンリー・ワン 」までは届いてないようだ
2025/08/29(金) 晴れ


七十八歳からの手紙


余談閑話

「手紙」という名の喫茶店あり
店内 便箋/封筒/切手 売っている
筆記用具 鉛筆/ボールペン/万年筆/筆ペン
置いてあり 使用可

窓際の席に座り
道往く人を眺めながら 便箋を開く
万年筆のキャップ 外す

誰に宛てて 書こうか
♪さみしさの つれづれに 手紙をしたためています あなたに
井上揚水の歌が浮かんだ

瞼の裏に焼き付けていもいない 生母にか
敗戦の悔しさを伝えてくれた 祖母にか
そうだ 
二十歳の自分に宛てて 書こう
七十八歳からの手紙

そこで
夢 覚めた
2025/08/27(水) 晴れ


非国民


杉山 → 批判が本質を高めるというのはそのとおり
戦前のある時期から戦後にかけ
批判精神が弱くなったことが 日本を歪にした
開戦前は「非国民」「アカ」
戦後は「右翼」「反動」

松本 →  ロマン派久保田与重郎 
大東亜戦争のときよりも日露戦争のときの方が
国は健全で強かったといっていた
大東亜戦争のとき 「非国民」といって差別し
国策の批判しただけで「売国奴」
ところが 日露戦争のとき 新聞が非戦論をいったり
あるいは幸徳秋水とか内村鑑三が
この戦争はブルジュア帝国主義戦争だ 不義の戦いであるといっている
北一輝によれば
「民族の生存競争 ロシアもそうだから この戦争は間違っている
いろんな考えがあっても 非戦論を言う人たちを
「非国民」とはいわなかった
久保田 そういう許容力がある民族の方が力を持っている

木村 →  まさしく現政権にも言える
今の小泉さんブーム いま松本先生がおっしゃった
批判精神も受け入れていく度量の広さがないと危うい
手前味噌で恐縮ですが 松本先生が 私の本を「週刊朝日」で
「ここには新民族派の誠心がある」
ブームとしての右翼 保守派とか
いま幅を利かせています そこには本当の誠心がない
批判する者のことは認めがらない ちょっとでも意見すると「敵」
「新しい歴史教科書をつくる会」 その典型

−−−−−−★−−−−−−
「ちょっと意見する」と 
小林よしのり氏から反論
七ノ巻 
杉山 前田日明に代わって代弁
「薫習が育む独自性がある ― 「つくる会」がめざすこと」への返答」
反論ではない 返答

いま 幅を利かせている 「日本人ファースト」 
薫習が育む独自性があるか?
2025/08/25(月) 晴れ


思考言語


杉山 → コスモポリタンが出たところで
英語第二公用化 どうお考えですか

松本 →  世界に行って商売がやりやすいように
ビジネス第一主義の考え
これから世界に発信していくためには英語でななきゃだめ言われ
そうかそうかと思っている
21世紀日本の構想懇談会の人々の精神構造
まさにアメリカの属国になっている証拠

《いまの世では
医師 医学に関する情報収集 知識のアップデート および海外の医療専門家とのコミュニケーションにおいて英語が不可欠 論文も英語
医師の思考言語 英語
楽天 2010年 社内英語公用語化を宣言
2012年 正式に英語を公用語
会議や資料は基本的に英語》

木村 →  精神的に敗北しちゃっている
その点 カナダのケベック州 人口8割 フランス系
いまでも強固にフランス語を守っている
中部のオリタリオ洲 英語の道路標識 
ベック州に入ったらいきなりフランス語
非英語圏の外国人 英語をペラペラ話す人も
自分の宗教 文化を守っている
英語は操れるけれど 日本の文化 歴史に無知だと軽蔑される

《小学校英語教育 2020年度か3年生から「外国語活動」
5・6年生 教科として本格的に英語
が導教員の指導力不足など様々な課題も浮き彫りに
中学生の7割以上が小学校で「英単語・英語の文を読むこと」
8割が「英語の単語・文を書くこと」をしておきたかった
彼らが四十、五十になったとき 新年祈願 初詣 行くだろうか
行くだろう >

−−−−−−★−−−−−−
思考言語 思考が先 言語は後
「日本人は日本語で考える」
特定の事実を述べる言葉ではなく
日本人であれば母語である日本語で思考する
という一般的な認識を示す表現

これは思考と言語が深く結びついていること
また日本語の持つ
情報が伝えられる背景/状況/文脈/前後関係で
言葉の裏にある意図
これまでの経緯
状況を踏まえて相手の行動を理解する
「高コンテキスト文化」の特性から日本人は言葉にせずとも
相手が状況を推察するような思考プロセスを持つことを示唆
阿吽の呼吸
外国語 似た言葉はあるが 直接相当する慣用句は無い

−−−−−−★−−−−−−
中学一年 初めて英語の授業
犬の泣き声 は「バウワウ」
犬は「ワンワン」に決まってる 
英語 ヤ〜メタ と 

2025/08/23(土) 晴れ


ディベート


杉山 → 明治15年『軍人勅諭』 明確に軍人は政治に関わるな
しかし 伊藤博文 山県有朋らのシリビアンコントロール 無くなる
統帥権 拡大解釈で軍人が握る

松本 →  それを最初にやったのは石原莞爾{かんじ}
ロンドン軍縮海軍条約 (海軍大将)加藤寛治
政府が了承した艦隊編成5・5・3に異をとなえる
「政府が口出す問題ではない 統帥権の千犯にあたる」
石原 これを逆手につかった  満州事変を起こす

木村 → そういうことを教科書でも
是々非々{ぜぜひひ}で書かなければいけない
我々民族派も是々非々で歴史を検証していかなければダメだ
「全部聖戦だ」「全部侵略戦争だ」 水掛け論
最後は感情論

松本 →  部分的のは聖戦であったという人がいてもいい
日本は 表現の自由の国 
本来的には教科書検定制度が廃止され たくさんの教科書が出て
「これがいい」と教師が自分の責任で教科書を選び 
教育していけば 自ずと落ち着き所が見えてくる
アメリカは検定制度なんかない 
検定制度の持っている問題 いま出てきている

木村 →  そうなると大学の入試方法も大きく変ってくる
マークシート記入 カッコの中に出来事・物事の名前を入れるのでなく
大事なのは結論にたどりつくプロセス
大学入試で「論述式」を採用
大東亜戦争を「聖戦」だと思うならその立場から
「侵略戦争」だと思うならその立場から
是々非々ならその理由を書かせる
答案の論理の一貫性や説得力で採点の基準を置く

松本 →  そういう自主的な判断をもった諸君が
肯定側 否定側に分れディベートするならいい
しかし いまのディベート 全部 嘘
まったく違う二つの立場があります
といって自分が信じていない考えを闘わせるなんて
これはアメリカの教育がみんなそうなっていますから
これはアメリカの弁護士にやり方
とにかく口で勝てばよい 
法律で勝てばよい あるいは法律に触ってなければ
何をやってもよい というだけの発想で裁判をやるわけです
自分の信じていないことを云って勝つ
アメリカの法律の欠陥
でも逆にいうと それだけ自分の考えを述べるという制度になっているわけ
アメリカに場合

木村 → たしかにいまのディベート じゃべるテクニックを身に付けるためのものになっている
でも「しゃべる」という行動も実は結構重要で脳を刺激する
自分がしゃべっている中で 論理の限界とか矛盾とか見つかってくる
そういう試行錯誤して 取捨選択が行われば 
自然と自分にぴったりくる考え方 
すっきりした考え方が身につく

−−−−−−★−−−−−−
アメリカからの“輸入”のディベートブーム  近年 沈静化した
だが 特定の分野では 議論スキルや思考力を高める使われている
本家アメリカ 
共和党⇔民主党論争 いまだ使われている
2025/08/21(木) 晴れ


OLD NEW


Colorful Diary Falcon World