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ブラッシュアップライフ


きのう 一番下の孫が訪ねてきた
『ブラッシュアップライフ』 何度も観たといった
ネット配信をスマホで
『ホットスポット』 観てるかと聞いた
ジイジ ネット配信で観ている
観てないと テレビ 観ないと
ジイジも テレビ 昼/夕の飯のときのNHKニュースだけ
民法 CМ 鬱陶しい

「兵頭二十八ファンサイト」 3月6日

《海兵隊が新型の揚陸艇を使って、2月27日に沼津海岸にビーチングして荷卸ろしにかかったが、
それは途中で不具合に見舞われた。……………………
このサプライ船は『Resolution』という名前で、全長254フィート。……………………
 露天デッキの面積は6000平方フィート以上。
 天候・海象は、落ち着いていた。……………………
 海岸では、海兵隊の第3戦闘補給連隊が待ち構えていた。
 ※沼津海岸はなつかしい。2017-6-26にそこで米陸軍のLCUのビーチング手順を拝観した。
静岡県の危機管理部の方も臨場していらしたが、お元気でしょうか? 
あれから8年も経とうとしているのか! 
そして8年あれば、わが国の造船所は、LCU相当艦をゼロから新造してしまえるのだ。》

2017-6-26 軍学者 たしか沼津海岸に来ていたな
1947−某月 米軍海兵隊 沼津千本浜海岸で訓練していたな
叔母/姉ら 赤子の俺を叔母車に乗せ見物していたな
突然 指揮官が近づいてきた 叔母/姉ら後ずさり
指揮官 赤子の俺にチョコレート 手渡した
分厚かった記憶 指揮官 若い奴だった記憶

俺の人生 最初の記憶
『ブラッシュアップライフ』しても
何度も このシーンからはじまるのだろう
人生をリフレッシュしたり 磨き上げたりしても
敗戦後少年に変わり
2025/03/07(金) 晴れ


本日 武道通信かわら版 配信日

早朝 配信手配前 窓を開けると
隣家の屋根 薄雪化粧していた

徳川幕府 儒教を選択
上下関係 厳しくし 騒乱を押さえた
男女の上下関係 はっきりさせた
法は定めても 乱世の生き残りDNI
そう簡単に消えない
武門 表は男 中は女が守る と決めた
男 中の女に指図はできぬ
男子血統維持のための妾 妻が決めた

拙著 『真似てみたい武士の妻の作法』『武女』
戦國の世 江戸の世の女の<威>を綴った
2025/03/05(水) 雨


永遠のいま


雪が ふるふる 雪見ておれば  三頭火
三月の雪 木々の害虫を殺してくれるが
小鳥 餌なくなり 困ったもんだ

<コメ5キロ販売価格値上がり平均3939円>
<政府の備蓄米放出で10日から12日まで初の入札 
新潟県産コシヒカリなど対象で落札業者選定 
店頭には早くて3月下旬か>
巷 騒々しい

【松本 → 去年、衆議院の憲法調査会に出た折り、ある議員から質問がありました。私なりにその質問を整理すれば、天皇制のあり方として、昭和天皇のような古いワイシャツを着て、ゴム長靴をはいて国内で田植えをしている、そういう天皇の姿がいいか? それとも今上天皇のように、外国へ出て行って積極的にロイヤル外交を展開するのがいいか? 
私は昭和天皇のあり方が良いと答えました。
天皇は国事、外交に係わらず、日本国民が米作りをしているときには、米の出来具合はどうかと心を配る天皇像。
昭和天皇が言いましたね。今年は長雨が続いたので、米の出来具合はどうだと。あのとき、政府の担当者、宮内庁の役人は答えられない。官僚のやる農政と天皇が国内を回り、米の出来具合を心配することは次元が違う。】

ネーイションススーテイト(国民国家)になって たかだか百年
それを二千年以上の皇室を規定することには無理がある
皇室自体も生き抜くためにやってきた
それが皇室の本質
建前として最初に牛肉を食べたのは明治天皇
日本が生き抜くため近代国家をつくり西洋風の国家体制を作らなければ
ゆえにライフスタイルも西洋風にしていく
天皇 肉も食べ 洋服を着 皇室の晩餐会正式メニュー フランス料理

天皇 日ノ本民族が この島国で生きて生きやすいよう
異国の文明/文化で必要と思うものは手に入れておかねばならぬ
天皇のスタイル 永遠普遍でない
新年 最初の行事 万民安寧を祈る四方拝は道教五行説
その後は仏教 戦後はキリスト教も

【松本 → 日本の思想を哲学し、明確にしたのが西田幾多郎の東洋哲学で
「歴史には始めも終わりもない」と言うです。ある時代を切ると、そこには織田信長や徳川い家康、伊藤博文の顔が現れ、時代によって顔は変わるが、天皇という存在自体は不変である。生きているときは昭和天皇も平成天皇もない。ただの天皇です。
これは どこから来ているのか?
自然、もっと言えば米です。今年の米の中には去年の米の命がある。
去年の米の命の中には百年前の、千年前の米の命がある。そして今年の命には
百年後の、千年後米の命がある。
だから「いま」と言っても、それは「永遠のいま」という考えです。
これは西田幾多郎が言葉として取り出した日本人の歴史観ですけど、後に宗教体系として仏教の影響を受けて神道になっていくが、自然崇拝という日本人の考え方の根源的なものです。
神道はもともと自然崇拝ですから神社など絶ててない。古代杉に注連縄を張るだけとか、石自体が神になる。
髪を<かみ>と言うのも、川上を<かわかみ>と言うのも、上にあるもの、かしこきものは全て<かみ>で、そこに神道というより、日本人の原初的な信仰心がある。
生きている者が死んだら全て神になるという八百万神{やおろずのかみ}で、
唯一神のキリスト教とも、修行して成仏するという仏教の信仰観とも別のものです。
日本人とは何か、となるとタマネギの皮むきではないが、そこまで生き着く。
それを我々の文化という言葉を「民族の生きるかたち」と考えたい。】

−−−−−−★−−−−−−
仏教伝来 仏教が国家的な支援のもとに発展し
地方豪族の信仰を得て数多くの寺院が建てられた
百年後 持統天皇 これはヤバイ
<かみ> 忘れさられてしまう
注連縄だけでは弱い
仏教の仏殿のような <かみ>を奉る社殿が必要
伊勢神宮の始まり
2025/03/04(火) 雨


誰も 天皇になろうとしなかった


水戸藩 会沢正志{あいざわせいし} 『新論』
吉田松陰 佐久間象山ら憂国の士に大きな影響

1820年代来 イギリス捕鯨船 水戸へ
寄り木(岸などに流れ寄った流木) 薪 生鮮食料 売ってくれ
金を払ってもらったので庶民は喜んで売った 藩 見て見ぬふり 
会沢正志 曰く
外国人を上陸させてはいけない法があるのに
これでは國が守れなくなる
そして「國を守る」という 最後の最後は何を守るか?
これをはっきり させておかねばならぬ

領土を守るか 産物を守るか 武器か 火とか
でも それらは外国にもある
では 外国になくて日本にしかないものは何か
それは 天皇だ

新井白石にいわせると
たとえば 年号が元禄から宝永へ変わったとき
幕府から こういう年号になりましたと 天皇に報告
天皇は この年号でよろしい ハンコを押す役だと

前田 → 開闢百年ぐらいまで徳川幕府は磐石だったんですね

【松本 → 天照大神に対して東照神君のわけで、日本全体の神は徳川だったわけです。それが会沢正志が「日本の究極の本質は天皇だ」と言った瞬間に、
徳川の御世という考えが全部ひっくり変える。このカテゴリーは、正しい大義名分を言った瞬間に、それまでのものは虚だったとわかる。それがいま前田さんが言った藤田幽谷の正名論というのです。イデオロギー的、思想的に徳川時代はもう終わったという革命的イデオロギーが出てきた。】

前田 → ハンコを押す役でしかなかった天皇 結局 日ノ本からなくならなかったのは何でしょう
松本 → 足利義満も織田信長も天皇のお墨付きを必要とせず武力で天下統一
秀吉 「我 帝たらんとすれば帝 王たらんとすれば王」 何にだってなれる
家康 皇室を生かさず殺さず
前田 → でも結局 誰も天皇にはならかった やはり なれなかった

【松本 → 古代の天皇 武力も権力も持っていたからなろうとした人はいたが、いつしか軍事権も財政権も外交権も、姓さえ放棄していく。それを与える役になり、ただひたすら権威のみとなり、日本の文化としての大和歌(和歌)の守り手が皇室であると、
天皇は何も持っていないから奪うものがない。京都から一歩も出られない。極単に言えば御所からもでられない。天皇になってもしょうがない。】

戦後の象徴天皇制 日ノ本人が長い歴史の中で伝統的に作ってきたものだと云えると 松本氏
しかし 木村三浩氏と同じく 
天皇を憲法に謳うべきではない 憲法とは別格

大正天皇の生母 側室(柳原愛子)
明治天皇 軍服で軍馬に乗り陸軍大演習を観閲
これを知り 
軍事/財政/外交/行政は下々の男がやる仕事と
おいおい泣いた との逸話
柳原愛子 公家・柳原光愛の御息女
それが公家衆のイデオロギーだったのだ

明治二十年から昭和二十年まで 天皇 “下々の男”となったわけだ
長い歴史からみれば特異な体制
しかし 異国のネーイションススーテイト(国民国家)に
対抗するには仕方ないことだった

−−−−−−★−−−−−−
五ノ巻 西尾幹二氏の論客対談 終わったあと
拙者 西尾氏に質問した
天皇制が長くつづいた理由が何ですか といったものだった
西尾氏 帰り支度しながら云った 「神話です」

義満も信長も秀吉も アノ記紀の「神話」を信じていたのではないか
家康 やっつけの「神話」を重ね塗りした
だから『新論』で一気に剥げた
2025/03/02(日) 晴れ


白地に赤く 日の丸染めて


国旗「日の丸」の前に ナショナリズム おさらい
アヘン戦争 清朝を守る軍はあるが
国民を守るには支那軍というものはない
国民が略奪 殺されても王朝が倒れなければ関係ない

日ノ本も似たようなもの
王朝 皇室には軍隊はないが 各藩はもっている
しかし 薩摩藩がイギリスに攻められれば薩摩藩だけが抵抗
ロシアが対馬半島を占領しても対馬藩だけが抵抗
他藩は助けない
これじゃ 西洋の国民国家に勝てない
寄せ集めでなく 一つの民族が統一国家を持って
日本国民となる国民国家形態にしなければ
これがナショナリズム 

前田 → 日の丸 イコール 日本というイメージ
古くからありますね
松本 → 日の丸の形 日本を象徴し 日本を統一するイメージ
源平の世から幕末まで連綿と流れる

【松本氏 →  昨年、国旗国家法案が出来たとき
私は積極的に意見を述べた。
――国家指導者たるもの、日の丸を日本の国家とする伝統が生まれ、
それが国民に定着したのは、いつごろからわかっているかと。
それを説明しないで、これが日本の国旗だ、わかっているだろと言われても困ると。戦後、日の丸がなぜ国旗になったか一切説明されていないし、戦前も説明した人はいないのです。】

笠張り浪人 曰く
牛若丸 弁慶と戦ったとき 日の丸の扇 持っていたの庶民 知っていた
壇ノ浦で那須与一 日の丸の扇を射たの 子ら絵本で知っていた
木曽義仲 京へ攻めいったとき日の丸の扇を持っていた
長篠の戦い 織田/徳川連合軍も 武田連合軍も 日の丸 掲げていた
朝鮮出兵のとき 日ノ本の連合軍という意味合いで日の丸 掲げていた
知識人 知っていた
わざわざ 日の丸を国旗にするだと説明しなくても
みんなわかっていた

−−−−−−★−−−−−−
♪白地に赤く
 日の丸染めて
 ああ美しや
 日本の旗は

 朝日の昇る
 勢ひ見せて
 ああ勇ましや
 日本の旗は

(戦後改訂版)
♪白地に赤く
 日の丸染めて
 ああ美しい
 日本の旗は

 青空高く
 日の丸揚げて
 ああ美しい
 日本の旗は

ここまで GHQに忖度したのかよ
文部官僚 御上{おかみ}よ
2025/02/28(金) 晴れ


倭{やまと}から 大和へ


前田 → 編集部から聞いたんですが この三月末に 木村三浩さんの
『右翼は終わってねーぞ! 新民族派宣言』が刊行されるんですが
出版社が新民族主義にするか 新ナショナリズムにするか 悩んだそうですが
ナショナリズム イコール 民族主義とは云えないですね

【松本氏 → ええ、本来的に民族派と云わなればいけないですね。
右翼、左翼が出来たのが1910年だというのと同じで、ナショナリズムは
たかだか明治維新の頃の150年前にできた概念です。
つまりネイションというもの自体が民族であり、国家であり、国民であるという この三つの要素から成り立つもので、一つの民族が独立国家を持って、
その国家体制は国民主権でありという思想です。
訳語としてナショナリズムとは、民族主義と国家主義と国民主義と大きく分けて三つを含むものです。
民族主義に限っていえば、蒙古襲来のとき日蓮が「我、日本の柱にとならん、我、日本の船とならん」と言ったのは、ナショナリズムというより、民族主義であったと言えます。】

前田 → 蒙古襲来以前にも民族主義的な思想 発想 あったんですか
松本氏 「倭」からの脱皮が民族主義であったと

日ノ本は支那から夷狄{いてき}と扱われていた
東に住む野蛮人 北に住む野蛮人は北狄{ほくてき} 
ほかに南蛮 西戎{せいじゅう} 
支那の東方に住んでいる諸民族について書かれた『東夷伝{とういでん』
では日ノ本人のことを「東夷{あずまえびす}」
「夷」は人が弓を射ってる象形文字 つまり野蛮人
南蛮の「蛮」は蛇と同じ草むらに住んでいる野蛮人
北狄の「狄」は けものヘンに火だから 火で獣を追う野蛮人(モンゴル人)
支那以外はすべて野蛮人 これが中華思想

日ノ本 初めての国名 倭{やまと}
支那からつけてもらう ゆえに 倭建命{やまとたけるのみこと}

倭 → 人偏に禾{のぎ}を書いて女
収穫物を女が頭の上にのせる様を云う
俗称 → チビ 女が収穫物を頭の上にのせ かがんでいるからチビ
漢字の意味がわかってくると 頭に来て
倭{やまと}と「大和」に
そして 聖徳太子 「日いずる國」から 「日本」とした
これ民族主義
拙者 支那が「中国」と云う美称を使うので
同じく美称 「日ノ本」と使う
これも民族主義

−−−−−−★−−−−−−
米國に民族主義はない
民族主義が欠けたナショナリズム

独立戦争から始まる国家の団結 
言論の自由/武器の保持の自由/資本主義経済
ナショナリズムの思想 必然的に白人の人達に限られる
アメリカのナショナリズム=白人至上主義

わかりやすく云えば トランプ 先祖返りを標榜したのだった
2025/02/26(水) 晴れ


<ひふみ>祝詞


きのう 「富士山の日」だった そうだ
きのう 「天皇誕生日」だった
天皇 日ノ本の象徴ゆえ
日ノ本の象徴 富士山にかけて「富士山の日」にしたのか

いや “オモテ富士”の静岡県
富士山は 吾らのものだ と
平成21年 十六年前 
語呂合わせ 2(ふ)2(じ)3(さん)と
無理やりつけた

公立の小中学校や県立高校が休みとなっていた
ところが 八年前 平成28年 平成から令和へ
天皇誕生日 平成天皇「12月23日」から
令和天皇 「2月23日」に改められ 祭日に
静岡県の小中学校や県立高校生 
「富士山の日いらないじゃん」と怒ったとか

語呂合わせの何とか日 数多ある
11月22日 「いい夫婦の日」
3月9日 サンキューで「感謝の日」

<あいうえお>の五十音
<いろは>の四十七字の誦文{ずもん=じゅもん}
<ひふみ>の祝詞(謳歌{いわいうた} 
和製英語も混じった 日ノ本語ゆえ成せる技だ

ちなみに <ひふみ>
神文{しんもん}とも云われ
日ノ本最古の最強の言霊との説 
心身を祓い清め浄化する詞
ありがたい詞

♪ひふみ
よいむなや
こともちろらね
しきる
ゆゐつわね
そをたはくめか
うおえ
にさりへて
のますあせゑほれけ♪

意味は こんなところだ
《一二三四五六七八九十百千万億兆と麻を蒔きなさい
そうすれば神様と結ばれてきます
生命力が強い大麻をたくさん育てれば交わる罪穢れが遠くにさり
天から与えられた田畑を汗水垂らして一生懸命に耕すことができます》

拙者 かれこれ二十年前から暗誦できた 暗誦していた
ゆえに 癌もコレラも寄せ付けぬ身体となった

次回 前田日明編集長対談 つづき
2025/02/24(月) 晴れ


右翼/左翼とは


【前田日明編集長対談
右翼正統の民族派は終わらない
――民族の生き方を取り戻す
      論客・松本健一】

【◆前向上 5,6年前、松本氏に前田日明と対談しませんか、と
某出版社から話があったという。なにがし等の事情で実現しなかったそうだが、テーマは何であったろうか。しかし、今日、民族主義もナショナリズムも、その再評価から日本人の明日の生き方の選択を迫る切羽詰まったテーマとなった。
まさに満を期した対談となった。】

対談は やはり 右翼はおわったか から始まる
前田 前巻の木村三浩氏
こんなニュートラルのような右翼の人もいるんだと驚く
でも「右翼は終わった」に木村氏 新右翼も反発したんだそうですね
松本氏 全国の右翼からと笑う
【松本氏 → 従来の右翼の立場は反共であり、反共のよりどころとして
天皇主義の側面が強かった。そういう右翼は終わったと言いたかった。】

前田 10年前 「朝まで生テレビ」 たまたま木村氏の隣
右翼と違う 清々しい人の印象
木村氏を見ていると 右翼は左翼の対立概念でなく 
文化としての民族固有の道徳 倫理観を体現する者としての自立した人で
それが民族派だと云っているようで

【松本氏 → 右翼も左翼も、カテゴリーとすればたかだか百年の中で通用した、ロシア革命以後から東西冷戦が終わった70〜80年間しか通用しなかったカテゴリーで、いま前田さんが言った吉田松陰は左翼か右翼か分類するのは意味のない馬鹿馬鹿しい問いかけなんです。】
日本人がついこの前まで好きだった代表的人物は西郷隆盛で、最近では坂本龍馬ですが、時代状況で思想家、行動者の評価は変わりますが、民族の歴史をどう捉えるか、その考え自体がなければならないのですが、たかだか百年の右翼か左翼かというカテゴリーで、吉田松陰、西郷隆盛の生き方、思想性の深さを捉えそこなうことになります。--------
百年前の左翼の思想の根拠は、民族の伝統も所詮資本主義、帝国主義に蹂躙されていくから、それに抵抗するために「階級」に立脚するという形です。
それに対抗するため「階級」に立脚するという形です。
それに対して、近代化で民族の暮らしがめちゃくちゃにされていくときに

「民族」に立脚するという形が右翼のわけです。】

−−−−−−★−−−−−−
欧州議会選 「急進右派政党」が躍進とか
ドイツ/フランス/オランダ/オーストリアなど
極右政党台頭
欧州左翼党も踏ん張っている
彼らから右翼 左翼のレッテルをはがしたとき
彼らは何者なのであろうか

『武道通信』 創刊時
「杉山さん 右翼だったんですか」
拙者 右翼のレッテルをはがしたとき
何者なのであろうか
2025/02/22(土) 晴れ


本日 武道通信かわら版 配信日


郷里の千本松原の入り口に 首塚がある
町内から小学生の足で十五、六分といったところか
歳上の子が歳下の子に 
首塚まで往復させた
その歳下の子は 後年 歳下の子に行かせた
要は 「度胸試し」という 
旧き良き 儀式だった
いまの世ならパワハラか

その昔し 甲斐武田軍と駿河北条軍の戦さ場であった
明治三十三年 暴風雨の翌朝
千本松原から五〇〇ほどの頭蓋骨が出てきた
地元民が それを弔った塚だ
大人も子らも「お首さん」と呼んでいた

今号 この「お首さん」のハナシからだ
2025/02/20(木) 晴れ


右翼は終わった


十四ノ巻
【前田日明編集長対談
 論客対談 論客・松本健一】

対談に入る前に 巻頭「論客談言」
【一人で居ても淋しくない男になれ            
――頭山満、北一輝から「右翼」のレッテルをはがしたとき】

松本健一  気になっていた評論家だった
いや 「評論家」というレッテルをはがしたとき
気に入る人だった
記憶は定かではないが
『右翼・ナショナリズム伝説』を讀んでからか

【松本氏 → 右翼は終わった。とわたしが最初に書いたのは、
一九八九年にベルリンの壁が壊され、共産主義がイデオロギー的に
敗退していった、そのずぐ後のことだった…………
右翼はナショナリズムを代弁することによって、
左翼の革命=共産主義に対抗してきた。
そうだとすると、左翼の対抗勢力としての右翼も終わったのである。
右翼が背負っていたナショナリズムは、
現在では、木島等(長崎市長)や石原慎太郎などの保守勢力によって
十分引き取られてしまっている。
だが、そうだとすると、これまで右翼の象徴的存在だった
頭山満というひとは、まったく過去の存在になり、旧い右翼の人々の
追憶の対象となるだけなのだろうか。また、その思想的意味など永遠に
なくなるのだろか。】

松本健一 頭山満から「右翼」のレッテルをはがしてみた
それで何が残るか と
すると 記憶の中から 頭山満の一言
「一人で居ても淋しくない男になれ」という言葉が
つよく浮かび上がってきた と云う

−−−−−−★−−−−−−t
前巻の論客 木村三浩氏が本にしたい原稿がある
タイトルが決まらない いいタイトルないかと 相談された
木村氏の心情 察して
「右翼は終わってない」といったもので良いのではと提案

『右翼はおわってねぇぞ! 新民族派宣言』(2001刊)
巻末に前巻の前田日明との論客対談を載せたいと由
了解した
2025/02/18(火) 晴れ


オモテとウラ


「試みる」 
すでに『日本書紀』に使われている古い和語(倭語)
『源氏物語』をはじめ 多くの古典に登場
「こころみる」は「心・見る」
単に目を向けるでなく 魅入られる
『万葉集』「見る」「眺める」とあれば
飽きずして しばし没頭するとの意味
日本文学史では これを「見れど飽かぬ」の法則

武芸においても「試み」は最も重要な作業
試みのない技など 技になるはずない
武芸者 人知れず新しい技を試みた

しかし なかなか一人では磨けない
近世では「村」そのものが道場化していた
鹿島 塚原ト伝を生んだ 鹿島とか
柳生は「試みの里」と呼ばれていた
柳生一族をはじめ 
宝蔵院流鑓術の祖 宝蔵院胤栄{ほうぞういんいんえい}
宮本武蔵と対決した鑓の高田又兵衛
あの荒木又右衛門 弓術日置流の祖 日置弾正次 
弓術の吉田印西{いんさい}
いずれも柳生の里で試みた

柳生石舟斎 禅や能や茶の湯の嗜みから
「間合い」を武芸に取り組み 武芸にオモテ ウラを与えた
その子 柳生宗矩 オモテとウラの表裏一体を試みた

宗矩と同時代の織部も また茶碗のオモテ ウラをつなげた人であった
「武」と「芸」の「試みの同時性」が浮かび上がる

「試み」 英語で云えばリハーサル シュミレーション
しかし 本当の「試み」は
自分でも意表をつくものでなければならない
七代目市川団十郎(寛政→安政) 云った
「稽古中に自らに驚けるかどうか」が役者の真骨頂だ
2025/02/16(日) 晴れ


知識でも 知性でもないもの


 
【武道の中の日本<十一> 松岡正剛
試みの哲学
━━「試みる」とは心に没頭すること。
そうすることで自分が予想もしない
実験効果が出てくることを念じたのであった。】
 
松岡氏
「試みる」 心に没頭した者 挙げた
美濃焼を興した古田織部
ぐにゃりと歪んだ茶碗は人びとを驚かせた
「へげもの」(剽軽者)と笑われたが
その意外な「試み」がその後の茶碗の歴史をつくる

もう一つ
「かぶく」 歌舞伎の語源になった
もともとは「傾く」と綴った
傾くほど大胆だということ
中世では「過差」とも云った
いわば「やりすぎ」との意味
そして結びに 柳生の劍法がでてくる
 
いまどきの吾ら
AIと どうに向き合うか
この「試みる」で向き合えるのではないか

脳と同じシステムのように思われるが 違うらしい 
 ぐにゃりと歪んだ茶碗や
「傾く」こともない
つまり 心に没頭することはない

知識の蓄積 物事を判断する能力だけではダメなのだ
「心」という いまだ解き明かされていないモノに
没頭していくことだ

次回 柳生流の「試し」
2025/02/14(金) 晴れ


 漢{おとこ}

 
直木賞受賞後 司馬遼太郎 健筆 冴える
忍者小説からはじまり 時代小説 戦国史小説と多彩に
やがて 重厚な歴史小説へ
と 小川和祐氏 語る
※戦国史小説とは歴史小説 そのジャンルの一つ
事実(史実)にフィクションを加味
 
小川和祐氏
アノ『竜馬がゆく』(1962)すっ飛ばして
『燃えよ剣』(1962)『新撰組血風録』(1964)
 劍が出てくるからだ
土方歳三 → 和泉守兼定 通称「ノサダ}
近藤勇 → 長曾祢虎徹
沖田総司 → 菊一文字則宗
 
【小川和祐 → 作家は「漢{おとこ}」という言葉が好きだった。
「漢」が「漢」であることは、平時より動乱の時代である。
半世紀余続いて戦後の平和の男が「漢」であることが希薄になったことは事実である。
卑怯、狡猾、陰険、巧言{こうげん}。司馬遼太郎の「漢」が嫌う男たちが
なんと多いことよ。】
 
小川和祐氏 さらに嘆く
山里介山/林不忘/吉川英治/山本周五郎/山岡荘八まで
武道にも刀劍にも暗かった 刀劍が重要な要素となることはなかった
司馬遼太郎
江戸幕府開闢から半世紀後 発刊された
銘/系譜/秘伝/刃文/茎など 慶長八年(1603年)までの
最古の刀劍書
刀劍書の読破は刀劍と人間の在り処を発見させたにちがいない
多くの批評家の文学論はこの一点完全に欠落している
批評家たちは武道と刀劍にあまりに無知であった と

−−−−−−★−−−−−−
司馬遼太郎 土方歳三実家で土方の遺刀 
和泉守兼定の抜身を片手にし 見上ている写真
『文芸春秋』に載っていた記憶
『燃えよ剣』発行元 文芸春秋社 “番宣”だったろう
『新撰組血風録』以後 刀の出番はなくなる
刀から遠ざかっていく

刀劍書や ガラスケースの中の白刃{はくじん}より
司馬にとって一番のリアリティは
本名・福田定一 陸軍少尉
腰に下げていたろう 軍刀ではなかろうか

談余:
拙者 シバリョウ一番のお気に入りは
十巻手にしている『街道をゆく』より
『空海の風景』
2025/02/12(水) 晴れ


『石見重太郎の系図』


『越後の刀』と同時期に発表された
『石見重太郎の系図』
大阪夏の陣で豊臣が滅亡してから約百年後
主人公 某道場主
ふとしたことから 大阪方武将の系図を手にする
その武将の祖先は石見重太郎

石見重太郎と云っても いまの若い衆は知るまい
父の仇討ちをせんため諸国を旅し その途中
妖怪の狒々{ひひ}を退治した
狒々退治 これは江戸の世の講談話

豊臣秀頼に仕えた豊臣家臣
戦いぶりも尾ひれがつく
<夏の陣の道明寺の戦い
渋皮色の鎧に星兜の緒を絞め 十文字の槍を取り
黒毛の馬に黒鞍を置き 紅の鞦を掛け
三尺三寸の太刀を帯び 軍勢の先頭をきって駆けつけた>

まあ ここで戦死するのだが
大阪方でも仇討ちをしたことでヒーローになる
庶民も仇討ちモノが好きだった

さて 『石見重太郎の系図』の主人公 
その系図を贋系図もつくる表具師へ持ち込む
主人公を石見重太郎の孫にする贋系図つくる
それにはわけがあった 

大阪夏の陣から凡そ三十年後 三代将軍家光の世 
諸大名と旗本以上諸士 凡そ一四〇〇家の系譜集
『寛永緒家系図伝』を編纂
以後 武士にとって系図は後生大事なものとなる

主人公 贋系図は手にいれたものの
系図のほかに もう一品 証拠として添えなければならなかった
もう一品とは 正宗の短刀
これも贋作を差し出した
で めでたしめでたし 石見重太郎の子孫と認められ
馬廻役二百国 堂々の上士となった

太平の世のの系譜 現代の学歴 学歴など贋系図と同じ
司馬遼太郎 学歴社会への痛烈な批判を込めたと
小川和祐氏

ここまでの『越後の刀』 『石見重太郎の系図』
刀に視点を置いているが 
江戸の世の刀劍感 そのままだと小川和祐氏
曲亭馬琴/柳亭種彦らの講談師 刀劍への知識はない
伝家の宝刀という庶民の共通の古い刀劍感

その 司馬遼太郎 直木賞受賞以後 変わっていく
つつきは次回に
2025/02/10(月) 晴れ


 『越後の刀』


司馬遼太郎 『越後の刀』 登場する名刀
竹俣兼光{たけのまたかねみつ}
 
南北朝の世の名工 備前長船{おさふね}景光{かげみつ}
楠木正成の佩刀「小竜兼光」(国宝)の刀工
明治天皇 サーベル拵えにした
 
景光の子が兼光{かねみつ}
上杉謙信が景虎と名乗っていたとき
足利将軍義光から国主の格を許された
竹俣三河守から献上された太刀
 
その太刀 竹俣兼光
川中島合戦 謙信を火縄銃で撃とうとした武田軍の兵を
馬上から火縄銃もろとも斬り下した
以来 「一両筒{いちりょうづづ」と名を改めた
上杉家武運を拓く宝刀となる
 
謙信没後 「一両筒」 養嗣子{ようしし} 上杉景勝に
秀吉 天下統一後 景勝 大阪城に参勤
その折 「一両筒」 研ぎに出す
その際 贋作にすり替えられる

秀吉の耳に 石田三成に命じる
「一両筒」 無事 影勝の元へ
しかし そこは秀吉 強引に召し上げてしまう
本阿弥光悦の「太閤名物」に入り 大阪城奥深く秘蔵される
 
しかし 大阪城落城 すべて焼失
家康 「太閤名物」を惜しみ 城内 くまなく捜させる
しかし 投身になった刀ばかり
 
そこは家康 落城の際 誰かが持ち出したのではないか
「たけのまた(竹俣兼光}」を持参した者には黄金三百金を与えると
 
司馬遼太郎の『越後の刀』
竹俣兼光を物語にした小説
世は 大坂の陣の後
主人公・栃尾源左衛門 元上杉家の藩士で牢人
京都の借家で妻と暮らす 京の町を歩き回っているだけ
生活の面倒は妻任せ
ある日 源左衛門が長い菰包みを抱えて帰宅
それは太刀 その太刀を源左衛門が観ているときに
妻は何人かの人影の幻影を見る
夫の着物には血が付いている
刀を持ちかえったいきさつは何もしゃべらない
 
『越後の刀』 お讀みなされ
2025/02/08(土) 晴れ


蒙古來{きたる}


【刀と日本人・続
司馬遼太郎と名刀説話(上)
小川和祐{かずすけ}】

「日本刀」 いまの世 普通名詞になった
この言葉の語源
十一世紀 支那 北宋の世
詩人欧陽脩{おうようしゅう}の『日本刀の歌』
奥州平泉に金色堂ができたころ
極一部のインテリしかしらなかった この言葉
復活させ 流行語大賞にした人
頼山陽{らいさんよう}

『日本樂府』 蒙古來{きたる}  頼山陽                   
筑海の 颶氣  天に連なりて Kく
海を蔽ひて 來る者は 何{いか}なる賊ぞ
蒙古 來る 北 自{よ}り 來たる
東西 次第に  呑食を 期す
嚇し得たり趙家の  老寡婦を
此れを持し 來りて擬す 男兒の國に
相模太カ  膽 甕の如く
防海の將士 人 各ゝ 力{つと}む
蒙古 來る  吾は 怖れず
吾は怖る  關東の 令 山の如きを。
直{ただ}に 前{すす}み 賊を斫{き}り  
顧{かへりみ}るを許さず,
吾が檣を倒し  虜艦に登り
虜將を擒{とら}へて  吾が軍 喊{さけ}ぶ
恨む可{べ}し  東風 一驅して大濤に附し
羶血{せんけつ}をして 盡{ことごと}く 
日本刀に 膏{こう}せしめざるを

羶血とは「なまぐさい血」
膏{こう}せしめざるを とは 刃に人体の油をべっとりつける
日本刀で数多の蒙古兵をたたっ斬る ということ

詩吟  聴きなされ
https://www.youtube.com/watch?v=3GnWuPWQ0Ec

−−−−−−★−−−−−−
支那発のAIモデル「DeepSeek」
本当に コス 米國産の十分の一だそうだ
が 「天安門事件」
即座に回答拒否

AI戦争來{きたる}
日本刀で支那「DeepSeek」をぶった斬れ!
2025/02/06(木) 晴れ


明日は武道通信かわら版 配信日

 
風呂に浸かりながら 考えた
支那発のAIモデル「DeepSeek」
本当に 低コストで開発したのか
本当に 米國を凌駕できるのか

それはそれ として
AI戦争 加速させることはまちがいない
日ノ本 在日さんが 頑張ってくれてるようだ
 
風呂に浸かると 本当に生き返るのか
宇宙人のように
それはそれ として
羊水に中に浸っていると 
胎児だった幻想を持てる
地球人は 
2025/02/04(火) 晴れ


お別れ会


10月14日
空は 大空のサムライを心から迎えるように碧く澄んでいた
今年一番の日本晴れであろう
地下鉄乃木坂駅出口の「不撓不屈」のサインを目印に
Web編集員 六人 顔を会わせる
(松下大圭/神埼無限/佐々木建/鈴木健二郎/対馬憲泰/小松直行)

「あっ このサインだ」と云い 通り過ぎて行く若いグループ
武道通信ホームページを読んでいたのだろう
訃報を知らせたそのときから 丸一日で一千のアクセス

記帳を済ませたとき 前田日明も到着した
二人で控え室に向かった 途中 準備が整った式場を覗いた
祭壇に大きな坂井さんの遺影が飾られていたのが目につき中に入った
遺骨と戦闘帽 その前に置かれていた
突然 頭上でクック クックと何かが鳴いた
見上げると前田 ハンカチで目を押さえ嗚咽していた
目を逸らし 泣き止むのを待つ
終わらない 嗚咽 ますます大きくなる

祭壇の前で打ち合わせしていた道子さん こちらを振り向く
目で 前田日明です と
前田 アメリカで長く暮らしている道子さんとは面識はない
道子さん 前田のことは坂井から よく聞いている
14日 会うのを愉しみしている 先日 語っていた

道子さん 前田の傍に来る 前田の嗚咽 止まらない
道子さん 前田の背に手を回し
「さあ 思い切り泣いてください」
祭壇の遺影の前 連れていく
前田が泣いたの見たの 拙者 初めてであった

弔辞 小室直樹氏/山中志郎氏 続いて前田日明
『大空のサムライ』との出会い 坂井さんに初めて会った想い出
男の気概 誇り 教えてもらったことなど話す
最後に 昨夜 坂井さん 夢に出てきたこと

壇上の前田の背 見つめながら 会場に入る前
「軍歌って さみしいんですね」と云った前田の言葉 思い出す
会場には『海み行かば』『同期の桜』など流れていた
「そうだね」と答えたとき
坂井さんと生前 最後にあった日の言葉がが蘇った

地上で死水{しにみず}を幾度もとったが 死んでいくとき 
誰も「天皇陛下万歳」など云わない
死んでいくときは 「おふくろさん おかあさん」 
必ずそう云う 
散りながら肉体が砕けて魂が還っていくところはどこか
それは母親の魂なんだ 
そこに私は 本当の人間の姿をみ見た

式も終わりになったとき ご遺族が挨拶に立った
「父は生前 死んだら葬式も戒名もいらない
ただの坂井三郎で戦友のいるところへ送ってれ
そう申しておりました」

−−−−−−★−−−−−−
白洲次郎 遺言 たった二行
「葬式無用 戒名不用」

近年 “凡人”も「読経なし 戒名なし」
魂が還っていくところ 
“高額”な仏門墓石の下だけでないと
感じはじめているらしい
2025/02/02(日) 降ったりやんだり


市井{しせい}の人


某読者氏からラバウルの写真 二点 メールにて送られてきた
一、海底から熱湯が吹き出していて 浜辺が天然温泉になっていました
戦時中の日本兵は「ラバウル温泉」と呼んだそうです 近くに富士山を小さくしたような山があります
二、防空壕の内部です。天井に地図が描かれていました。
そうか 坂井さんら温泉に入っていたんだ
「生き返った……」などと つぶやいていたか

さて 坂井三郎追悼 つづき

密葬義から二週間ほどたった10月29日
Web編集員の松下大圭さんと坂井さん宅へ伺った
坂井さんの追悼記事の下準備であった
「お別れ会」を控え取り組み中と思い 長居はすまいと思いながらも
坂井家一同と会し 話は尽きなかった

遺骨が安置された祭壇の前に 
坂井さんがガタルカナル上空で九死に一生を得たときの戦闘帽が置かれていた
敵機の戦闘機を爆撃機と見間違えゴーグルを額の上に上げた
そのとき12.7ミリ記銃弾がゴーグルの縁に当たり逸れた
もしゴーグルを外さなかったら弾丸が確実に頭蓋骨を砕いていたろう

有史以前から人類に戦争は絶えることない
勝利を掴む気力 技 戦術を持ち得たとしても運がばければ生き延びてこれなかった いまある我らは皆 それら人たちの末裔である
坂井さんのご遺族も 吾もまた

坂井さんから聞く戦闘 戦争を言葉の上で理解できたとしても
敗戦後育ちの吾らには その体感はない
いま そういう者たちの「戦争論」が満ちている
それはそれで しないよりましだが 得てして正義 不正義の観念論に陥る
吾もまた同じである
そんな吾らが戦争を考える基軸となる存在が坂井三郎であった

「戦争と戦闘は違うんです」「軍閥と軍人は違うんです」「外国と戦うときは内戦思想ではだめなんです」
坂井さんの声が いまでも耳の奥にある

「父は一言で云えば律儀な人でした 自分がこうと決めたことは日々 欠かすことなく続けました」
道子さんが云う
「父は部下が寝るまで起きていて 朝一番に起きていたとみなさんから聞きました」
「母の寝ている姿みたことない と父は云っていました。部下を自分の子と想い 母親を見習ったのでしょうか」

坂井さんは市井の名もない 勤勉な人をよくたとえ話に出す
そういう人がこの世を支えている
坂井さん そう云いたいのだ
そういう人達が自分の國の国難に対し 国家の命として 
それぞれの役割で戦争を戦った
自分もその一人に過ぎなかった
パイロットの道を選んだのは自分である 死は覚悟の上
体当たりを命じられても「命日がちじまっただけ」と思う
だが敗れた
敗軍の軍人 勲章をもらえる義理はないが
「吾ら軍人は軍閥とは違う 天皇陛下から ごくろうさんの一言があってもいいだろう」
坂井さん 云う
かつて市井の人の道徳は天に恥じない人の道であった
天皇責任はイデオロギーではなく 
天から見た人の道に照らしたものだ
天皇も天から与えられた御霊である
そう考えたのではないか

その言葉 「撃墜王・坂井三郎」が云うのでない
市井の人 「三郎」言葉だった
それがこの日 ご家族からの話を聞き 理解できた

−−−−−−★−−−−−−
亡父の出征の折の 杉山家総出の写真
それぞれが それぞれの役割で戦争を戦っていた
2025/01/31(金) 晴れ


密葬義


9月29日 池袋 仙行沙羅ホールにて
親族と生前ごく親しかった方々による密葬義
遺言どおり無宗教葬
前日の通夜でお別れできなかったことから 無遠慮にも参列
喪主の暖子夫人の挨拶の後 参列者による菊の花の献花
順に遺影に向かってお別れした

拙者 遺影に向かってお別れ
胸中でこうつぶやいた
「坂井さん 最後にお会いした折 武道通信にはいくらでも協力しますよと
云ってくださったときの笑顔が忘れられません
あの笑顔には前田日明 杉山らが坂井さんの志を引き継いでいってくれるだろうというメッセージが込められているように思うようになりました
それにしてもまだ早すぎました」
 
休憩の後 棺が運ばれ 祭壇に飾られていた生花を参加者が
次々に棺の中の坂井さんを埋めつくすように捧げた
ご遺族が何度も何度も坂井さんの顔を見入り ハンカチで目を拭う
アメリカ在住のお孫さんの青年と少女 「不撓不屈」サイン色紙を手に
目から涙をあふれさせていた
 
棺を囲んでいた戦友たちから歌声があがった
「ラバウル航空隊」であった
戦友のお一人が歌い終わった後
坂井さんとはよく南十字星を見上げながら歌ったもんですよ と語った
棺は閉ざされ 日章旗が棺を包んだ
棺は車に移され 親族の皆様と火葬場へ向かった
 
沙羅ホールを出たばかりのとき 携帯電話が鳴った
前田日明からだった
明日 アメリカへ行くのに ある許可書の申請を忘れていたことに気づき
どうしても今日の密葬義に行かれなくなったというものだった
密葬儀の際 携帯電話の電源は切っていらから何度もかけたのだろう
前田 昨夜の通夜 深夜 棺の前に2時間いたという
ご遺族の話

 −−−−−−★−−−−−−
ラバウル航空隊
ニューブリテン島(現在のパブアニューギニア)のラバウル基地に結集し 
この空域に展開して戦闘に参加した海軍/陸軍の各航空部隊の総称

「ラバウル航空隊」歌ってみなされ
https://qr.paps.jp/RpDps
2025/01/29(水) 晴れ


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Colorful Diary Falcon World