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本日は 武道通信かわら版 配信日


自民/維新 連立政権合意
初の女性首相 誕生
さりとて 富士の高さは変らない
駿河湾の深さも変らない

そうは云っても 物価の高さは変るかも
対支那 変ること間違いない

永田町トラスト 
地殻活発になることも間違いない
2025/10/20(月) 雨


辞世の句 遺書


『57年前の19年10月25日7時25分、マバラカット飛行場から神風特別攻撃隊の関行男指揮官以下、谷暢夫、中野磐雄、永峰肇、大黒茂男、山下憲行搭乗の計6機の零戦が胴体に250キロの爆弾を抱え飛び立った。
 10時40分、レイテ湾付近タクロバン沖にクリフト・A・Fスプラーグ隊の空母四隻、巡洋・駆逐艦六隻を発見した。海面上を低空飛行し、レイダーをかいくぐり近くまで迫り、敵に発見されたときにすぐに急角度で上昇、高度3千メートル上空から五機は各自目標を選び、いっせいに母艦に突入した。四隻の空母を撃沈、撃破。
 出撃前の特攻隊たちが整列し、別れの水杯を酌み交わしているとき、何人かの整備員が「海ゆかば」を歌いはじめると整備員全員で唱和した。つづいて「予科練の歌」が歌われた。整備員が歌い終わると同時に、目に涙を浮かべた玉井副官は「出発!」と下令した。』(『神風特攻の記録』より)

※山下憲行機 エンジン不調でレガスピに引き返す
 ゆえに敷島隊五名と流布

−−−−−−★−−−−−−
関行男大尉 享年23
父上様、母上様。
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。 武人の本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、 その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。 皆様御体大切に。

満里子殿
何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対しては誠にすまぬと思って居る
何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分できている事と思ふ 
御両親様に孝養を専一と心掛け生活をしていく様
色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ  

教え子へ
「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」

谷暢夫 一飛曹 享年20
「身は軽く つとめは重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当り」
「身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七たび生れ撃ちてしやまん」

中野磐雄 一飛曹 享年21
お父さん、お母さん。私は天皇陛下の子として、お父さん、お母さんの子として、立派に死んでいきます。喜んでいってまいります。では、お身体を大切にお暮し下さい。さようなら

長峰肇飛行兵長 享年19
「南溟に たとへこの身が果つるとも いくとせ後の春を想へば」

大黒繁男 上飛 享年19
遺書 辞世の句 見つからず
靖国神社にある大黒の遺影
最後の出撃直前にもかかわらず 笑顔を残している
「特攻隊で戦死した兄(大黒)の面影」藤田 弘子          
NHK 「零戦〜搭乗員たちが見つめた太平洋戦争〜」 
※大黒繁男 「太平洋戦争」なんて名称知らない 
大東亜戦争を戦った
何が慰霊だ

2025/10/19(日) 晴れ


昭和19年10月25日7時25分


【マラバカット神風特攻慰霊祭
我らに託された歴史の事実
杉山頴男
昭和19年10月25日7時25分、神風特別攻撃隊は飛び立った
そ57年後のそのとき マバラカット飛行場に「海ゆかば」が流れた】

前文
マラバカット神風特攻慰霊祭に発つカバンの中に一冊の本を入れた。
『神風特攻の記録』(金子敏夫・著/光人社 )
同書の装丁者である神埼夢現さんから刊行の今年四月にいただいた。
連合軍の資料に基づき、
戦果の虚実を明らかにしている。敷島隊は五名でなく六名であったこと、
構成された当時は「しんぷう」と呼ばれたいたことも同書で知った。】

*猪口力平が「神風」の由来は郷里の道場「神風(しんぷう)流」
から名付け 大西に提案し認められた 
それが大本営の電文で「カミカゼ」とされ 「カミカゼ」が伝聞

杉山 → 神風平和記念公園入り口 大きな鳥居の前 
100名ほどの地元小学生 フィリピン国旗と日の丸 振って
日本から来た戦没者の遺族を支えた206名の参列者を迎え入れてくれた

両国旗を振る子供たちは先生から神風攻撃隊をどう聞いているのだろう
その無邪気な笑顔を見ながらシャッターを切った
取材に来ていた「SAPIO」の編集者 女性教師の談話を記事にしていた
(帰国後 讀む)
「この子たちは 神風攻撃隊は難しいので
日本の英雄 世界性和を祈る儀式と教えています」

この女性の先輩にあたるのだろう 
昭和49年 マバラカット出身の教師
ダニエル・ディソン氏が中心になって旧飛行場に「神風」を建てた
「特攻という事実」 かつての占領民の心を動かした

ディソン氏 現在 フィリピンん・カミカゼ記念協会会長であり
自宅に「カミカゼ・ミュージアム」をつくり 開放している
神風特攻機 初出陣のとき14歳
野球をなど教えてくれた彼ら ある日 突然 いなくなった
特攻 軍の秘密だった
大学卒業後 偶然 神風攻撃隊 英語翻訳版 手に
マバラカットの写真がり驚いてページをめくり
彼らが帰らぬ人をなった運命を知り そして泣いた

慰霊祭 はじまった数十分後の7時25分
フィリピン海軍吹奏楽隊
「海ゆかば」演奏 はじまった

−−−−−−★−−−−−−
大きな石 米軍軍艦にみたて
小石 投げつけていた 11、12歳の自分
想い出しながら 旧マバラカット飛行場に立っていた
2025/10/17(金) 晴れ


寺がなくなる


拙者の健康寿命 男子平均健康寿命を超すことだろう
そういっても いつかは逝く
そのとき 菩提寺 まだ残っているだろか
杉山家先祖代々の墓に入れるだろうか
そんな 疑念を抱かせたのは
『宗教問題』の小川寛大さんの新刊書を手にしたからだ

『誰が「お寺を」をころすのか
 ――貧困化する寺院と
   多様化する葬儀ビジネスの裏側』
小川寛大 (宝島新書)定価1100円

帯にこんな文言が
「葬儀のお布施 平均42万5000円
でも8割のお坊さんは“食えてない?!”

檀家数 200〜300あれば <お寺>だけで食っていける
が 現在 檀家数200軒未満 7割超
寺の収入だけで生活できる僧侶は2割程度
寺業界の中で
「あと数十年もすれば 大半のお寺が消えてなくなる」
小川さん 取材の中で聞いていたのだろう

「お墓参り」 できなくなる
“先祖供養のロンド――もう二度と会えない、あなたに”
このヤバイ将来 政治家たち 
総理指名 スッタモンダしている暇があるなら考えろよ

−−−−−−★−−−−−−
杉山家の墓 メインストリート それも中央
菩提寺の住職の家の墓の前
檀家として別格だったのだろう

杉山家墓石 左右 二つある
右 曾祖父と奥さんの名 と 高祖父の名 
曾祖父 高祖父は「上座」奥さんは「大姉」
上に 三つ柏の家紋
祖父が建てたのだろう
左  三つの名  (戒名)信士 (戒名)信士 (戒名)信女
たぶん初代の御仁らだろう 
江戸の世の墓石 ボロボロになり 父が作り変えたのだろう

菩提寺の墓石の数  百ちよっと といった感じ
“食えてない?!”
2025/10/15(水) 雨


体育の日


「スポーツの日」 なんて知らね〜な
「体育の日」なら知っている
1964年 東京オリンピック 開催日 記念して

高校三年だった
先生 「帰ってオリンピック 観ろ」
半ドンになり 家に帰ってテレビつける
三宅(義信)がバーベル上げていた
日本 初の金メダル

記憶の引き出しにある ワン・シーン
開会式 開催宣言 昭和天皇 
敗戦後少年 初めて天皇の声を聴く

それから 
最終聖火ランナー 階段駆け上っていくシーン
アナウンスの記憶 
「原爆投下日に広島で生まれた…………」

記憶の引き出しにある ワン・シーン ほかに
マラソン アベベ 優勝
はだしのアベベ カッコ良かった 円谷幸吉 銅メダル
女子バレーボール ソ連を破り優勝
柔道無差別級 アントン・ヘーシンクに神永敗れる

大阪・関西万博 本日 打ち止め
亡父の遺品 もう一点
日本万国博覧会記念メダル
EXPO’70  三枚セット
買取専門店 120,000円

売ろうかな? 売るの やめようかな?

−−−−−−★−−−−−−
父 逝き 空き家になった実家
何年後し 尋ね 父の引き出し空ける
新聞の切り抜き 「らしさ」とのタイトル
沼津朝日(アノ朝日新聞とは無縁) 投稿欄
高校二、三年に投降したものだった
いま流行{はやり}の「ジェンダー」を先取りしていた(笑)
2025/10/13(月) 晴れ


その瞬間


徳田 → これも私のオリジナルの座右の銘
「過去はすべて正しかった」
自分の過去は自分なりに そのとき そのとき
必死で考え判断してきたんですよ
だから 「過去はすべて正しかった」
過ちは明日でも修正できます
だから明日を見て 目の前の困難を乗り切り
いかに自分の人生をまっとうにしていくかです

前田 → そうですね。元気になりました。
今日は精神医科のカウンセラーに会いに来たようです(笑)

参議院選 出ないか と声をかけられ
徳田代表に会いにいった 徳洲会理事室であったろうか
「お断りします」と返事するために

その折 徳田代表 ノートをめくり
これ 私の座右の銘です
「過去はすべて正しかった」

過去はすべて正しかった――にするために 
<いま>がある <いま>が勝負!
これは 禅だ 
鎌倉武士が“すがった”禅だ 
「お受けします」と返事した

−−−−−−★−−−−−−
禅 過去→未来 という時間の流れに
通過点 <現在><今日>
武士の<いま>は
<現在><今日>ではない
その<瞬間>

熊谷直実{くまがい なおざね}
一ノ谷 海辺で
平敦盛の首 討ち取ろうか 止めようか 迷った
その<瞬間>
2025/10/11(土) 雨


楽市楽座


 「海ゆかば」の項のあとの 
中見出しを追ってみよう

◆強き者が弱き者を追い込む
アフガンの悲劇

 徳田 → 私の論法でいえば
(徳田氏 「僕」と「私」 両方使う “生”の声を活かした)
格闘王の前田さんが小学生を思いっきり殴ったとしますね
前田さんは 相手が先に殴ったからだと弁明する
でも相手は小学生 先に手を出した人が悪いのではない
強い者が弱い者を殴るのが悪い
 べトナムがアメリカに勝ったのは
共産主義が勝ったのではなく 民族のプライドが勝たせた
アフガニスタンがソ連との戦いでも 民族のプライドが勝たせた
 
◆弱き者を殺す国家テロ
指導者のモラル

 前田 → 徳田代表のメジャー(ものさし)というのを聞いて
自分の引退試合を思い出しました
レスリング(グレコローマン)オリンピック3連覇
アレキサンダー・カレリンを選んだのは
「史上最強のレスラー」をメジャー(ものさし}にして
いままで歩んできた格闘技人生での前田日明という自分を
計ってみたかったから
試合が終わって自分の全体像が見えました
自分を律するために また自分と社会との関係を律するため
何某のメジャーを持つべき
 
◆今も昔も織田信長の楽市楽座
減税で景気回復

 徳田 → 経済を立て直すのは今も昔も世界共通
織田信長の楽市楽座
ノーベル経済学賞サミュエルソンも 私と同じく
非富裕者の所得税 物品税(消費税)を下げるべきだと
今年のノーベル経済学賞の人も同じことをいっている
政治家や官僚でなく
国民に使い方を決めさせることが 減税の意味
規制も撤廃すればいい
古今東西 楽市楽座は共通の景気対策 経済再建の手段

−−−−−−★−−−−−−
楽市 → 市場や商売の自由化との概念
楽座 → 鎌倉/室町の世につくられた公家や寺社の保護を受け 
営業を独占する権利 商工業者の同業者団体「座」
これを廃止し 自由に商売できるよう許可

楽市楽座 織田信長の専売特許のように云われるが 違う
今川家/六角家/後北条家
信長より早くやっていた
信長 商取引の妨げとなってい関所の廃止を徹底的にやったから目立った

楽市楽座 要は減税
2025/10/09(木) 薄曇り


信時 潔{のぶとき きよし}


徳田 → あれは美しい曲([海ゆかば)ですね
でも 感情に流れると 死そのものの意味が見えなくなる
逃げたくともに逃げれず 恐怖心と闘い 家族のため 祖国のため
命をかけた若者たちがいたという事実がある
それがいまの政治家 官僚が一番欠けているところです
私利私欲にとらわれ構造改革から逃げている
僕はノートに
「勝負は恐怖心によって決まり 恐怖心が勝負を決める」
と書いてある
特攻隊員の気持を理解し 常に恐怖心をもって物事に挑んでいくことが大切
この国の改革は並大抵のことでは実現できませんから

−−−−−−★−−−−−−
携帯電話をもった頃 
着信音 一般の曲にすることにできると聞き
携帯電話屋に飛び込んで 
「海ゆかば」できるかと
店員の若者 「海ゆかば?」 知らなかった
が 検索するとあった 無料だという で 頼む 
(大雑把な いい時代であった)

町田の籏谷嘉辰さんを尋ね 話し込でいるとき
拙者の携帯 着信音 鳴った
籏谷さん 早速 御自分の着信音 「海ゆかば」にした

「海ゆかば」 作曲 信時 潔{のぶとき きよし}
戦時中ラジオ放送 大本営発表の冒頭に流された
神宮外延競技場(現在の新国立競技) 出陣学徒壮行会
東條英機首相 訓辞 東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞
「海行かば」の斉唱
満員の観客も唱和

「第二の国歌として愛唱された」との つまらぬ解説がある
通奏低音に「鎮魂」が響いていたから 
あの当時
戦死した兵士を鎮魂する意味で
非戦闘員の国民 歌ったのだ

補填:戦時中 国分寺市在沖だった信時 潔 
敗戦後 国分寺駅発車メロディ 信時の曲「電車ごっこ」
西国分寺駅の発車メロディ 信時の曲「一番星みつけた」
「海行かば」を選ぼうとしたが 当然 反対された
戦死者への鎮魂は消えていた

蛇足:江橋慎四郎の息子 ベースボール・マガジン社 出版局へ入社してきた
よく 飲みに連れていった
2025/10/07(火) 曇り


本日は 武道通信かわら版 配信日


ニュースは 高石早苗 一色の感
これを<ときの人> というのだろう

関行男も あの当時 <ときの人>
関行男の母も 「軍国の母」と <ときの人>
敗戦後「軍国の母」 国賊!と石を投げつけられた

特攻作戦を命じた大本営の一人 源田実らの発願により
1975年  故郷西条市の楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立
毎年 関が敵空母に突入した10月25日午前10時
海上自衛隊徳島航空基地又は小松島航空基地の航空機5機編隊
慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている
2025/10/05(日) 曇り


マバラカット慰霊祭


前田 →  徳田代表 慰霊祭に参加するきっかけは?

徳田 →  慰霊碑 10年前 ピナツボ火山噴火 埋もれる
碑の再建しようとの運動 リーダーシップとる人 いない
それで徳洲会の私のところに
徳洲会 フィリピン各地を回り 協力してきた
空軍病院に透析機械など送っていた そこで私に話が来た
以前 空軍病院に逝った折 三つ口の赤ちゃん
車の中から見た 通り過ぎようかと思ったが ひっかかるものあって
引き返した 日本へ連れて帰って手術
その子 慰霊際に来てました
空軍吹奏隊も来てくれます

僕はね 前田さん
この慰霊碑は関行男 神風敷島隊の慰霊祭という名であるけえども
僕の気持ちとしては あのフィリピン戦で亡くなった52万人の日本人と
そして111万人のフィリピンの人たちと 1万人の米兵の合同慰霊祭であると思っている
僕は自分しかできないことは何だと考えると
「関行男メモリアルホスピタル」をつくることだと
それは関行男を英雄視するのでなく
この慰霊碑で結ばれた日本とフィリピンの友好の絆であるマバラカットの人々への恩返しになるからです
僕は僕の分をする 他の人は他の人の分をやってくれ
これが僕の信条なんです

編集部(杉山) →  代表一つお聞きしたいことがあるので
口を挟ませていただきたい
慰霊祭会場で聞きそびれたことですが
私は写真を撮っておりまして
「海ゆかば」唱和の折 代表は歌詞に目を通しておりましたが
口に出して歌っていなかった

そのわけは 次回につづく
2025/10/04(土) 晴れ


国宝


前田 → 特攻は確かに残酷なものであったが
吉田松陰の「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
であったと思うんです

徳田 → そうだったんでしょうね
昭和19年10月25日 マバラカット基地から飛び立った
敷島隊が最初 レィテ湾の米艦隊への攻撃のため
レィテの戦いで日本の敗北は決定的になることを軍司令部は知っていた
特攻作戦の立案者 大西滝次郎中将 
米国にできるだけの損害を与え 負け戦でも講和の条件を少しでも良くして
終戦を迎えようと考えたんだと思います。
本土決戦となったら大きな損害を被ると思わせたかった

前田 → 特攻隊指揮官 角田{つのだ}和男 『零戦 最後の証言U』
大西中将が他言無用と言ってから 腹心の小田原俊彦大佐に語った
敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる
特攻はフィリピンを最後の戦場にし
天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ
講和を結ぶための最後の手段である

徳田 → やはり そうなんですね。
やむにやまれぬ戦法だったんですね
でも実行する隊員は死ぬとわかっている
死んだら敗けであるのに なぜという無念さがあったでしょう
大西中将も特攻は外道だといってますね

※ 大西の発言 正しくは「統率の外道」
統率{とうそつ}→ 集団をまとめ、全体を指導して率いていくこと
リーダーを意味する
「彼らを生かすも死なすも統率者の責任である」との意味から
大西は 自分の命を犠牲にして国を守るという特攻隊員の献身と
特攻隊員の行為に責任を持たない指導者の在り方を「外道」と表現した

前田 →  関大尉 自分は体当たりしなくても
急降下し 敵空母の飛行甲板に爆弾を落とし 
すぐ急上昇できる技術を持っているといっていたそうです

徳田 → そう だったんでしょうね
昭和19年10月25日 マバラカット基地から飛び立った
敷島隊が最初 レィテ湾の米艦隊への攻撃のため
レィテの戦いで日本の敗北は決定的になることを軍司令部は知っていた
特攻作戦の立案者 大西滝次郎中将 
米国にできるだけの損害を与え 負け戦でも講和の条件を少しでも良くして
終戦を迎えようと考えたんだと思います。
本土決戦となったら大きな損害を被ると思わせたかった

前田 → 特攻隊指揮官 角田{つのだ}和男 『零戦 最後の証言U』
大西中将が他言無用と言ってから 腹心の小田原俊彦大佐に語った
敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる
特攻はフィリピンを最後の戦場にし
天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ
講和を結ぶための最後の手段である

前田 →  関大尉 自分は体当たりしなくても
急降下し 敵空母の飛行甲板に爆弾を落とし 
すぐ急上昇できる技術を持っているといっていたそうです

徳田 → できたでしょうね でも終戦講和の作戦として
どうしても一発必中でなくてはならなかった
命令する人 命令を実行する人
そしてディソンさんのように敵国の人でも
国のために命を捨てていった人たちを尊敬し
自分たちもそうしたいと思う人々がいたわけです
ディソンさんは子供の頃 よく遊んでくれたり お菓子をくれたりした
礼儀正しい若い日本の兵隊たちが
いつの間にか何もいわずにいなくなっていったのを不思議に思ったらしい
大人になり読んだ本で あの日本の兵隊さんたちが特攻隊の人たちではないかと思い その後 特攻のことを詳しく調べていくようになり
尊敬できる行為は行為として慰霊碑を建てたのです

−−−−−−★−−−−−−
大西瀧治郎 辞世
「これでよし 百万年の仮寝かな」
万感の思いが込められた句だ

特攻攻撃の発案者は大西瀧治郎ではない 
南西方面艦隊司令部付の一中将 なんの命令権も決定権もない
発案は 陸海軍の最高統帥機関 大本営 
軍令部の源田実参謀の起案になる電文
「神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ士気昂揚竝(ならび)ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処 各隊攻撃実施ノ都度 純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度……」
日付 昭和19年10月13日
マバラカット基地から飛び立ったのは12日後の10月25日

この電報起案
大西中将が東京を離れた数日後に、すでにして書かれている。
しかも 神風攻撃隊の名も決められている
0月20日に特攻作戦が正式発令となり
大西が名付けたという本居宣長の「敷島の大和心を人問はば……」の歌に発する敷島隊 大和隊 朝日隊山桜隊の攻撃隊名も この電報の中にある

遺書は二通
一通は長野に疎開中であった淑恵夫人に宛てたもの
もう1通
大西に見送られて十死零生の作戦に散った全特攻隊員に宛てたもの
「諸子は国の宝なり」…闘将が遺書に記した冷静な祈り
「特攻隊の英霊に曰(もう)す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ/肉弾として散華(さんげ)せり
 然れ共其の信念は/遂に達成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊と其の遺族に謝せんとす
 次に一般青壮年に告ぐ/我が死にして軽挙は/利敵行為なるを思ひ/聖旨に副(そ)ひ奉り/自重忍苦するの誡(いましめ)とも/ならば幸なり/隠忍するとも日本人たるの/矜持(きょうじ)を失ふ勿れ/諸子は国の宝なり/平時に処し猶ほ克(よ)く/特攻精神を堅持し/日本民族の福祉と/世界人類の和平の為/最善を尽せよ」
2025/10/02(木) 晴れ


マバラカット慰霊祭


前田 → 18,19年前  TVドキュメンタリー番組で
パオラ諸島ベリリュウ島
塹壕や地下壕 遺骨ゴロゴロ
厚生省 回収したと聞いていたが驚く

米軍に通信機を破壊される
選ばれた80名  パオラ本島に向かって島伝いに泳いでいく
着いたのは一人 後は皆 鮫に食われた
特攻隊だけではなく そこまでして戦った人達の遺骨
いまだ回収されす野ざらし

*ペリリューの戦い 
昭和19年 9月15日から11月28日にかけ
ペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた
米軍 当初の計画では島を4日で攻略する予定であったが 
最終的に2ヵ月半を要することとなり
米軍の作戦計画を大きく狂わせるた
要塞化した洞窟陣地などを利用した日本軍の組織的なゲリラ戦法は
米軍を苦しめ 後の硫黄島の戦いへと引き継がれていく

徳田 →  神風特攻隊が初めて飛び立った飛行場
ルソン島マバラカット飛行場跡でのマバラカット慰霊祭 
日本政府が建てるべきものを フィリピン中学校先生
ダニエル・ディソンさんが中心になって反日感情がまだ強い昭和49年
反対する人達を説得して建てた
除幕式には多くのフィリピンの人達が集まった
日本からの参加者は一人もいなかった

*ダニエル・ディソン
神風特別攻撃隊員からマスコットとして可愛がられた
当時14歳のダニエル
長じて第一航空艦隊猪口力平参謀と第二〇一航空隊中島正飛行長共著の
「神風特別攻撃隊」(英訳文)を読む
往時の優しかった隊員が別人の様に厳しい顔付きをして
凛々しく出撃しえ征ったことを思い出し
同志を慕って一九七四年(昭和四十九年)
マバラカット飛行場跡に顕彰碑 を建立

−−−−−−★−−−−−−
フィリピンの映画館
神風特攻機 米空母に激突
館内観客 一斉に歓喜の雄叫び
国際線パイロットであった鎖帷子剣士から聞いた話

反日感情とは何であったか?
2025/09/30(火) 晴れ


特攻隊員


【論客 徳田虎雄
弱きを助け、悪しきを挫く
――前田さん、僕はね、このメジャー(ものさし)で
政治改革、アフガンもすべて計る】
 
前田 → 15,6年前 『徳洲会の挑戦』 読んで徳田を初めて知る
初めて会ったのは 杉山の参議院選挙決起集会
自分もいろいろな政党から立候補の話
杉山の応援演説をとおし他の政党を比べ
自由連合のユニークさと同時に 徳田代表への興味を持つ
杉山がフィリピンへ神風特攻隊慰霊祭ツアーに参加すると聞く
そのツアーの牽引役 徳田と聞き
「ますます「わからん人だな」(笑)
かねてから論客として対決してみたいと
 
徳田 → 格闘技のこと詳しくない 前田の輝かしい戦歴しらない
格闘技音痴だが 武道精神には一言 持っているつもり(笑)
 
前田 → そんな気がします
*徳洲会理事室に入ると 東郷平八郎「皇国の興廃 この一戦にあり」
の大きな額 その脇に「小医は病を癒し 中医は人を癒し 大医は国を癒す
徳田虎雄」の書かれていた小さな額
前田 それを見ていた
 
前田 → 先の大戦の本 よく読みます
森史郎『敷島隊の五人』 も読む
改めて特攻隊員の心情を思うにつけ
日本の戦後の彼らに対する処遇を思うとやるせない
特攻作戦の是非は今でも問われていて
非の一つとして片道燃料で飛んでいったといわれるが
片道燃料だったのは戦艦大和だけ
沖縄の海岸に浅瀬にの乗り上げて米軍を迎え討つ作戦上の片道燃料
 
徳田 → 前田さん いまお幾つですか
前田さんの世代で無念の思い出で死んでいった多くの戦没者のことを
考えてくれる人がいることはうれしいですね
 
前田 この年 42歳であった
拙者 55歳であった
敗戦後少年二期生
多くの戦没者のこと考えるには幼すぎたが
敗けた悔しさはあった
小石を特攻機に見立て 大きな石を米軍艦に見立て
投げ続けた
特攻隊員になりたかった
 
−−−−−−★−−−−−−
『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯』
昭和十九年秋 五人の特攻隊員たちが比島マバラカット基地を飛び立った
彼らは三度引き返し 四度目にレイテ島沖でその若い命を閉じた
隊長の関行男は二十三歳  残る四人の隊員たちは二十歳前後の若者であった米空母に体当り突入を敢行し みずからの肉体を四散させた五人の若者たちは最後の出撃にいたるまでの残された時間の中で何を思い いかに生きようとしたのか 五年の歳月を費やし、新事実を駆使して描かれた
2025/09/28(日) 晴れ


ものさし


自民党総裁選 10月4日投開票
 
【米国のテロ報道を見るにつけ、政治もマスメディアもムードで流れるものだと実感させられた。それは時代の空気とでも言っていい。その時代、その時代の空気を人々は気づかず吸い込み、そして、その空気に流されていく。バブル経済に浮かれたこともそうであり、大東亜共栄圏への傾斜もそうであった。
自由連合が政治政党として党議拘束をしないのは、このムード、空気に流されない各自の判断を重んじたいからだ。国会での投票も各議員の判断で賛成、反対を決めればよい。一色に染まったムード、空気に一石を投じる自由を失いたくないと考えるだけだ。
アメリカ会議でテロ報復の決議に一人反対した議員がいた。皆が言う「正義」に、彼女は一人だけ異議を唱えた。それは、この正義が果たして正義だろうかと、アメリア国民に考えるチャンスを与えたと言える。】
 
武道通信 十七ノ巻
論客談言 <論客>徳田虎雄
「正義」を計るものさし(メジャー)
――自由連合の党議拘束とは、この「ものさし」
 
次回 論客対談 徳田虎雄
 
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物としての「ものさし」以外 
物事を判断する際の基準を表す 「尺度」「規準」「指標」
自民党総裁選 五人の「ものさし」 
尺度」/規準/指標 異なるようだ
2025/09/26(金) 晴れ


「象徴の武士道」


武道に秘められた花 
そのつど 時と所と象徴を得て うつろった
武と花の象徴が 日本刀に求められるようになったのも
そういう うつろいのひとつである

そこには時代変化のなかで 二度にわたる“事件”が関与したと
松岡氏は考える
刀狩り
一度目 戦国の世の末
集団としての武道は解体し 一人ずつの剣法者が自身を鍛える道 拓かれる
その自身の内なる武道を鍛えるため 朱子学 陽明学が発達した
二度目 明治
武門の廃止とともに 刀剣所持が許可制になっていった
もはや刀は武器でなく 刀は武器の「魂」にならざるを得えなくなっていった
日本刀は象徴化されていった
「象徴の武道」というべきである

このように「武の花」が象徴的に転移していったということは
別の言い方をするなら
一本の日本刀にすべてを託せる
「沈黙の力」とでいうものが限りないほどの内部の力を持たねばならぬ
その日本刀は もはや人を殺傷するものではないからだ
またそれは 一本の刀に 日本における武道に変遷のすべてを
万感をもって去来させる「おもい」を対応させることでもあった

世阿弥は「秘すれば花」と言った
現代の武道は 何も語らないかに見える
一本の日本刀に 万事を読み取る力と ともに
(武道を)蘇生させるしかなくなっているかもしれない
しかし そのことは「秘すれば花」であっても
「言わぬが花」でいいはずはない

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毎朝の儀式
野袴に筒袖のなりたちになったとき
腰に脇差(小刀)を差す
拙者なりの
「秘すれば花」
2025/09/24(水) 晴れ


「皇国武士道」


ときは明治に
幕末に並びたった武士道と士道に
日本的キリスト教から新たな視点を見出す
新渡戸稲造/内村鑑三
その視点には もはや葉隠/陽明学の区別 なかった
江戸期の武道精神はまとめて日本人の道徳 美学
そのものと見なされた
そしてそれ以降 これら多様な武道のすべてをひっくるめて
「武士道」と呼ばれるようになる

田村直臣/松村介石/内村鑑三と共にキリスト教界の四村と呼ばれた
植村正久
「我輩が欲するところの者は洗礼を受けたる武士道である」
「洗礼武士道」である

この考え 明治のグローバリズムのなかで 
右も左も 軍人も政治家も商人も社会主義者も受け入れた
なうなると 右も左も その勝利に結びつく精神
ずべて武士道という風潮となる

東京大学 日本人初の哲学の教授井上哲次郎
明治三八年『武士道叢書』
<日清日露の戦果は「壮烈なる武士道精神」>

それだけではなかった 大東亜戦争前夜
武士道は皇国思想とも直結されていく
陽明学者 大橋健二
「皇国武士道」と名づけた

このような傾向に警告を鳴らす者もいた
和辻哲郎 『日本論理思想史』
武士道における忠君思想を天皇への忠誠にすりかえた

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兵頭さん 初めて拙宅を訪ねてきたとき 開口一番 
「天皇教武士道」と吐いた
「武道通信」は天皇教武士道になるな 
と云いたかったのあろうか
「皇国武士道」より名づけて 妙である
2025/09/22(月) 晴れ


明日 武道通信かわら版 配信日


「忙中閑あり」  戦国の世の<女>たちを綴ってきた
父の死 夫の死で 当主(大名)となった女たち
従来の戦国の世の<女性の悲劇>史観に 
NO! と一矢報いたかった

『使ってみたい武士の作法』  上梓したあと
並木書房の奈須田さんと談笑していた折
「武士の妻が夫の後ろ 三歩下がって歩くわけ」を話した
奈須田さん 感嘆
「これいきましょう」で できたのが
『真似てみたい武士の妻の作法』

その翌年 柏書房さんから
『武女 乱世を生きた夫婦の絆』 上梓

夫が合戦へ 勝つか負けるか わからない
負けた場合 妻は
家臣の妻子 使用人らを逃げさせる手はずをとる
武士の夫婦は 実の戦友

江戸の世となり 合戦はなくなくなったが 私怨は残る
突如 夫が斬りかかられたとき 
妻は手に持った風呂敷包みを相手に投げかけ 
夫が鯉口を切り 抜刀する一瞬{とき}をつくる
2025/09/19(金) 曇り


「陽明学的武士道」


時代と社会の変質によって
窮地に追い込まれてきた武士道であるが 
その窮地をもってこそ武道は蘇生する
その方向 いくつかに分かれる
一つは 前述した『葉隠』
戦場の気風を感情的に教えようとした点 以外に
『葉隠』の本音 主君への忠誠

『葉隠』より 凡そ十年後 
大道寺友山 『武道初心集』
主君への忠誠を核に「死ぬ」を前提とした武士道
あえて自分をさらなる窮地に追い込んで心身を鍛えた

もう一つは 「儒学的武士道」
二つの系統に大別される
山鹿素行/室鳩巣{むろ きゅうそう}の流れをもった
「朱子学的武士道」

もう一つに
中江藤樹/熊沢番山にはじまり 
横井小楠{しょうなん}/佐久間象山/勝海舟/吉田松陰
/坂本竜馬/山田方谷{ほうこく}/河井継之助に継承された
「陽明学的武士道」

江戸後期に向かって
「朱子学的武士道」 衰退
「葉隠的武士道」と「陽明学的武士道」とに大きく分立していった

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朱子学 → 「理気二元論」「性即理(せいそくり)」
この世界のすべてのものは 「理(り)」と「気(き)」 の二つで成り立っている
人間の本質(性) 本来 正しい道(理)に従うものである

陽明学 → 「知行合一」 「致良知{ちりょうち}」
知識と行動は切り離せない
人間の先天的道徳的知覚力・判断力を発揮せよ

世相も時代と社会の変質によって変化する
とくに 外部(黒船)からの影響は大きい
「朱子学的武士道」 時流に乗れなかった
2025/09/17(水) 晴れ


「懸命武道」から「衆の武道」 そして……


平安後期 摂関政治の解体と荘園の自立化 武門が誕生
一族郎党の御恩奉公/一所懸命の生き方 拡張 誇張されていった
男の良き生き方 問われはじめる
それとともに 所領や戦場が結びつけられ
土地に生死を懸ける存在のあり方に転移していった

このころから武門の棟梁たち
浄土の教え 禅林の感覚 武具甲冑の美にも近づいていく
これらは総じて 「懸命の武道」

戦国期 武道は「國」「家」ごとに多様化した
そこに國自慢/家自慢があった
それでそこには武田家『甲陽軍艦』を読めばわかるように
荒ぶる武士のための道徳を前提にした戦場武道あるいは集団武道としての
共通性があった
これを松岡氏 「懸命の武道」につづき
「衆の武道」と名付けている

ところが それが信長・秀吉の天下一統で大きく変質させらる
戦場も集団も 天下人の支配システムのシナリオの一部となる
さもなくば徹底的に追撃される
*「シナリオの一部」とは云いえて妙
 朝倉義景 浅井長政 武田信玄 上杉謙信 松永久秀 毛利輝元
 小田原城の後北条氏 九州の島津 奥羽の九戸
 「シナリオの一部」になることを拒否した

戦国の「國」「家」を背景とした一族郎党社会は
あっというまに麻を引き裂くように散り散りにされた
それが信長/秀吉/家康が天下を治めた意味である

そうなると 武道はもはや各地の戦国大名のためのものでなくなっていく
刀をもって生きることを 組織でなく 一人一人が確立するしかなくなった
ト伝/武蔵/宗矩らはそうした時期に登場してきた
「個性の武道」を引っさげてきた武人だった
彼らは腕試しの機会も少なく むしろ「身」と「心」をつなげることに向かう


しかし さらにその後
元和偃武を境に 戦乱と戦場がすっかり姿を消してしまう
仇討ちや闇討ちを別とすれば 
たとえ一人一人が命を賭して武道をまっとうする覚悟になったとしても
その心と技を発揮する場すらなくなっていった
集団/個としての闘いは幕府によって完全にもぎ取られてしまった
これが江戸時代の武士道の出発点となる

そこでやむなく「剣法を伝える」ことが重視され
武道の大半は道場で経験するプログラムやエクササイズになっていった
それを葦津珍彦{あしづうづひこ}は かつて
「教室武士道」と呼んだことがあった

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葦津珍彦 出てきた
どこかにあったな 探す 出てきた
『武士道 ― 戦闘者の精神』(神社新報社:平成十四年刊)

一点 付箋が貼ってあるページ めくる
「『葉隠』は、主として戦場の気風を感情的に教えようとした点に
異色ある<教室武士道>といえるだろう」
2025/09/15(月) 薄曇り


一本の日本刀


きのう ゲリラ豪雨
モノ凄かった
土砂降りの雨/集中豪雨 なんてもんじゃなかった
ゲリラにも ゲリラの正義がある
不平等な名称だが 
人間社会にモノ申す 作為がある気がする

だが 雨上がりの空気の匂い 清々しい
大気も邪心/邪念 消し飛ばられたやも知れぬ
これ 石器人も 感じたのではないか
時代が変わっても 変わらないものある
時代とともに 変わるものもある
たとえば 武士道

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【武道の中の日本<十三>
秘すれば花
武道は時代とともに変化した。もののふの道から皇国武士道へ
現代の武道は、一本の日本刀を読み取る力から蘇生させよ
             松岡正剛 】
 
 武道は時代とともに変化
「懸命」から「戦場」
もともと武道の源流
「もののふの道」「ますらおの心」に兆{きざ}したはず
男児の生き方というより 男児のあらわれ方を差していた
丈夫あるいは大丈夫と云った
注:「丈夫」 本来は「ますらお」と讀む
「大丈夫」の意味 「立派な男子」

それは必ずしも兵馬を操ることではなく
魂の漲{みなぎ}る高揚や充実を意味していた

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松岡氏 刀の数え方「振」 知らないわけはない
なぜ 「一振」でなく「一本」なのか
日本刀に疎い現代人に あえて「一本」使ったのか
2025/09/13(土) 薄曇り


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