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追悼 五味康祐{やすすけ}


松本清張 『或る「小倉日記」』
昭和二十七年(1952)二十八回芥川賞 よく知られているが
もう一作 同時に受賞した『喪神{そうしん}』
隠棲した剣客から妖剣の奥義を授かる若者を描く
作家は五味康祐

『喪神』につづいて
『柳生連也斎』『桜を斬る』など 
従来の芥川賞作家には見られない 物語性に富んだ江戸初期を
背景にした数奇な時代小説であった

『喪神』は人間 誰しも持っている臆病な自己保全本能を描き
『柳生連也斎』では影を踏む瞬時が生死の別れ目となす二人の剣豪の勝負を
『桜を斬る』では講談の寛永御前試合の想定を得て
二人の剣士が吹上御苑の八重白花の「氷室の桜」を斬って争う

難解な観念小説 イデオロギー小説に飽きた純文学読者に
他愛もない通俗時代小説に満足できない読者に
五味康祐の出現は 小説を讀む喜びを見出した

【刀と日本人・続 小川和佑 第五話 
日本浪漫派作家・五味康祐
憂国に見る日本の心と刀 
――五味康祐の未完の傑作 『柳生稚児帖』
   武道の真髄と憂国を説く】

次回で
2025/11/15(土) 晴れ


追悼 室戸半兵衛


「椿三十郎」 
あのラストシーン 一昨日 観た U−NEXTで
室戸半兵衛(仲代達也)/見守る若侍たち
血飛沫が舞い上がる 
こと知らされていなかった

黒澤の台本
<勝負 一瞬に決まる 血飛沫 >
それだけ

担当の技術者 血飛沫が舞い上がるシーン 
準備するのに1ヵ月 
あ〜だ こ〜だ 試行錯誤
代役を使ってのリハーサル 何度も

殺陣師 あ〜だ こ〜だ 試行錯誤

撮影当日
室戸半兵衛 自分が斬られ死ぬ 何らかの形で血がでること知っていた
胸にパイプをつけられたから 
当の技術者 「心配しないで ちょっと血が出るだけだよ」

室戸半兵衛 椿三十郎 両者 
袂から両腕を出し 睨み合う
両者 抜刀までの25秒 カウントダウン
担当の技術者 25秒 カウントダウン後 
液体の圧力 かける

大量の血飛沫が舞い上がる 
室戸半兵衛 演技でなくホントに驚く  
見守る若侍たちも 演技でなくホントに驚く

1秒にも満たない一瞬の衝撃
当時 スローを早送りする技術などない

殺陣師 後日 云う 「逆抜き不意打ち斬り」
椿三十郎の劍 早く抜くため 五寸(15cm)短くした
椿三十郎(三船敏郎) 何度も何度も練習したそうだ

天然理心流 居合形にもあった
向こうから歩いてくる敵 間合いに入った瞬間
片膝をつけると同時に 鞘をひっくり返す 上の刃を下に
して抜刀 柄は逆手に握り 下から斬り上げる

椿三十郎も 柄は逆手に握っていたな

きのう
U−NEXT Netflix で
「用心棒」 「切腹」「影武者」も観た
2025/11/13(木) 曇り


朝日の光の中に散る山桜


アノ有名なシーン 以後
ヘリゲル 疑うことも 問うことも
思い思うこととも きっぱりと諦める

稽古をはじめて五年目のある日
阿波 ヘリゲルに試験を受けさた
ヘリゲル 見事及第 免許状 授けられる
(先に記した 礼の免許状)
ヘリゲルが日本を去るとき
阿波 自分のひと弓をヘリゲルに
メデタシ メデタシ  おわり

あとにつづく 「神秘的な沈思法」とかは省く
<神秘>とか ドイツ神秘主義のウンチク
でも最後の一言のみ記す

【かの「武士道」の根があるのであるあるが、これをもって日本人に最も特有なものとするのは間違っていません。そして、これの最も純粋な象徴は、朝日の光の中に散る山桜であります。このような泰然自若{たいぜんじじゃく} として生を離れる。すると、それは個々の生活ではなく、全存在の究極の意義を初めて充たし、それを示現するものです。】

−−−−−−★−−−−−−
射場で  一度  
【無心】らしきものを体験した
「パーン」という的を射抜いた音で 我に返った
弦を引く 矢を放つ
憶えていない

剣道でも 一度ぐらい あったかもしれない
憶えていない
弓道は <静>であるから
憶えていたやも知れぬ
2025/11/11(火) 晴れ


「心で射る弓」弓禅一如


ヘリゲル 九時ごろ 阿波宅へ
阿波宅と隣り合っている道場へ
阿波 細長い一本の線香に火をともし
それを的の前の砂に立てる
それから阿波 ヘリゲルら(通訳ら) 射場へ

【先生は光(射場の電球)をまともに受け立っているので、まばゆいほど明るく見えました。そして線香の微かに光っている点は、極めて小さいので、やっと見えるか見えないくらいでした。先生は相変わらず、ものも言わず自分の弓と二本の矢を取りました。先生は一本目の矢を射ました。
 それは音で命中した事がわかりました。二本目の矢も音を立てて打ち込まれました。第一の矢は見事に真ん中に立っていて、第二の矢は第一の矢の根に当たって、それを二つに裂いていました。
 私はそれを射場へ持っていきました。先生はそれを見て、考え込んいられましたが、やがて次のように言われました。
「私は、この道場で三十年間この方稽古していて、暗いときでも的がどの辺にあるかは知っているはずだから、一本目の矢が真ん中に当たったのはさほどたいした出来栄えでもない、と貴方は考えられるかも知れない。しかし、二本目の矢はどう見られるか。これは「私から」でたものでも、「私が」当てたものでもない。そしてこんな暗さで一体狙うことが出来るものかどうかよく考えてご覧なさい。それでもまだ貴方は狙わずに当てられないと言い張れるのか。まあ、私達は、的の前には仏陀の前と同様に頭を下げようではありませんか。】

これが アノ有名なシーン 

ヘリゲル この講演から七年後に書いた
『Zen in der Kunst des Bogenschiesens(弓術における禅)
『弓と禅』には こうある

「阿波に弟子入りした。しかし、狙わずに中てる事という阿波の教えは合理的な西洋人哲学者に納得できるものではなく、ヘリゲルは本当にそんなことができるのかと師に疑問をぶつけた。
阿波は、納得できないならば夜九時に自宅に来るよう、ヘリゲルを招いた。

真っ暗な自宅道場で一本の蚊取線香に火を灯し、三寸的の前に立てる。
線香の灯が暗闇の中にゆらめくのみで、的は当然見えない。
そのような状態で、阿波は矢を二本放つ。
一本目は、的の真ん中に命中した。
二本目は、一本目の矢の筈に中たり、その矢を引き裂いていた。
暗闇でも炸裂音で的に当たったことがわかった。
二本目の状態は、垜(あづち)側の明かりをつけて判明した。

この時、阿波は、「先に当たった甲矢は大した事がない。
数十年馴染んでいる垜(あづち)だから的がどこにあるか知っていたと思うでしょう、しかし、甲矢に当たった乙矢・・・・・・これをどう考えられますか」

これを“禅語”で云えば
「心で射る弓」弓禅一如

後日談は次回
2025/11/09(日) 雨


矢は 中心から出て 中心に入る


そのようにして一週間 二週間と経ち……
ひと月 ふた月と経っていった……
三年目になりました
されど 例の「技の無い技」に四苦八苦

四年後のある日
的の前に立たされた
いままでは 巻藁{まきわら}
2メートルほど先に置かれた大きな稲藁
今度は28メートル離れた的(霞的)
直径36センチ(尺二)

ヘリゲル → 当てるには どうしても狙わなくては
阿波 → いや 狙ってはいけない
的のことも 当てることも 考えてはいけない
弓を引いて 矢が離れるまで待ちなさい

阿波が射ると 矢は的の真中へ
阿波 → 貴方は私が射るのを よく観察したか
私が目をほとんど閉じていたのを 見たか
私は的がぼやけて見えるまで 目を閉じる
すると的は 私の方へ近づいてくる様に思われる
これは心を深く凝らさなければ達せられないことである
それは私が仏陀と一体になることを意味する
さすれば 矢に 有と非有の不動の中心に 
矢が中心にあるというのは 我々の目覚めた意識を意味する
矢は すなわち中心から出て 中心に入る
だから貴方は的を狙わずに 自分自身を狙いなさい
貴方を射当て 同時に仏陀と的を射当てる

ヘリゲル 十年 二十年 弓術を習っても 
弟子のレベルのままの多くの弓道家を知っている 
自分の日本滞在には限りがある
ある日 阿波を訪ね
「私は的にあてるということが理解できない」と
阿波 → 貴方を先に進ませる最後の道が一つだけある
それは使いたくないが 今晩 もう一度 来るように

さて アノ有名なシーン 次回に
2025/11/07(金) 晴れ


本日は武道通信かわら版 配信日


巷 ドジャース・ニュース もちきり
その むかし むかし
週刊ベースボール 連載
大和球士 「プロ野球三国志」
校正 不必要 句読点の赤字マーク 「<」入れるだけ
ゆえに 担当 新人杉山

原稿に「ダジャース」
「ドジャース」と赤入れ
校了の折
編集長から
「ダジャース」でいいんだ 直すな

大和球士
戦前 社会部記者からスポーツ部へ
大東亜戦争 真っ只中
大和魂 野球博士 ドッキング
ペンネーム 大和球士に

戦後 ラジオ解説者も
川上のホームラン 「弾丸ライナー 」とネーミング

大和球士さん 草葉の陰から
大谷のホームラン
なんというネーミングしただろうか
2025/11/05(水) 晴れ


旗日


そうか きょう 祭日か
そうか 旗日か
「旗日」と云っても 孫らは知るまい

国民の祝日 → 家庭で国旗を掲げて祝う
父 玄関先に日の丸 掲げてしたシーン
記憶の引き出しにある

祭日のわけ
「文化の日」
なぜ この日?
マッカーサー憲法 公布の日
「自由と平和を愛し 文化をすすめる」
<自由と平和>
マッカーサーが呉れたというのか

退社の折 お別れ会 式出物代わり カードを配った
表面 居合道着で日本刀を構えたポーズ写真
裏面に一筆
《戦後半世紀、
無抵抗にイエローヤンキー化した我ら日本人が、
己の心の身丈に合ったトポスを
見つけるための砦となるのが武道である
――『武道通信』創刊!》
7−1 1998

新首相
『武道通信』 讀んでいただろうことは
想像に易い
2025/11/03(月) 晴れ


技の無い技


日本人とヨーロッパ人との 物の考え方と違い
連綿とつづき 真中当たりに
「阿波先生の教え」との見出しがある

ヘリゲルが阿波の教えを受ける経緯は省く
稽古をはじめ ヘリゲルが抜き差しならぬ所に陥ったとき
阿波は云った
【「貴方が弓を正しく引くことができないのは、貴方が肺で呼吸するからです。
息をゆるり下へ押し下げて、腹の皮を程よく張らせなさい。痙撃{けいれん}的に圧迫せずに、息を止めておいて、どうしてもいなければならない分だけ呼吸しなさい。その様に呼吸できたなら、それで力の方へ移されたことなるから、貴方は両腕を緩めて、力を抜いて楽々と弓を引くことができる様になります」と言われました。
それを実証するために、先生は自分の強い弓を引いて、私に腕に触ってみるよう言いました。実際、先生の両腕は何もしていないように緩んでいました。】

ヘリゲル ときが経つにつれ この呼吸法 できるようになる
次に 矢を放つ
新しい課題が増えた 「離れ」 
ヘリゲル これ以上できないと 
aufgeben{アフティブ }(ギブアップ )

阿波 云う
貴方は いまが離すときと「感ずる」か 或いは「考える」るとき
矢を話そうと「思う」
貴方は意志をもって右手を開く
つまり貴方はその際 意識的なのです
貴方は無心になること 
矢がひとりでに離れるまで待っていることを
覚えなければいけません

ヘリゲル チンプンカンプン
阿波 更に云う
貴方は何もしてはならないのです
考えても 感じても 欲してもいけない
技の無い技とは
完全に無我になり 我を没することです
そして 貴方が全く無になったと思える様になれば
そのとき貴方は矢を放ことに成功するのです

阿波とヘリゲルの間に当然 通訳はいた 
東北帝国大学のドイツ語の教師だろう
通訳さんも大変だったろう
「無心」 当時のドイツ語にあったのだろか

ヘリゲルが云う
ヨーロッパ人が知っている 或いは 知っていると思っている
「思想的」な仏教と いうからには 
「無心」とのドイツ語 あったのであろう
gedankenlos{ゲザンノノース}
であろうか
「技の無い技」
通訳さん どう訳したのだろうか

アノ有名なシーンまで まだ届きそうもない

−−−−−−★−−−−−−
拙者 第二外国語 ドイツ語 
リルケの詩 原文で讀みたいと
5年間 学んだ

覚えている語は
Guten Мorgen(おはよう)
Guren Abend(こんばんは)
Ich liebe dich(私は貴方を愛しています)
これだけ

英語が万能だと 
英語がデカイ顔している昨今
第二外国語 不要論
2025/11/01(土) 晴れ


 弓術における禅


オイゲン・ヘリゲル講演に戻る
 かたぐるしい翻訳
以下 箇条書きにしよう

射手の自分自身との対決
射手 自分自身を的にしていて
しかも 自分自身を的にしているのではない
日本の弓術師範の間での言葉
弓を射るとき 一切が一に
「不動の中心」となる
その時 技は無いもととなり
弓を射る事は矢を持って射ないこととなり
射ない事は弓と矢なしに射ることとなる
※「不動の中心」→「正鵠{せいこく}」
弓道の的の真ん中を意味する
 
そして結論的に こう云う
かの「思想的」な仏教ではなく
日本で<禅>と呼ばれている
 
オイゲン・ヘリゲル講演 ページ数11頁
(小さな写真が5点ほどあるが)
講演時間 どのくらいであったろう
多くの聴衆  っぱりわからなかった のでないだろうか
原題
「Die ritterliche Kunst des Bogenschiessens」(騎士的な弓術)
 西洋では滅んだ騎士道 日本では武士道として連綿と生きていると
ヘリゲル博士 云いたかった

ヘリゲル博士 七年後(1948)出版
『Zen in der Kunst des Bogenschiesens(弓術における禅)』
(英語訳/ポルトガル語訳も刊行)
これで 弓道=禅となり
<禅>が世界的に広まった
 
文中写真の中に 賞状がある
「段位 オイゲン・ヘリゲル
五段ニ列ス
昭和四年六月二十日
大日本帝国
 大射道教主 阿波見鳳(研造)」
 
戦前の大日本弓道会の五段でなく
阿波研造が創った流派 「大射道教」の五段
オイゲン・ヘリゲルが語る弓道は
阿波研造の弓道である
 
 弓を引いたことのない御仁も知る
アノ有名なシーンは 次回に
2025/10/30(木) 晴れ


ボナー・フェラーズ


オイゲン・ヘリゲル講演 間断{かんだん}

“国民的”朝ドラ
主人公 小泉セツ & 小泉八雲
恒文社刊「小泉八雲作品集」 
そのむかし 古本屋に売らなきゃよかった
来年あたり 値が張るであろう

ベースボール・マガジン社 
内定し 社長と面談
履歴書の「特技」の欄 
若気の至りで 哲学的文面 連ねていた
社長 「どういう意味だ」
「一日中 天井を見ていられる」
社長 ホテルの天井 見上げ大笑い
「恒文社だな」と一言
ベースボール・マガジン社 前身は恒文社
国立町 大学通り 路地の借家からはじまった

ベースボール・マガジン社 一度 倒産
更正法 解け 
ベースボール・マガジン社 恒文社 合体
で 狙われた≠ヌおり 恒文社へ出向

さて 本題
GHQボス マッカーサーの軍事秘書 
ボナー・フェラーズ准将{じゅんしょう}※(大佐の上 少将の下)
対日心理戦を担当

フェラーズ 
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の著作 愛読
日本文化に深い理解と敬意
いまで云う <親日家>

マッカーサー  天皇 戦争犯罪人で訴追の方針
これにフェラーズ 反論 
円滑な占領統治が困難と

<マッカーサー憲法> 第一条
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、
この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
この一条 ボナー・フェラーズやも知れぬ

−−−−−−★−−−−−−
昭和天皇 全国各地 行幸 発案
昭和21年2月から
欧州の王制知っているマッカーサー 驚愕 
「殺されるゾ」
が 各地住民 大歓迎
(昭和21年2月から昭和29年8月まで
米国統治下の沖縄を除き)

マッカーサー フェラーズの意見
正しかったと合点
マッカーサー 親日家になったかどうか 定かでないが
『Bushido: The Soul of Japan』(新渡戸稲造『武士道』)
讀んでいた
フェラーズも讀んでいた

元気づく“保守派”諸君
内に篭もるな 
海外に発信せよ
2025/10/28(火) 晴れ


自分自身を射当てる


ヘリゲル博士 まず 日ノ本弓道の歴史
と云っても 西洋の歴史では新しい兵器が次々と古い武器(戦法)
駆逐されていくが 日ノ本弓道は違うと前置きし
【現在日本で、いわば国技として行われている弓術の特殊なやり方について話されるのを期待している方もあるかも知れません。しかし、それは見当違いであります。
日本人は「弓術」を一種の運動と解しているのではありません。初めて聞く人には不思議に思われるかも知れませんが、それは徹頭徹尾「精神的」な事柄を意味するのです。従って、弓を射る「技」とは、主として肉体的な訓練によって誰でも多かれ少なかれ会得する事ができる能力、「射当てる者」が重んじられる能力を意味するのでなく、別なある能力を言うのです。
それは、純粋に精神的な訓練が求められ、その目的が精神的な的中と言う、判りにくい能力を言うのです。そのため、射手は、つまり自分自身を的にし、その際、自分自身を射当てるのであります。】

[自分自身を射当てる]
禅問答 禅の公案{こうあん}である
もう少し 引用しよう
【こういうと、謎に聞こえるに違いありません。かつて生死を争う戦闘のために習われ、用いられたものが、今は手薄な運動として残ろうとともせず、いわば精神修業の様なものになりおうせたのは何故か。精神修行にもなお弓と的を使うのは何の為か…………と言う様な疑問が次々に出てくるでしょう。
しかしながら、先ず第一に頭に入れて置かねばならな事は、この弓術の特有な「精神」は、それが血生臭い戦いに使われなくなってから一層鮮明らかになりましたが、このこの精神は後になって勝手に考え付けられたものでなく、昔から、弓術に結びついたものだと言うことです。血生臭い事に使われなくなって初めて、その精神を全く純粋に培うことも、当てるという目的に使われる事無く、それを前面に押し出す事ができるようになってきました。】

そう 源平合戦 屋島の戦い 
那須与一 平家の船が掲げた扇の的を射抜いた(「平家物語」)
与一 扇の的を射抜いたのでなく
自分自身を射当てた 
ということになる
2025/10/26(日) 雨


オイゲン・ヘリゲル


【オイゲン・ヘリゲル講演
昭和十一年(一九三六)二月十五日
ベリリン、「日独協会」於いて
「射」における武士的芸術】
 
オイゲン・ヘリゲルが弓を引き 的を狙っている
例の写真に下にネーム
 <大正13年から昭和4年まで東北帝大の講師として来日したオイゲン・ヘリゲルは、阿波研造十段から弓道を学ぶ。帰国し、ドイツで日本弓道の精神を講演した。それ以後、ヨーロッパに日本の弓道を知らしめすこととなった。>

談余:拙者が通った北島弓道場の弓友に 日本の会社に勤めるドイツ人がいた 
ヘリゲルの本 讀んで弓をやりたくなっと
二人のフランス人もいた 
北島弓道場主 ヘリゲルに縁があった

リード
<「幸い私の手元に、昭和11年、ベルリンで行われたヘリゲル博士の講演が紹介された『季刊・日本』がある…………それで主に柴田治三郎氏の当初訳により、更に岩波文庫の改訳も参照させて頂いて、私の気付いた点をわかりやすく書いてみることにした。」
――北島芳雄・著『射道――わが師の教え』より

わが師とは 阿波研造の一番弟子 安沢平次郎十段
北島師範 新築したばかりの家に弓道場をつくり
安沢平次郎を住まわせた
拙宅から徒歩2分 この弓道場で数回 射たことがある

さて オイゲン・ヘリゲル
日ノ本の弓道に何をみたのか
欧州人 何に 心 打たれたのか

次回につづく

−−−−−−★−−−−−−
『射道――わが師の教え』 
道場門下全員 頂戴した
で 弊社(杉山頴男事務所)で販売させてくだいと
「月刊武道」(武道館発刊)に書評持ち込み 書評欄に掲載してもらう
弓道関係者  阿波研造/安沢平次郎 →レジェンドの人
注文の電話鳴りっぱなし (弓道関係者 当時 まだネットとは無縁)
2025/10/24(金) 晴れ


特攻の心


マバラカット慰霊祭を終え 
隣町のバンバンの「大西瀧治郎平和祈念碑」へ向かう
記念碑はバンバン歴史協会が この10月に設立したばかり
式典が終わると
記念碑の裏手の急な斜面を登った雑木林の中にある洞窟へ案内された
入り口 一人ずつしか入れそうもない
野犬にも見捨てられたような無愛想な暗い口が開いていた
入ることは禁止
入口の手前に白いプレート案内書き
≪1944年11月20日1995年1月9日にかけて 
このトンネルは大西瀧治郎中将率いる第一航空隊艦隊と福留繁中将率いる第二航空艦隊の司令部であった(以下略)≫

『神風特攻の記録』
手持ちのカバンに入れて成田空港へ向かうリムジンバスの中 
また機内で開いた その夜 ホテルで再び開いた
<このトンネル>と書かれた洞窟 
「洞窟の司令部跡」の章だった

≪洞窟の司令部に粗末な机と椅子が於かれ六畳ほどのバラック部屋があった。昭和20年1月6日の夜、この長官室に大西瀧治郎中将は中島正飛行長を呼んだ。
「誰かが神風特攻隊の心を伝えなければならない。部下全員、山籠もりするには辛かろうが誰かが内地の者に伝えなければならない。嫌なら命令を出す」。
そう大西長官は言った。
 この数時間前の午後4時、フィリピン最後の特攻となった5機がマバラカット飛行場から飛び立っていった。一機は巡洋艦、他の三機は大型輸送船に命中炸裂した。
 その翌日の5日、出撃できる零戦全機(40機)がすべて飛び立っていった。残った故障機は焼却し、6日以降は全員、山中にここり陸戦隊になることになっていた。しかし整備員が火に燃やすのは忍ないとし、夜を徹し整備し6日の朝、出撃できる5機が出現した。
 このとき残っていた特攻資格者は30名。中島飛行長は、この日の出撃に志願するものに手を挙げさせた。全員が手を挙げたので玉井副長官と打合せ5名を選んだ。
 神風特別攻撃隊第二十金綱隊。一番機中野勇三少尉。コクピットから身を乗り出し、「飛行長、ありがとうございました!」と叫んだ。二番機もニッコリと笑いエンジンを入れた。三番機、四番機、五番機も同じように飛び立っていった。≫

−−−−−−★−−−−−−
十二ノ巻
【特攻の心  田形竹尾
   ――元陸軍特攻教官、特攻隊員の伝承】
軍国主義の犠牲者と言われた若き特攻隊員たち
しかしその内実は現代人の価値観を遥かに卓越した崇高なる心の持ち主だった
目が澄んで頬がにっこりと笑い
「後を頼む」の遺言を残して出撃していった彼らの心境は
特攻教官であり また実際に特攻命令を受けた者にしかわからない

特攻教官 田形氏の言葉に耳を傾けよう
田形 → 私は教官として年齢二十二歳から二十五歳の学徒と
十七歳から十八歳の少年航空兵五十名に特攻訓練を指導した
それまで私は幾度もの航空作戦に参加し
夜間不時着による昏睡状態 航空機離陸中の爆撃等で幾度もの苦しみを味わった
また二機の飛燕戦闘機で三十六機のグラマンを相手に死闘を演じて生還したが特攻教官としての八ヶ月は、それ以上に苦しいもので自分が最も惨めな時期だった。
特攻隊員の心理は通常戦闘の決死隊のものとは比べものにならない
より崇高なものである
教官をはじめとした決死隊は恐怖感 疲れ 死の恐怖を持っているが
特攻隊員たちにはそれがない
目が澄み 頬が笑っていた
そのために教官の私が八ヶ月間 精神訓話をやる必要がなかった
いや 特攻が決まっている隊員の方が精神性が高く
精神訓話など必要ないのである
彼らは死ぬつもりで志願して目前に死があることを自覚している
しかも航空隊では戦況情報がいち早く べて入るので
いよいよ自分たちの死ぬ時期が近いことを悟るのである
当時私は 八ヶ月間特攻隊員の兵舎を巡察していた
一部屋に20名ずつの寝室を見回るのだが 
特攻隊員はほとんど熟睡している  
これは訓練で疲れているのではなく すでに生死を超越しているからだ
逆に教官や助教を見ると死の恐怖を感じてか無意識に寝返りを打っている
出撃前夜の特攻隊員は今生最後の睡りを噛みしめるように熟睡していた

昭和十二年十月、私の初陣前夜とは大違いである
生身の人間がこのような心境に達することは並大抵なことではない
ましてや十七歳から十八歳・二十二歳から二十五歳の若者たちは
先々五十年は生きることができる
しかしそれでも十人に一人 五十人に一人の難関を志願し死んでいく
この心境は死の意識が身近にない普通の宗教家や哲学者が理解できる心境ではない
だから指揮官が特攻指導をすることは無意味だ
私はこの形式的な指導に腹を立て 部隊長に文句を言ったことがある
私は十年間飛行機に乗っていながらも死の恐怖だけは越えられなかった
心の中に「助かるかもしれない」という意識があって観念的な生死観しか確立していなかった
決死隊として私は戦い 教官として彼ら特攻隊員を訓練したが
それでも必死隊の心境がわからなかった
しかし昭和二十年八月十四日
特攻命令をもらってようやくわかったのであった。
                (2024/11/23(土) 再録)
2025/10/22(水) 雨


本日は 武道通信かわら版 配信日


自民/維新 連立政権合意
初の女性首相 誕生
さりとて 富士の高さは変らない
駿河湾の深さも変らない

そうは云っても 物価の高さは変るかも
対支那 変ること間違いない

永田町トラスト 
地殻活発になることも間違いない
2025/10/20(月) 雨


辞世の句 遺書


『57年前の19年10月25日7時25分、マバラカット飛行場から神風特別攻撃隊の関行男指揮官以下、谷暢夫、中野磐雄、永峰肇、大黒茂男、山下憲行搭乗の計6機の零戦が胴体に250キロの爆弾を抱え飛び立った。
 10時40分、レイテ湾付近タクロバン沖にクリフト・A・Fスプラーグ隊の空母四隻、巡洋・駆逐艦六隻を発見した。海面上を低空飛行し、レイダーをかいくぐり近くまで迫り、敵に発見されたときにすぐに急角度で上昇、高度3千メートル上空から五機は各自目標を選び、いっせいに母艦に突入した。四隻の空母を撃沈、撃破。
 出撃前の特攻隊たちが整列し、別れの水杯を酌み交わしているとき、何人かの整備員が「海ゆかば」を歌いはじめると整備員全員で唱和した。つづいて「予科練の歌」が歌われた。整備員が歌い終わると同時に、目に涙を浮かべた玉井副官は「出発!」と下令した。』(『神風特攻の記録』より)

※山下憲行機 エンジン不調でレガスピに引き返す
 ゆえに敷島隊五名と流布

−−−−−−★−−−−−−
関行男大尉 享年23
父上様、母上様。
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。 武人の本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、 その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。 皆様御体大切に。

満里子殿
何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対しては誠にすまぬと思って居る
何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分できている事と思ふ 
御両親様に孝養を専一と心掛け生活をしていく様
色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ  

教え子へ
「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」

谷暢夫 一飛曹 享年20
「身は軽く つとめは重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当り」
「身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七たび生れ撃ちてしやまん」

中野磐雄 一飛曹 享年21
お父さん、お母さん。私は天皇陛下の子として、お父さん、お母さんの子として、立派に死んでいきます。喜んでいってまいります。では、お身体を大切にお暮し下さい。さようなら

長峰肇飛行兵長 享年19
「南溟に たとへこの身が果つるとも いくとせ後の春を想へば」

大黒繁男 上飛 享年19
遺書 辞世の句 見つからず
靖国神社にある大黒の遺影
最後の出撃直前にもかかわらず 笑顔を残している
「特攻隊で戦死した兄(大黒)の面影」藤田 弘子          
NHK 「零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争〜」 
※大黒繁男 「太平洋戦争」なんて名称知らない 
大東亜戦争を戦った
何が慰霊だ

2025/10/19(日) 晴れ


昭和19年10月25日7時25分


【マラバカット神風特攻慰霊祭
我らに託された歴史の事実
杉山頴男
昭和19年10月25日7時25分、神風特別攻撃隊は飛び立った
そ57年後のそのとき マバラカット飛行場に「海ゆかば」が流れた】

前文
マラバカット神風特攻慰霊祭に発つカバンの中に一冊の本を入れた。
『神風特攻の記録』(金子敏夫・著/光人社 )
同書の装丁者である神埼夢現さんから刊行の今年四月にいただいた。
連合軍の資料に基づき、
戦果の虚実を明らかにしている。敷島隊は五名でなく六名であったこと、
構成された当時は「しんぷう」と呼ばれたいたことも同書で知った。】

*猪口力平が「神風」の由来は郷里の道場「神風(しんぷう)流」
から名付け 大西に提案し認められた 
それが大本営の電文で「カミカゼ」とされ 「カミカゼ」が伝聞

杉山 → 神風平和記念公園入り口 大きな鳥居の前 
100名ほどの地元小学生 フィリピン国旗と日の丸 振って
日本から来た戦没者の遺族を支えた206名の参列者を迎え入れてくれた

両国旗を振る子供たちは先生から神風攻撃隊をどう聞いているのだろう
その無邪気な笑顔を見ながらシャッターを切った
取材に来ていた「SAPIO」の編集者 女性教師の談話を記事にしていた
(帰国後 讀む)
「この子たちは 神風攻撃隊は難しいので
日本の英雄 世界性和を祈る儀式と教えています」

この女性の先輩にあたるのだろう 
昭和49年 マバラカット出身の教師
ダニエル・ディソン氏が中心になって旧飛行場に「神風」を建てた
「特攻という事実」 かつての占領民の心を動かした

ディソン氏 現在 フィリピンん・カミカゼ記念協会会長であり
自宅に「カミカゼ・ミュージアム」をつくり 開放している
神風特攻機 初出陣のとき14歳
野球をなど教えてくれた彼ら ある日 突然 いなくなった
特攻 軍の秘密だった
大学卒業後 偶然 神風攻撃隊 英語翻訳版 手に
マバラカットの写真がり驚いてページをめくり
彼らが帰らぬ人をなった運命を知り そして泣いた

慰霊祭 はじまった数十分後の7時25分
フィリピン海軍吹奏楽隊
「海ゆかば」演奏 はじまった

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大きな石 米軍軍艦にみたて
小石 投げつけていた 11、12歳の自分
想い出しながら 旧マバラカット飛行場に立っていた
2025/10/17(金) 晴れ


寺がなくなる


拙者の健康寿命 男子平均健康寿命を超すことだろう
そういっても いつかは逝く
そのとき 菩提寺 まだ残っているだろか
杉山家先祖代々の墓に入れるだろうか
そんな 疑念を抱かせたのは
『宗教問題』の小川寛大さんの新刊書を手にしたからだ

『誰が「お寺を」をころすのか
 ――貧困化する寺院と
   多様化する葬儀ビジネスの裏側』
小川寛大 (宝島新書)定価1100円

帯にこんな文言が
「葬儀のお布施 平均42万5000円
でも8割のお坊さんは“食えてない?!”

檀家数 200〜300あれば <お寺>だけで食っていける
が 現在 檀家数200軒未満 7割超
寺の収入だけで生活できる僧侶は2割程度
寺業界の中で
「あと数十年もすれば 大半のお寺が消えてなくなる」
小川さん 取材の中で聞いていたのだろう

「お墓参り」 できなくなる
“先祖供養のロンド――もう二度と会えない、あなたに”
このヤバイ将来 政治家たち 
総理指名 スッタモンダしている暇があるなら考えろよ

−−−−−−★−−−−−−
杉山家の墓 メインストリート それも中央
菩提寺の住職の家の墓の前
檀家として別格だったのだろう

杉山家墓石 左右 二つある
右 曾祖父と奥さんの名 と 高祖父の名 
曾祖父 高祖父は「上座」奥さんは「大姉」
上に 三つ柏の家紋
祖父が建てたのだろう
左  三つの名  (戒名)信士 (戒名)信士 (戒名)信女
たぶん初代の御仁らだろう 
江戸の世の墓石 ボロボロになり 父が作り変えたのだろう

菩提寺の墓石の数  百ちよっと といった感じ
“食えてない?!”
2025/10/15(水) 雨


体育の日


「スポーツの日」 なんて知らね〜な
「体育の日」なら知っている
1964年 東京オリンピック 開催日 記念して

高校三年だった
先生 「帰ってオリンピック 観ろ」
半ドンになり 家に帰ってテレビつける
三宅(義信)がバーベル上げていた
日本 初の金メダル

記憶の引き出しにある ワン・シーン
開会式 開催宣言 昭和天皇 
敗戦後少年 初めて天皇の声を聴く

それから 
最終聖火ランナー 階段駆け上っていくシーン
アナウンスの記憶 
「原爆投下日に広島で生まれた…………」

記憶の引き出しにある ワン・シーン ほかに
マラソン アベベ 優勝
はだしのアベベ カッコ良かった 円谷幸吉 銅メダル
女子バレーボール ソ連を破り優勝
柔道無差別級 アントン・ヘーシンクに神永敗れる

大阪・関西万博 本日 打ち止め
亡父の遺品 もう一点
日本万国博覧会記念メダル
EXPO’70  三枚セット
買取専門店 120,000円

売ろうかな? 売るの やめようかな?

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父 逝き 空き家になった実家
何年後し 尋ね 父の引き出し空ける
新聞の切り抜き 「らしさ」とのタイトル
沼津朝日(アノ朝日新聞とは無縁) 投稿欄
高校二、三年に投降したものだった
いま流行{はやり}の「ジェンダー」を先取りしていた(笑)
2025/10/13(月) 晴れ


その瞬間


徳田 → これも私のオリジナルの座右の銘
「過去はすべて正しかった」
自分の過去は自分なりに そのとき そのとき
必死で考え判断してきたんですよ
だから 「過去はすべて正しかった」
過ちは明日でも修正できます
だから明日を見て 目の前の困難を乗り切り
いかに自分の人生をまっとうにしていくかです

前田 → そうですね。元気になりました。
今日は精神医科のカウンセラーに会いに来たようです(笑)

参議院選 出ないか と声をかけられ
徳田代表に会いにいった 徳洲会理事室であったろうか
「お断りします」と返事するために

その折 徳田代表 ノートをめくり
これ 私の座右の銘です
「過去はすべて正しかった」

過去はすべて正しかった――にするために 
<いま>がある <いま>が勝負!
これは 禅だ 
鎌倉武士が“すがった”禅だ 
「お受けします」と返事した

−−−−−−★−−−−−−
禅 過去→未来 という時間の流れに
通過点 <現在><今日>
武士の<いま>は
<現在><今日>ではない
その<瞬間>

熊谷直実{くまがい なおざね}
一ノ谷 海辺で
平敦盛の首 討ち取ろうか 止めようか 迷った
その<瞬間>
2025/10/11(土) 雨


楽市楽座


 「海ゆかば」の項のあとの 
中見出しを追ってみよう

◆強き者が弱き者を追い込む
アフガンの悲劇

 徳田 → 私の論法でいえば
(徳田氏 「僕」と「私」 両方使う “生”の声を活かした)
格闘王の前田さんが小学生を思いっきり殴ったとしますね
前田さんは 相手が先に殴ったからだと弁明する
でも相手は小学生 先に手を出した人が悪いのではない
強い者が弱い者を殴るのが悪い
 べトナムがアメリカに勝ったのは
共産主義が勝ったのではなく 民族のプライドが勝たせた
アフガニスタンがソ連との戦いでも 民族のプライドが勝たせた
 
◆弱き者を殺す国家テロ
指導者のモラル

 前田 → 徳田代表のメジャー(ものさし)というのを聞いて
自分の引退試合を思い出しました
レスリング(グレコローマン)オリンピック3連覇
アレキサンダー・カレリンを選んだのは
「史上最強のレスラー」をメジャー(ものさし}にして
いままで歩んできた格闘技人生での前田日明という自分を
計ってみたかったから
試合が終わって自分の全体像が見えました
自分を律するために また自分と社会との関係を律するため
何某のメジャーを持つべき
 
◆今も昔も織田信長の楽市楽座
減税で景気回復

 徳田 → 経済を立て直すのは今も昔も世界共通
織田信長の楽市楽座
ノーベル経済学賞サミュエルソンも 私と同じく
非富裕者の所得税 物品税(消費税)を下げるべきだと
今年のノーベル経済学賞の人も同じことをいっている
政治家や官僚でなく
国民に使い方を決めさせることが 減税の意味
規制も撤廃すればいい
古今東西 楽市楽座は共通の景気対策 経済再建の手段

−−−−−−★−−−−−−
楽市 → 市場や商売の自由化との概念
楽座 → 鎌倉/室町の世につくられた公家や寺社の保護を受け 
営業を独占する権利 商工業者の同業者団体「座」
これを廃止し 自由に商売できるよう許可

楽市楽座 織田信長の専売特許のように云われるが 違う
今川家/六角家/後北条家
信長より早くやっていた
信長 商取引の妨げとなってい関所の廃止を徹底的にやったから目立った

楽市楽座 要は減税
2025/10/09(木) 薄曇り


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