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明日は 武道通信かわら版 配信日


江戸の世の 軍記物講談本
信長 家康らトップ 一級史料を基に 脚色で色添え
他は 出自も 史料により バラバラ
そんなことより 伝えたかったこと
武士の鏡とは こうあるべき だと 
行政マンになった江戸の世の武士たちに
伝えたかった 

特に  儒学で 消された 
戦国女性武将らを 蘇られせたかった
2025/07/04(金) 晴れ


アメリカ製「日本国憲法」


編集部 → ここらで零戦の話はそろそろ終止符を打って本題に入りましょう
本日は8月17日 56年前の2日前 終戦の詔勅があったわけで 日本は無条件降伏を受け入れました。そして56年経ってもまだ先の大戦争、アメリカ占領軍から大東亜戦争と呼ぶなと云われ 太平洋戦争と呼ぶわけで、この大戦の動機、結末の国民的合意がなされていないわけです。
15日を13日に前倒しして小泉総理の靖国参拝で この大戦の是非が靖国神社に集中した感があります。お二人は この靖国神社の問題をどう考えられますか

前田 → あれが宗教だとか云うのはまったくおかしい
簡単に云えばアメリカのアーリントン墓地みたいなものです
誰がどんな立場で参拝してもおかしくないし 本来 国が運営するのが当たり前なことでしょう

少々 長いが“兵頭節”に耳を傾けよう
【アメリカ合衆国憲法には「連邦議会は、法律により、国教の樹立を規定し、もしくは宗教の自由なる礼拝を禁止することを得ない」とありまして、日本国憲法第20条はこの精神を意味不明な日本語で実に下手くそに翻訳したものです。
 西洋近代の精神なんて理解していないニセモノの大家先生が和訳をせかせれたものですから文言がヤッツケになった。もともとアメリカ製である「日本国憲法」に、内閣総理大臣であれコジキであれ、個人の公式参拝を禁止するいかなる意味もあるわけないのは当然ですね。
日本国憲法第20条「信教の自由、国の宗教活動の禁止」は、特定集団の宗派や教養解釈を個人に強いるな、という意味です。首相だろうが参院議長だろうが、一人で靖国に参拝するのに何の問題もあるはずはない。日本人で国に関係する人は無数にいるわけですがら、公的肩書を持つ公務員だけがその社会的身分を隠してこっそり参拝しなければならないとすれば、そんな国は少しも自由主義じゃないでしょう。それこそ「反国家」の信者となれと強制するものだ。
ではその初歩的な常識がなぜ日本でのみ通用せぬかと申しますと、今の日本では政界や官界やマスコミや法曹界で大きな影響力を隠然と持っている人たちの多くが、あのアメリカによる占領時代、GHQに「あいつは国家主義者ですよ」
「あいつは戦犯ですよ」等とご注進してライバルや同僚を陥れ、公職から追放してしまって、そのお蔭でノシあがった密告屋とか、その流れを汲んだ末裔たちが多いからなのです。吉田茂からして密告者だったことは今でも秘密でもなんでもありません。
 つまり戦後の日本は、旧敵国のおもねって密告者になり下がった、正真生銘の見下げ果てた裏切り者とその子孫こそが一番栄えている国なわけです。「愛国的であること」を<罪科>として密告する売国奴ほど偉くなれて、後から糾弾されることもないという、根こそぎ不正義な国なのです。だから、GHQという密告者がいなくなれば、今度は韓国、中国に密告することで偉くなれると思っている。
 「外道」の当然の習い性なのですね。法律研究とか教育の世界すらその例外ではありません。日本の社会のあらゆる分野で、一世代前のお偉いさんは皆そうやって出世してきたんですから。その下の世代だって、出世した父親の真似をするのは無理もないんですよ。
 憲法が「読めない」ということは、自分の国の自画像を持てないからで、それはつまり、西洋近代や米国、それとは異質の中国等からなる「世界」も、ぜんぜんわかっていないってことです。】
 
2025/07/02(水) 晴れたり曇ったり


堀越二郎


零戦のハナシはつづく
前田 零戦コックピットに乗る
ロサンゼルスの博物館 
兵頭 → 前田さんの体で入りました?
前田 → 入りました

零戦座席 高低 上・中・下 三段階
一番下げた状態 前田に頭と天井 5、6cm
以外と広かったと前田

兵頭 → つまりタキシング(地上滑走)のとき座席位置でも
キャノビー(庇{ひさし})を閉じることができ 
しかもヘッドルームに余裕があった
これはドイツのメッサーシュミットMe109とは対象的な設計
ひょっとして設計者の堀越二郎さん 
日本のパイロットも将来190cmくらいになってアメリカ人と対等になるんだと信して座席の図面を引いていたのも知れん

前田 → 驚いたのは零戦のそばにヘルキャットがあって
大きさ的には零戦は小型トラック F6Fヘルキャットはダンプカーの違い
(補:F6Fヘルキャットと零戦は両國海軍の代表的な艦上戦闘機同士
 ヘルキャットは零戦の性能を分析しその弱点を克服するように設計された)

兵頭さん 軍学者らしい発言
【馬力は二倍位違いますからね 先代のワイルドキャットと零戦ならば馬力は同じで機体も同じ大きさですが ヘルキャットになって馬力が倍増 ところが形はワイルドキャットと似ている だから戦場でも錯覚を起こすものが出た
日本の軍艦の高角砲が当たらなかった理由の一つにも 初見参の米軍機の見かけの大きさに幻惑され うろたえ者の高射指揮官が側高係が示した数値より低いサバ読みの高度を算定具へ入力させていた
それをやると連動して速度の値も小さく出てしまい いくら正確に未来位置を計算して撃とうが 我が高角砲弾は敵機のはるか後方かつはるか低いところで爆発するだけ
デカくて力が強くてスピードも速いヘルキャットは 例えるなら宮本武蔵とか相撲取りみたいなもの 零戦などが尋常の空中戦ではとても太刀打ちできないことになった
それを切り抜けてきた酒井三郎さんは 昔の柔術家のようなものだと思います】
−−−−−−★−−−−−−
堀越二郎 79歳没
死亡記事 ニューヨーク・タイムズ等 世界の新聞に載る
堀越氏のご息女 吾が息子らが通った幼稚園の先生だった
散歩の折 「堀越」と書かれた表札を見た
2025/06/30(月) 晴れ


零戦


(論客)兵頭二十八 ⇔ 前田日明(編集長対談)
 
テープレコーダーをセットしているとき
兵頭さん 某週刊誌から切り取ったグラビアページを前田に見せた
川口湖畔 自動車博物館に零戦が展示されたとのページ
前田 身を乗り出し 食い入るように読む
しばし 零戦談義となった
 
兵頭さん 先週 その博物館を見学
この日の対談のためであろう
写真を撮りまくった同行者 漫画家/イラストレイタの小松直之さん
写真を撮りまくった その写真 前田に見せる
零戦の胴体の骨構造だけの復元展示
前田 → この零戦提供者の名前知ってます
    (グラビアに載っている零戦を指さし)
    この零戦 だぶん飛べますよ
    アメリカ飛行機再生工場に零戦二一型を出しているという話 
    5年前に聞いた これ それかな
    スミソニアン博物館の収納庫に日本のありとあらゆる航空エンジンが
    完璧な状態で一機種につき3基のエンジンがあるそうです

兵頭さん 軍学者らしい発言
【アメリカの航空博物館、あるいは軍事博物館の中には、「敵国の技術を過去から現在まで現物で保存し、かつ調査し尽くす」という国家的な使命を帯びているところがあります。これはスミソニアンの他にもありますし、ソ連にも西欧にも他にもありますし、ソ連にも西欧にもカナダやオーストラリアにもむ勿論ある。日本だけです。そういった機関が、官にも民にも見当たらないのは。   
格闘技だって、たとえば柔術をはじめ各国の徒手格闘技の膨大な調査と比較見研究があって、はじめてそれらを統合した「コマンド・サンボ」が工夫され得た。過去のデーターの蓄積があれば、試合で相手する敵の癖もより深く予想できる。
つまり、本番で機先を制させられることがないのです。
スミソニアンで過去の日本機なんかを大事にレストアしているのも、そこから日本流の発想とか独特の技術的な「癖」を知っておいて、将来また日本と戦争をするときに、絶対に慌てないようにしたいという、武人の奥ゆかしい嗜みなんですよ。】

−−−−−−★−−−−−−
兵頭さん 近刊『世界の終末に読む軍事学』
「戦争はなぜ起こるのか?」という中学生の素朴な疑問の問いかけは始まる
「権力」とは何かが わかってないから かわらない

いまの話 台湾とウクライナ
台湾を占領するは簡単にできる なのになぜ
台湾全土征服はできない 米國がでてくる 長期戦になる
台湾近海 支那沿岸すべて<戦争海域>となる
*軍学者 曰く 欧語は物事を<価値中立>で表現して
「China」には称賛の意味も侮辱の意味もない
漢字で書く「中国」→「世界の中心の国」 近代精神に反してしまう
ここで談余
「中国」の語源である中華の「中」は「中央」
「華」は「礼文さかんなこと」を意味 中華は「世界の中央にある文明の地」
*拙者の「日ノ本」 御陽様の國 美称 「中国」も美称

欧州で使われた最初の国名 サンスクリット語のCina-s から
欧州人には“現地人”が云う
自国名Cina-s が「チャイナ」と聞こえたからとの説もある

さて <戦争海域>となると 商船に船舶保険が効かなくなり
原油タンカーは支那沿岸に近寄れない 
支那製品を輸出するコンテナ船も近寄れない
結果 支那のトラックは走れなくなり 
鉄道や工場を運転する電気も不足
都市市民に必要な大豆 小麦も市場から消える
この状態で支那共産党が権力を維持できるとは誰も請け合わない
ゆえに その作戦(台湾占領)の選択権そのものを論じることを封印している

ロシア・ウクライナ戦争はいかに
「新三十年戦争」になるやも
2040年代の後半 世界の人々 一神教に愛想をつかしている
1618〜48年の旧・三十年戦争では 
教会勢力が表舞台から退場を促され 「近代」の幕開け
新・三十年戦争は 現代西洋人の乾いた精神を一層 干からびさせる
そこに「AIの麻薬」が注入されたときが怖い
近代の終わりとなる
私(兵頭)が予想するより早く 「人類の終わり」が到来するかも知れない

 −−−−−−★−−−−−−
 武道通信HPトビラ サムライの絵 小松さん
いまは消えた 20年前ほどあった 良いサムライと悪いサムライの
決闘シーン あれも小松さん
拙著『使ってみたい武士の作法』『使ってみたい武士の妻の作法』の
表紙カバー 本文イラストも小松さん
並木書房→兵頭二十八→小松直之って関係
地べたの交流が「人類」を救う
2025/06/28(土) 晴れ


番外地と番外地の遭遇


兵頭さん 「論客対談」で
前田の零戦への思い入れに 愛好家を遥かに超えたものがある
こちらがつい 恥じ入ってしまうくらいだと

そう 「プロレスは八百長だ」で 想い出した
想い出したと云っても 先の五月中旬のハナシだ
週刊プロレス同窓会なるもの行われる 出席乞うの速達
神保町だと云う 都心まで面倒だ ヤメタ!

そしたら前日 デザイン部からプロレス編集部に入れたスタッフから電話
このS君 退社 デザイン事務所立ち上げた
事務所開きの折 飯田橋坂上に出向き 近くの寿司屋で祝いだと御馳走した

杉山頴男事務所立ち上げた際 祝いだと名刺をつくってくれた
「武道通信」イメージとは程遠い どこかのデザイン事務所のような名刺
S君に「武道通信」創刊号から二、三号の表紙デザインを依頼した記憶

S君 拙者が認知症なるものになっていないか 危ぶんでいた気配
ならば 行かなければなるまい
週プロの“震源地”なる者は いまだ健在だと示さねばならぬ

開演時間 三十分ほど遅刻
挨拶を乞われた

家紋入りの陣羽織 羽織/袴 姿
「サムライタイムスリップしてきたわけではない 電車で来た
電車の中で考えた 週刊プロレスとは 週プロとは 何であったか
入社の際 社長に手渡した履歴書
入社の理由の欄 生活のため のひと言
野球が好き スポーツ誌の編集がしたい など 嘘は書けなかった
スポーツ総合出版で番外地の編集者であった
スポーツ総合出版の社員 誰もプロレスがスポーツだと思っていない
スポーツ総合出版番外地の編集者と
スポーツ総合出版番外地のプロレスとの遭遇
それが週刊プロレスを生んだ」

番外地の編集者 なぜ業界誌から脱皮できたのか
編集者の本分は 時代の精神みたなものと 格闘して時代を読み解く
コレは 云わなかった プロレスファンに嫌味になるから
2025/06/26(木) 曇り


 梶原一騎

 
十六ノ巻
【この国は なぜに脆弱になったのか ――対談特集】
 
米國のイラン空爆に
日ノ本政府 YES NO はっきりいわない
「この国は なぜに脆弱になったのか ――米國 イラク空爆」
このタイトル 二十三年後のいまでも 使える
 
兵頭二十八 ⇔ 前田日明
松本健一 ⇔ 木村三浩
嘉村孝 ⇔ 戸部アナマリア
 
【論客対談 兵頭二十八
遅れてきた「格闘技ファン」
――分かりかけてきた「前田キャラ」の引力】
こんなはじまりだった
【私は他人様のドメスティック・マター(家の中の事情)を聞くことを生理的に好まない。男同士、家庭環境や育ちなんて関係ない。現在の生身の品質で勝負すればいいじゃないかと思ってきた--------】
これは前振りであった
兵頭さんの父親は「プロレスは八百長だ」と云って家族のTV観戦を禁止した
そのくせ兵頭さんが小学五、六年生頃始まったキックボクシングの録画放映は大好きで その理由は訊くと「これは八百長ではない」
まあともかくもこんな事情で 私の記憶体系にはごく最近まで
「プロレス」は空白であった
これも前振りであった

兵頭さん 本誌に連載記事を書いている以上
力道山の伝記もの ベースボール・マガジン社『日本プロレス全史』くらいは一読しておかないと 日本文化を真に理解できないのではないか
 
そして結論はこうだ
【故・梶原一騎氏を再評価することにもなった。彼がその著『劇画一代(梶原一騎自伝)』の中で、日本人の好みが吉川英治版の宮本武蔵キャラに戻ると分析している下り、すなわちあの<武蔵>は将来の日本の格闘技シーンにおいてもライトモチーフであり続けるだろうという示唆を書き遺していることに、私は改めて驚かされた。またこの謎多き作家が今の日本の「ケンカ総合格闘技マッチ」の流行を定着させた最重要な仕掛け人であったことも、私は行間から推察しないわけにはいかなかった。「吉川英治のやろうとしたことをどのくらい引き継いだか」で比べたら、司馬遼太郎よりむしろ梶原氏の方が「正統」だったかもしれぬ。】
 
2025/06/24(火) 薄曇り


脱亜論


『脱亜論』 明治十八年三月 『時事新報』 無署名の社説
諭吉 なぜ 無署名にしたか
朝鮮近代化を熱き心で支援した諭吉にとって
いまの世で云う <切り取り報道>されることを危惧した
<支那朝鮮とは絶好しよう> などのヘイトスピーチになることを
これは小杉さんでなく 拙者の推察である

本文は片仮名漢字表記、長さは400字詰原稿用紙 約六枚

無名の執筆者 曰く
西洋文明の伝播を「文明は猶麻疹{じんましん}の流行の如し」と表現
これを防ぐのではなく「其蔓延を助け」「早く其気風に浴せしむる」ことこそが重要であると唱える
その点において日本は文明化を受け入れ 「獨り日本の旧套を脱したるのみならず 亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し」
アジア的価値観から抜け出し脱亜を果たした唯一の国だと

「不幸なるは近隣に國あり」として支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ
両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し「今の文明東漸の風潮に際し、迚も其獨立を維持するの道ある可らず」とそして、甲申政変を念頭に置きつつ[4]両國に志士が出て明治維新のように政治體制を變革できればよいが、そうでなければ両国は「今より數年を出でずして亡國と為り」西洋列強諸国に分割されてしまうだろうと推測する

このままでは西洋人は清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう
間接的ではあるが外交に支障が少なからず出ている事は「我日本國の一大不幸」であると危惧

そして結論部分において
東アジアの悪友である清国と朝鮮国とは
隣国という理由で特別な関係を持つのではなく
欧米諸国と同じような付き合いかたにして
日本は独自に近代化を進めて行くことが望ましいと結んでいる

諭吉 金玉均が殺され 改革派に最期を予感していたのだろう

福澤諭吉 明治三十四年没 享年六十六歳
昭和八年 石河幹明編『続福澤全集』第二巻(岩波書店)に収録される
それ以来 福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった
<身内>は誰も 諭吉の論だと知っていたのだろう
諭吉も<身内>も他界し
李東仁 金玉均を知る諭吉が
断腸の思いで書いたことも忘れさらたのであろう
2025/06/21(土) 晴れ


本日 武道通信かわら版 配信日


通算557号
思えば よくここまで 来たもんだ
残されている 最初の号
<12/31-2001 vol.40>  月イチとして
1号 40ヵ月前か

■「忙中閑あり」―――――――――――――――――――――――――――

 29日、義理の姪の葬儀が済み、この一年が終わったという実感がした。家内
はなおさらのことだろう。この一年、小輩の選挙運動などもあったが、我家で
姪の乳飲み子を二度ほど預かったりしたことから、姪の闘病生活が通奏低音に
あった我家の一年であった。
 
 葬儀の中、預けられている父方の祖母に抱かれていた子が飽きはじめたの見
て、寺の隣の公園に連れ出した。晴れ渡った陽差しの中で鳩の群がエサを摘ん
でいた。
 1ヶ月ほど前から歩きはじめた子は鳩を追った。生母の記憶を持たない、こ
の子の不憫さは遠に、胸の内に納められていたが、まだおぼつかない足取りを
見て、我が身が、この子と似た境遇であったと云う想いが再往した。

 敗戦翌年の12月に小輩を産んだ母親は1ヶ月も経たず大晦日に逝き、元旦が
葬儀であった。それはずっと後年に知った。
 幼き記憶にある元旦の朝。床の間に鏡餅を飾った部屋で、まだ嫁ぐ前の叔母
たちも居て、朝風呂の後、賑やに雑煮を食べた。元旦の式の登校があるのに、
屠蘇(とそ)を飲み酔う子に皆が囃し立てた光景の中で、この子の不憫さを想
った者もいたろう。そんなことに気が巡ったのは、そう昔でもない。いい歳に
なっても暢気な輩であった。
 この子も、そんな暢気な男になってもいい。それも生母への供養なのかもし
れない。                              

 来る年も、様々な事が巡ってくることだろう。それにどう身を挺していくか、
己の身の挺し方が、身近な人の人生観に、何某の影響を与えるのだろう。
                               
(杉山)
2025/06/20(金) 晴れ


クーデター


李朝 財政圧迫の原因
守旧派のボズ 閔{ミン}氏とその追従分子らの積年の財政私物化
財務/税務/造幣を一切仕切っている閔氏らの手から国家財政を取り戻す

金玉均が打った手 改革路線を支持してくれる諸外国――
特に日ノ本・フランスから外国債権を募る
要は日ノ本・フランスの投資家からお金を借りる

ところが 閔氏ら 支那清朝から送り込まれたドイツ人顧問の威を笠に
悪貨鋳造増発をもって危機を隠ぺい
さらに諸国に裏から手を回し 起債失敗に追い込む

悪貨が増発された結果 インフレは300% 
閔氏とドイツ人顧問はその責任を金玉均に着せ 政府から追放
さらに その命まで奪おうとしていた

ついに 金玉均らは決意する
諭吉らと語りあってわずか三年して
クーデターという非常手段しか残されていなかった

しかし クーデター 三日天下
袁世凱と組んだ閔氏が
国王奪還の名目 清朝軍一三〇〇名を王城内へ引き入れてた
清朝軍の攻撃がはじまるや 日ノ本政府は早々の離脱を表明
駐留軍を王宮から引き上げさせた

改革派は二手に分かれる
一つは 再起を期すため日ノ本へ亡命 金玉均ら九名
一つは 国王を守るため死ぬまで王城に残る士官学生の七名

閔氏の反動粛清 凄惨を極めた
参加した本人のみならず その家族三等親まで極刑
閔氏一派の復讐は クレージーともいえる規模に拡大
その後 十年に渡る彼らの最大の政治目標にまでになり
国政は無為無策 
困窮を極めた民衆 一八八〇年代末から九〇年代にかけ 各地で反乱・一揆
そうした中 金玉均 最後の賭けに出る
上海へ渡り 清朝の近代化 中心人物・李鴻章{りこうしょう}と直談判しようとした 閔氏の放った刺客の凶弾に倒れる
遺体は朝鮮に送られ さらにその故郷の地で切り刻まれるという恥辱を受ける

福澤諭吉に「朝鮮半島の近代化の父」と呼ばれた
金玉均 三四歳の生涯を閉じた
2025/06/19(木) 晴れ


李東仁 暗殺される


李東仁 数ヵ月滞在
諭吉をはじめとする日ノ本の政治家 思想家と親交結ぶ
明治政府の諸政策 近代化を実現するための資料を購入に専念

その年のうちに帰国
ソウルで改革派の若き英才たちに日ノ本で見聞きしたことすべてを語り
膨大な資料を託す
その文献 歴史 地理 政治学から物理 科学までの自然科学までも
いずれも李朝では夷狄{いてき}の邪学
所持しているだけで懲罰

当時 弱冠十六歳 科挙試験の勉強を縫って この読書に没頭した
徐載弼{ソチェビル} 云う
この読書体験を通して はじめて世界の体勢がつかめるようになり
なにがなんでも 朝鮮に人民の権利をうち立てなければならないと考えた
李朝にあって賎民と蔑まれてきた僧が 身を投げ出して日ノ本から招来した
邪学の思想から 先鋭的な朝鮮改革派の芽が吹いた

李東仁がもたらした諸成果は
たちまち王宮に達することになった
王宮改革派の中には 優れた見識を用いるべきとする者も表れた
しかし 大半は旧弊に固守し 改革そのものを敵視
しかし 国王高宗{コウソウ} 李東仁の上奏分に感銘
密航の罪を許し 日ノ本の近代化に学ぶべく
密かに視察団を組み 日ノ本へ送るように命じた
王も このとき二十九歳と若かった

総勢六十二名 視察団 地方の民情視察という名目
極秘裏に日ノ本へ向かう
李東仁が一人密航を企ててから二年後のことであった

視察団出発に際し 李東仁に国王から内命
日ノ本政府から 武器と軍艦を購入すべし
いよいよ出発を目前とした ある日
最後の打ち合わせに王宮に参内した李東仁
そのまま行方不明に
暗殺される
守旧派 客を放った 死体さえ見つからなかった
李東仁の志 日ノ本に渡った若者たちに託された
2025/06/15(日) 曇り


李東仁{イトンジン}


【小杉→ 日韓併合とそれに伴う実質的な植民地支配の現実から
光を投じようとは思わない。
そのような 営みには すでに多くの論議が費やされている
私がここで、ほんの断片だけでも紹介したいと思うのは、
いわば現実されなかった歴史の一齣{ひとこま}である。
実現されなかったのだから、厳密には「歴史」に属さないことかもしれない。
しかいながら、実現されかったことすべてが無意味なことだったとは決して
思いたくない。
近代の過酷な曙に、日本と朝鮮とが手に手をとって立とうとした。その一瞬の脚力に、ささやかな光を当ててみたいと思う。】

明治十一年 師走一日 開港間もない釜山にできたばかり日本の寺に
若き朝鮮人僧侶が一人 訪ねて来る
名を李東仁{イトンジン}

朱子学のみを正統とする李朝では 
仏教は弾圧/冷遇され僧侶は賤民とされていた
が その若き朝鮮人僧侶 ただならぬ品格 
半年の間に 幾度となく寺(東本願寺別院)を訪ねる
数日 泊まっていくこともあった
話しの内容は 仏教のことはまったくなく
国際問題であり とりわけ日本の明治維新と近代化であった

二、三ヵ月 ソウルへ行くと姿をみせなかった
ふたたび現れたとき 彼は居住まいを正し こう語った
ようやく時機が到来した どうか私にお力添いをお願いしたい
私はソウルの同志らと朝鮮の抜本的改革を願っている者だ
明治維新を成し遂げた日本の近代化からこそ学ばなくてはならない
どうか私を日本へ連れて行き 志を遂げさせてくれまいか
李朝は鎖国を国是としていた 密航は国禁

本願寺別院の僧たちは この赤誠の願いを汲み取った
無事 長崎に上陸 東京本願寺に入った
明治十三年 福沢諭吉と会う
ここに 朝鮮でもっともラディカルな改革運動家と
明治維新を推進した日ノ本の思想家との間に橋がかかった

福沢諭吉 曰はく
本当に二十年余前の自分の事を思うと、彼らには同情相憐れむの念を禁じることができない
彼らは朝鮮人として外国に留学する初めての人達であり 
こちらもまた外国人を留学生として迎えることで 
実に奇遇というしかない (『福沢諭吉伝』岩波書店)

さて ソウルに戻った李東仁は
次回で

−−−−−−★−−−−−−
日ノ本人初のハーバード大学入学/卒業生(明治七年)
井上良一
明治十年に東京大学法学部が設立されると日本人として唯一
教授に就任
福沢諭吉とも親交のあった井上 慶應義塾にも出入りしていた
慶応義塾大学の教職員クラブ「万来社」の名は、井上の発案によるもの

いま ハーバード大学 日ノ本人留学生 260人
アノ人のせいで 
ハーバード大留学生 他大学に転籍しないと
米国での滞在資格を失うことになる
アノ人 福沢諭吉の爪の垢煎じて飲むといい
2025/06/13(金) 薄曇り


やむにやまれぬ思い


十五ノ巻
【朝鮮――日本との同盟はありえたか<前編>
                  小杉英了】

小杉さん 2015年に『赤い呪』(KADOKAWA)を出して以来
どうなさっているのだろか
あれほどの才能のある方 いまの世を霊学から説いてほしいものだ

さて 本題
【小杉→ 歴史にたいする正否の判断や立場の表明に出くわすたびに、
腹の底で何かしら落ち着かないものを感じてしまうのだ。
なぜなら、そうした物言いは、要するに、後出しジャンケンじゃないか、と
心のどこかで思うからである。
百年なり、二百年なりの出来事のつらなりがすでに見えている立場から、
過去にあった個々の事柄について、ああだ、こうだと是非を論じるには、
相手がパーを出したあとで、チョキをだすようなものではないか。
そのような論じ立てが、議論としてどれほど有益であろうと、
新しい歴史が、そのいとなみから切り開かれてゆくとは、とうてい思えない。
私が腹が底まで揺り動かされるのは、誰かがにっちもさっちもいかない
歴史上のある一瞬において、やむにやまれぬ思いから、たとえどうなろうと
自分が全責任を負うしかないという覚悟のもとで、みずからの決断に基づいて行動に出る瞬間の、その人の立ち姿を思うときであり、さらにはその人の倒れ姿を思うときである。】

−−−−−−★−−−−−−
歴史上の アノときの アノひとは
やむにやまれぬ思いから たとえどうなろうと 
自分が全責任を負うしかないという覚悟したのか

備蓄米放出
アノひとは
やむにやまれぬ思いから たとえどうなろうと 
自分が全責任を負うしかないという覚悟したのか
2025/06/11(水) 降ったりやんだり


サムライ好きの原点


「Die ritterliche Kunst des Bogenschiessens (騎士的な弓術)」
邦訳名 『射における武士的芸術』とした 北島師

Kunst 『日本の弓術』で 柴田氏は「術」と
北島師 ときには「技」 ときには「芸」とした
宮大工の私の経験に立ってのことだと語る

北島師 語る
ヘリゲル博士が この題名でヨーロッパに訴えようとしたころは
「ローマは世界に冠たる大帝国である。そのローマに発する騎士道は
人間の高貴さ実現させ見せてくれた偉大な人間性のしるしである
ヨーロッパ人は 特に知識人は誇りとしている
だが 中世以降 その高貴な人間性がヨーロッパでは失われた 
残念に堪えない
それなのに驚くべきことは 
極東の日本の射の道にそれが脈々として現代に伝えていることである」

北島道場に 日本の会社に勤める三十代のドイツ人 通っていた
案の定 オイゲン・ヘリゲルの影響だと話した
 
北島道場に 二人のフランス人が住み込みでいた
毎朝 道場の雑巾がけやっていた
彼らも オイゲン・ヘリゲルの影響だと察する

ヨーロッパのサムライ好きの原点 
オイゲン・ヘリゲルでは ないだろうか

吾らのサムライ好きの原点
武士の記憶の遺伝子
2025/06/09(月) 薄曇り


射における武士的芸術


オイゲン・ヘリゲル 阿波研造を師として弓の修行に励む
ドイツに帰国する際 阿波から五段の免状を受ける 
戦前の弓道連盟の五段ではない 阿波の個人的名誉段

帰国後の1936年 
「Die ritterliche Kunst des Bogenschiessens (騎士的な弓術)」と題して講演
1941年 この講演の邦訳『日本の弓術』(柴田治三郎 訳、新版:岩波文庫)が出版

 北島師 語る
柴田治三郎師 弓道の経験はない
自分は ヘリゲル博士には生前お目にかかってないが
安沢先生から日常折にふれて博士のことは伺っていた
夫人の宅で博士の人となりをお聞きし
ヘリゲル博士の人柄は理解できている

邦訳『日本の弓術』は原題(騎士的な弓術)とは多少違っているし
おそらく博士にとっても この訳語は満足さてないと思う
 私なりにヘリゲル博士の講演内容を
弓を学ぶ人達にわかりやすく表現してみたくなった

なるべく 原題に沿った方がいい
Kunst は「上手な手際の結果の総体」が元の意味
そして Kunstを形容する ritterliche は
相良独和辞典では 第一に「中世の貴族階級の武士」 
そのあとに「騎士」
ヨーロッパ人の感覚では 武士と騎士は同意語

ヘリゲル博士も夫人もともに 活け花も習っておられたし
「術」より「芸術」の方がよいとすることにした
題名を『射における武士的芸術』とした
(『射道――我が師の教え』に掲載されている)

「弓術」から「弓道」へ そして「射道」へ進まなければならぬ
とされた阿波先生のご趣旨にも合致する
2025/06/07(土) 晴れ


本日 武道通信かわら版 配信日


♪夏日がくれば 思い出す
 あの 八月十五日

朕ハ帝國ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協カセル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦樋ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
2025/06/05(木) 晴れ


背番号3


見渡せば 男子みんな「背番号3」
ファン以上の存在
天覧試合 九回裏逆転ホームラン
中学一年だった テレビで観ていた
日本テレビ独占中継 だが日テレ 映らない地域ある 
で NHK中継も許可  
異例の処置 <天覧>の威信

「背番号3」 巨人入団した 昭和33年
ベースボール 月刊誌から週刊誌へ

週刊ベースボールで「背番号3」 引退記念号つくる
近くの旅館 宿泊作業
昼間は週刊 夜は 引退紀年号
宴会場の大広間 真中に 年代別に「背番号3」写真 並べる
周りに布団ひく ほぼ徹夜作業

売れに売れたそうだ
週刊ベースボールスタッフに内緒のボーナス支給

「巨人軍は永遠に不滅です」
ゴーストライターは報知新聞の〇〇さん

昭和100年 
「天皇が天皇であった昭和は終わった」
誰か云わないかな
2025/06/04(水) 晴れ


円覚寺弓道場


「パリは燃えているか」(ヒットラー)
いや 「パリは荒れている」(サンジェルマン初優勝騒動)
優勝祝賀パレードが商店街打ち壊し騒動となる
パリには禅は根付かなかったらしい

さて こちらは 鎌倉の円覚寺 
栄西禅師 開祖の「鎌倉五山」と称される禅の教え臨済宗の寺
五山は格上から 建長寺/円覚寺/寿福寺/浄智寺/浄妙寺

円覚寺 北鎌倉駅 鎌倉方面の下りホームの出口をでるとすぐ目の前
正式な参拝の順路を行くと徒歩三十分
(拙宅から射徳亭 ゆっくり歩いて二分 すこし早足で一分)

アルディ州の道場をみた 須原和尚
「帰ったら円覚寺に弓と禅の道場 建てたい」
北島師 「ひと肌 脱ぎましょう」
下見にでかける
「すずめのお宿」と呼ばれている閻魔堂を建て替え弓道場にしよう
計ること 矢道の28メートルは充分 取れた

荒れた庭の隅に矢坂地蔵と呼ばれていた石碑があった
縄で洗うと文字が讀めた なんと鎌倉武士の鎌倉権五郎景政
相模国鎌倉郷を本拠とした平安末期の武士
後三年の役 現在の秋田県横手市にあった金沢柵(かねさわさく)城
源義家 冬が本格的になる前にどうにか攻め落とそうと
坂東武者たちに突撃を命じる

その時に いの一番に駆けだしたのが 鎌倉景政
しかし 突撃した兵は向こうからは丸見え 
先頭を真っすぐに駆け抜ける景政めがけて矢が飛んできた
なんと右目に深々と刺さってしまう
けれど運よく致命傷には至らず
景政は邪魔とばかりに刺さった矢を折って射返す
すると見事敵に命中 敵兵を射殺した
そして 本陣へと引き返した所でバッタリと倒れれる
そこに寄って来た家来 刺さった矢を引き抜こうとすると
景政 「武士が矢に斃れるのは覚悟の上 
顔を踏まれてまでも生き延びたくない」

北島師 閻魔堂を建て替えの意義 肝に銘じた

北島師 ヘリゲル夫人からの手紙もらっていた
「主人と私は 日本の弓を手にして 第二の人生を知ることができました
主人の弓が鎌倉の由緒ある場所に飾っていただけることは
亡き主人も喜んでいるでしょう」

次頁に あの オイゲン・ヘリゲルがズボンとカーディガン姿で
的に向かって弓を引いている写真が掲載されている 昭和四年とある
この弓であろか

さて 工事費を見積もった 予算は三文の一しかない
やめるならいまのうちだ」 と一瞬 過ぎったが
そのとき ヘリゲル夫人からの手紙も過ぎった
損得無しでやろうと決めた

−−−−−−★−−−−−−
拙者 円覚寺弓道場 訪ねたことがあった
どこかに 北島師への感謝の言葉が記されていた
2025/06/03(火) 晴れ


南フランス「安沢平次郎追悼射会」


安沢平次郎  癌におかされていた
オイゲン・ヘリゲルの墓参りをしたと
北島師 そこで
鎌倉・円覚寺須原和尚 全日本弓道具協会会長小沼英冶らの協力のもと実現
安沢平次郎の願いと云われれば 弓道界の大物も動いたのだろう

ヘリゲルの墓の前で
ヘリゲル夫人と並んだ安沢平次郎の写真がこの頁に掲載されている
北島師から借りた
タイトル頁の「安沢先生射型 昭和38年 十段昇格祝賀射会にて」も

帰国したその年 
「自分が死んだら 安沢がここで弓を引いていたことを
何かの形で残してくれ」
昭和四十五年二月十七日夕方 
「皆さんにはお世話になりました さようなら さとうなら」
その後 意識不明  十八日夕方 没 享年八十二

遺品の中から 安沢自筆の「射道の本質」
生前 小冊子として印刷されていたもの
昭和四十五年 「射徳亭」を版元として刊行
して 三十三回忌を期して再出版した

墓参りのあと 
ヘリゲルで著書で和弓を知った欧州人との弓を通じた交友 生まれる
昭和四十七年二月 安沢の命日にヨーロッパ弓道連盟が結成
翌年の二月十八日 ヨーロッパ弓道連盟主催
「安沢平次郎追悼射会」 
南フランス・アルディ州へ
山の斜面を利用した弓道場と座禅の道場があった
招待状受け 円覚寺須原和尚と出席
その弓道場に 
安沢が書いた「無心」を染め抜いた的場の幕を持参しプレゼント

アルディ州へ行く前 再度 ヘリゲルの墓参り
夫人と再会 ヘリゲルの遺品の弓と巡り会う

遺品の弓 持ち帰り射徳亭に飾った
そしていま円覚寺に収められている
その経緯は 次回に
2025/06/01(日) 晴れ


阿波研造とオイゲン・ヘリゲル


【日々、弓道に励む若い方々に安沢平次郎先生のこと、また弓友であったオイゲン・ヘリゲル博士、お二人の師であった阿波研造先生のことをお話ししておきたく筆をとった。】

その前に 安沢平次郎との出会い
昭和三十一年ごろ 安沢平次郎 国立からさほど遠くない昭島
昭和飛行場道場に週一で教えに来ていた
それを聞き 北島師 その日に通い 稽古を受け 入門を許される

拙宅から徒歩一分ほど その道場はある
つまり こうだ
【先生がいま住んでいる処は、何かと不便であったので、当時、建設中だった家に先生をお迎することにし、敷地内に先生の道場を建てた。先生は「射徳亭」と命名した。これで私も毎日の様に先生のところに通い稽古ができるようになった。しかし、そのとき一番がっかりしたのは家内であった。「家族で住むことを楽しみにしていたのに、出来たら人に貸してしまうなんて」と言っていたが、私のわがままを許してくれた。今は亡き家内であるが、いま私があるには家内の支えがあったからこそである。話が逸れた。】

「射徳亭」は駅近くの北島弓道場から徒歩十二、三分。建てたばかりの家に
安沢平次郎を住まわせ、庭に弓道場を造ってわけだ
拙者も「射徳亭」で何回か射た 二人立ちの幅だった

古参の道場生が語っていた
「奥さんが亡くなられてから先生 偏屈になった」
もともと頑固な人であったろう
奥さんが<先生>と弟子たちの間を取持っていたのだろう

話が逸れた
阿波研造の名は ここを訪れる御仁なら周知のことだろう
阿波研造に射道を学んだ ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲル
帰国した1941年(昭和十六年) 
"Die ritterliche Kunst des Bogenschiessens(騎士的な弓術)
と題した講演を行う
1948年 ヘリゲル自身が執筆した
『Zen in der Kunst des Bogenschießens(弓術における禅)』が出版
英訳 ポルトガル語にも翻訳され
世界に 日ノ本の弓道を伝播した

あのシーン 邦訳『弓と禅』に書かれている
オイゲン・ヘリゲル 弓術を研究することで阿波に弟子入り
狙わずに当てるという阿波の教えには納得できない
「本当にそんなことができるのか」と阿波に問うた
ならば夜九時に自宅に来るようにと

真っ暗な自宅道場で一本の蚊取線香に火を灯し 的の前に立てる
線香の灯が暗闇の中にゆらめくのみ 的は当然見えない

阿波は矢を二本放つ
甲矢(一本目) 的の真ん中に命中
乙矢(二本目) 甲矢の矢の筈に当たり その矢を半分に引き裂いていた
暗闇でも炸裂音で的に当たったことがわかったと
オイゲンは『弓と禅』において語っている
乙矢の状態 垜{あづち}側の明かりをつけてわかったことだった

この時 阿波 云う
「先に当たった甲矢は大したことではない
数十年馴染んでいる垜(あづち)だから
的がどこにあるかあなたは知っていたと思うでしょう
しかし 甲矢に当たった乙矢・・・これをどう考えられますか」
とオイゲンに語った(オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』より)。

オイゲン・ヘリゲル
騎士道の武術が消滅した欧州だが
日ノ本では 武術が芸術の域に達しで残っている
それに驚き 和弓へのめりこんでいった
2025/05/30(金) 雨


<無心>の境地


【弓道から射道へ  北島芳雄】
副題がついている
『大射道』再出版によせて

北島八段 師であった安沢平次郎十段 三十三回忌を迎え
師の著書を再出版した
【関係各位に贈呈し、また北島道場門下生に配った。残部を安沢先生を懐かしむ全国の弓道家にも読んでいただけたらと思い、門下生の杉山君の会社(杉山頴男事務所)を通じ販売したところ予想を上回る反響があった。その中に多くの若き弓道家がいることを聞き驚いた。これこそ安沢先生への何よりの供養と思うと目頭が熱くなった。】

日本武道館が刊行している『月刊武道』に『大射道』再出版の知らせを兼ねた書評を持ち込んだ
ベースボール・マガジン社のころから編集部と懇意にさせていただいていた
その反響がすごかったのだ
『武道通信』編集部の電話 鳴りっぱなし

HPで注文のお知らせも『月刊武道』にしていたのだが
ネットとは無縁な高齢者は電話で注文
安沢平次郎の名の威力は当然だが
かれら<弓道の本>に飢えていたのだ

『克つための弓道 ――的に克つ、己に克つ』
販売部が全国の弓具屋にダイレクトメールした
凡そ 9割の店から注文がドットきた 
販売部 弓道の本 売れるんだと知った
拙者が退社してから新装版がつくらっれた
拙者の手元に送られてきた

弓道は 剣道/柔道と違い 相手がいない
相手は 動かない 無言の 
直径的36cmの28m先の的

拙者 居合/弓道/剣道 カジったが
弓道で<無心>の境地とは これなのか を体験した 
それは弓道だけだった

さて 次回
安沢平次郎とは 何者であったのか
2025/05/28(水) 晴れ


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