■「懸命武道」から「衆の武道」 そして……
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平安後期 摂関政治の解体と荘園の自立化 武門が誕生 一族郎党の御恩奉公/一所懸命の生き方 拡張 誇張されていった 男の良き生き方 問われはじめる それとともに 所領や戦場が結びつけられ 土地に生死を懸ける存在のあり方に転移していった
このころから武門の棟梁たち 浄土の教え 禅林の感覚 武具甲冑の美にも近づいていく これらは総じて 「懸命の武道」
戦国期 武道は「國」「家」ごとに多様化した そこに國自慢/家自慢があった それでそこには武田家『甲陽軍艦』を読めばわかるように 荒ぶる武士のための道徳を前提にした戦場武道あるいは集団武道としての 共通性があった これを松岡氏 「懸命の武道」につづき 「衆の武道」と名付けている
ところが それが信長・秀吉の天下一統で大きく変質させらる 戦場も集団も 天下人の支配システムのシナリオの一部となる さもなくば徹底的に追撃される *「シナリオの一部」とは云いえて妙 朝倉義景 浅井長政 武田信玄 上杉謙信 松永久秀 毛利輝元 小田原城の後北条氏 九州の島津 奥羽の九戸 「シナリオの一部」になることを拒否した
戦国の「國」「家」を背景とした一族郎党社会は あっというまに麻を引き裂くように散り散りにされた それが信長/秀吉/家康が天下を治めた意味である
そうなると 武道はもはや各地の戦国大名のためのものでなくなっていく 刀をもって生きることを 組織でなく 一人一人が確立するしかなくなった ト伝/武蔵/宗矩らはそうした時期に登場してきた 「個性の武道」を引っさげてきた武人だった 彼らは腕試しの機会も少なく むしろ「身」と「心」をつなげることに向かう
しかし さらにその後 元和偃武を境に 戦乱と戦場がすっかり姿を消してしまう 仇討ちや闇討ちを別とすれば たとえ一人一人が命を賭して武道をまっとうする覚悟になったとしても その心と技を発揮する場すらなくなっていった 集団/個としての闘いは幕府によって完全にもぎ取られてしまった これが江戸時代の武士道の出発点となる
そこでやむなく「剣法を伝える」ことが重視され 武道の大半は道場で経験するプログラムやエクササイズになっていった それを葦津珍彦{あしづうづひこ}は かつて 「教室武士道」と呼んだことがあった
−−−−−−★−−−−−− 葦津珍彦 出てきた どこかにあったな 探す 出てきた 『武士道 ― 戦闘者の精神』(神社新報社:平成十四年刊)
一点 付箋が貼ってあるページ めくる 「『葉隠』は、主として戦場の気風を感情的に教えようとした点に 異色ある<教室武士道>といえるだろう」
2025/09/15(月)  |
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