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切腹


兵頭二十八 切腹に一言
【福田→兵頭二十八氏が言うには、切腹というものはものすごく合理的だったと言うんです。日本的な不立文字の論理の中だと。西洋的にこれが悪いと責任体系というものは貫徹できない。で結局、切腹という制度があって、何か不祥事がありました。じゃあ上役はパッと腹を切ますと。でもそれは、切腹ということでとりあえずそこで決着が着く。
 切腹というのは常になにかあったら、お家断絶、お家断絶はしなくても切腹というのが、かなり厳密な規範としてあるから、それが結局、規範になっていく。ところが近代以降、切腹ができなくなったんで、切腹の代わりになるような合理的な責任規範もないから、日本の組織が愚かなことになっちゃったというのが兵頭さんの説なんです。】

裏金づくりの責任追及ということをしていくと
「私は知らなかった」が通用する

戦国の世 籠城戦 もうこれまでというとき
「私が悪かった」 で 城主 切腹
で 家臣は放免というシキタリ
部下を守るのが主の美徳

籠城戦 戦闘部隊の家老のミスで敗れたとしても
城主 あれは家老が戦闘を強硬したからだ
ワシは責任 無いなどいわない

むかし 西洋 某国 敗戦
その皇帝 あれは部下がやったこと ワシは責任 無い
ダグラス・マッカーサー
昭和天皇 同じこと云うと思っていたら
「すべて私の責任」

切腹
儀式として制度化される前 
西洋の合理でなく
<理にかなった>心の作法としてあった
そのエートス/メンタリティー/アイデンティティ
生に未練を残さない 
残すと結果 敗ける 
戦国の世の武士の戦場での合理があった
それを いまに伝えるのが
『葉隠』の「武士道といふは 死ぬことと見付けたり」
定朝の父/祖父の言葉だ  
2024/02/13(火) 晴れ


不立文字{ふりゅうもんじ}


七ノ巻から兵頭二十八 登場する
【中学生にわかる「兵法」
其ノ一 「多対一」で勝つ
「兵法」の基本は「多対一」で必勝するパターンをまず学ぶこと。
中国人はそれを知ることで「少対多」で人を支配できたのだ】

奇しくも 論客対談で兵頭二十八 登場していた
【福田→僕がいろいろ教わってもらっている兵頭二十八氏という軍事評論家がいるんだけど、彼なんかやはり不立文字は駄目だというんです。不立文字でやっているうちは結局アメリカ的なバネスティクスの、完全にマニュアル化されていて誰か一人死んでも他の奴をパッと入れれば軍隊、組織的に全部動いていくというシステム、それでなければ絶対的に勝てないと。】

不立文字 この節に前に出てくる
『近代の超越』 小林秀雄/林房雄/中村光夫
どうすれば西洋に勝てるか
林房雄 ふたりに異論
やはり不立文字
個人の名誉 武士道みたいなものがあってはじめて戦える
西洋のものを入れてしまってそれだけで闘えるものではない

【福田→兵頭さんなんかそういう風におっしゃていて。それはたぶん合理的には正しいですよ。でもやっぱり日本人が不立文字をなくしちゃったら、じゃあ、ほんとうに闘えるの?っていうものがあると思うんですね。
 それは福田恆存先生が司馬遼太郎の『坂の上の雲』を批判した「乃木将軍と日露戦争」という有名な論文があるんです。その中で要するに司馬さんが乃木は馬鹿だ愚将だと攻撃するわけじゃないですか。でも司馬さん旅順に行ってらっしゃらないですね。福田恆存先生は戦前、旅順に行って、その旅順の要塞を見て来られた。
 僕もこの間、行って来たんですけど、もう洒落にはならないですよ。ロシア人は要塞を造らせると世界一というけど、この部屋(リングス事務所)の高さ位の厚さのコンクリートがガッン、ガッンと並んでいて、二百三高地というと、こういう勾配ですよ(と、手のひらほぼ50度傾斜にして示す)。
 ここを攻撃するのに合理性とかでなくて、そこにあるのは日本人の“近代西洋の壁”ですよね。それに渾身の力で闘っていかなければならなかった日本人の苦しさと、その意気というものがはやり大事なんで、それを合理性だけで叩いてしまっては、日本の近代が日本人にとってどういう時代だったか、近代に対してどういう風に対したかということが分からないではないか、という批判をしたんです。そこが難しいところですね。…………
 いやあ、とにかく普通に歩くのだってしんどいような勾配ですよ。この上から機関銃を撃たれながら登っていったのかと思うと、日本の兵隊さんっていうのは、すごかったんだという気になりますよね。】

次頁にまた兵頭二十八 登場
切腹というもの すごく合理的だった という話
これは 次に

−−−−−−★−−−−−−
『明治天皇と日露大戦争』 
昭和三十二年 封切り
拙者 小学六年生
祖母 映画館へ連れていってくれた
日本兵 かく闘った と男子の孫にみせたかったのだろう
2024/02/11(日) 晴れ


公と私は 天があっての公と私


【福田→やはり西南戦争を西郷と共に戦ったという気はするんですけどね。】
次ページに出てきた

【福田→松蔭の場合、いろいろな論議があると思うんだけど、たぶん松蔭が考えていた維新というには、具体的な近代国家とは全然違う意味だったと思ったんです。だから攘夷が来るということと藩自体が腐っていくという状況をまのあたりにしたときに、天にかなう行動とは何かということが一番最初の問いとしてあったと思うし、その確信があったから、ああいうことができたと思うんですよ。戦略論とか政策論とか以前の、もう身体一体の感覚として。で、その確信を説いたから若い人達にあれだけ強い影響力があったんで、やはり天というものの感覚は一番、大事だったかなと、この頃思うようになってきたんだけど。】

この節の前に ≪天≫を語っている
【福田→ここ二、三年、論語をちょこちょこ読んできて、公と私の話で僕が一番思ったのは、公私というものの他に大事な大きなもとして天というものがあるですよね。……天とは要するにユダヤ教みたいな絶対神ではなく、また森羅万象とか大宇宙というものでもない。でも東洋的な感覚からするときわめて大きなものとして天という一番大きなものがあって、それが我々の精神の広がりと呼応するように存在している。そう考えると、要するに天にかなえば心の不安はなくなるし、天に適うというのが正しい道だよというのがあって、で、公と私は天があっての公と私なんですよ。】

松陰の「近代国家」とは どんなイメージだったのだろう
建国の大儀 西洋に対して東洋の天の王道を貫くべきであったのに
西欧の帝国主義の模倣でしかなかったことへの憤りではなかったか
2024/02/09(金) 晴れ


<不平士族>


積もった雪 スケートしにいった箱根で はじめて見た 
中学の学友と雪合戦
十八歳 東京に出てきた年 はじめて雪 降るのを見た
二十三歳ごろ
東京 大雪降り 三十センチも積もった

武州多摩で二年ぶりに 雪 降るの見る
雪がふるふる雪見てをれば  ←傘貼り浪人
(山頭火 作 盗作)

−−−−−−★−−−−−−
七ノ巻 論客 福田和也
【松陰の行動原理は 天にかなう行動とは 何か? 】
編集部口上
吉田松陰の情熱の源から始まり、国学、英霊の遺骨収集、乃木将軍と二百三高地、皇室観、そして終着は現代若者論。話題は多岐に及んだが論客の博識が凝縮された各論に二時間半の対談は一刻であったような時空を味わった。

【福田→やはり西南戦争を西郷と共に戦ったという気はするんですけどね。】
最初の一頁目に出てきた
吉田松陰 寛政六年(1859) 没
西南戦争 十八年後
松陰 生きていたら 西南戦争に参戦していた 

当時 この一言 気にかけなかった のだろうか
なぜ 松陰 西郷と共に “不平士族”の“乱”に参戦したのか
もっと 「気がする」部分を 問うておきたかった 悔やまれる

明治七年(1874)佐賀の乱
二年後 神風連の乱(熊本)
同年 秋月の乱(山口)
して 翌年 西南戦争

<不平士族>の乱 その因
秩禄処分/廃刀令/征韓論
学校で教わった

<不平士族> コレ 勝者が歴史をつくる

<不平士族> との矮小化
勝者がつくった言葉
明治政府の要職 江藤新平/前原一誠
不平分子に担がれたとのハナシ
勝者がつくった歴史

讀み進めめれば
松陰 西南戦争
西郷と共に戦ったという気はする
そのわけ 福田氏 語っているやもしれぬ
2024/02/07(水) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


春先の木々への積雪
木々の“害虫”の卵を殺す
いいことだ
いまは亡き ご近所のご老人にお聞きしたいことがあった

天気予報 「湿雪」
積るだろうか
2024/02/05(月) 雷


香が移り沁むように


♪鬼はソト 福はウチ
最後にやったのは いつだったか
翌朝 豆が床に落ちていた記憶

旧暦では 大晦日
邪気を払う行事
そう 歳の数だけ食べるんだった
Chinanoの古い鬼追いの行事「追儺{ついな}」
日ノ本に伝わり 
♪鬼はソト 福はウチの豆まきのアレンジされた

■――――――――――――
「在日」は日本人の問題
薫習が生む独自性

 電話での長い会話は往々にして話の岐路が幾多にも分かれます。2時間近い小林氏との電話での会話も要約するのも至難な技であり、そして3時間ほど前の会話ですら文章にするとなると、自分が主張したことと、相手の話で特に印象に残ったことしかできないものです。しかし、肉声は身体から発せられます。語尾の余韻に、一時の沈黙に、驚きの声に、その人の長年蓄積された内的なものが感じられます。
 
 小林氏が現在、本来の仕事以外に「つくる会」のこと、著作権侵害訴訟での一審敗訴による控訴等の多忙の中にいることが、その肉声で十分伺い知れます。その最中、我々の“試し合い”を受けていただいたことへの、まず感謝の意を伝えました。
 そしてファックスには書かなかった、前田日明の肉声を伝えました。「日本人・前田日明という言葉は失礼だと思います」
 小林氏は驚きの声を挙げました。それは誤解であり、前田への率直な賞賛であったと。その内容をここで私が記憶を頼りに述べても、小林氏の真意を説明できるとは限らず、新たな誤解を生むことにもなりかねません。小林氏には別の機会に、ご自分で誤解を解いていただいた方が良いかと思い省きます。それゆえ小林氏の話されたことは省き、私が小林氏に伝えた内容のあらますを述べますが、下記のように流暢に話させたかどうかわかりませんし、言葉不足だったところは補足させていただきます。
「日本人・前田日明」に関して、「在日」の問題は、在日韓国、中国人、また他国の「在日」二世、三世の問題でなく、日本人のすべての問題であることの認識の希薄さから出た言葉ではないのか。
 日本の精神史を考えると中国、朝鮮の文化に影響されたことは明白である。「影響」には基本適に三つある。一つは朱に染まれば赤くなるという影響。二つ目はある意思を人が人に与える、刻印するというもの。中国、朝鮮が自分たちの文化を意図的に与えようとしたが、日本はそれを拒んだ、というような。
三つ目は前田が言う共感です。文化が薫習{くんじゅう}するんです。尊敬して受け入れること。当時の日本は中国、朝鮮を大変、尊敬していました。香りが染み込むように交流し、同じ香りが移っていく、そういう影響です。それゆえ、そこからオリジナルなものが生まれるのであって、「徹底して応用利用した」というような、はじめからこれはいらない、これは必要という選別してきたのではない、と。
 教育とは元来、そうであったのではないでしょうか。高杉晋作ら松下村塾の弟子たちは吉田松陰の薫習を受けたのです。
 そして最後に、この論争を言った、言わないの泥仕合的なものにぜす、将来、有意義なものであったと思えるものにするために、今回はお互い、主張するべきところは主張し、読者の意見にも耳を傾けることにしましょうと確認し合い、お互いに受話器を置いたのでした。
 我々は、当初より小林氏から大変良い刺激を受けています。氏が「つくる会」
に対し「私」として抱いている志に関して敬意を払っています。また西尾氏の諸説からも学ぶべきものは多々ありあす。小林氏のように多くの方々の胸を借り、今後も勉強していこうと思っています。
2024/02/03(土) 晴れ


包丁の謂れ 包という所に丁という料理の達人


カレンダーの月が変わった
(太陽暦)太陽の運行のズレと
(太陰暦)月の運行のズレ
補正する月 閏年 
一日 多い

小林/時浦⇔杉山/前田のズレのつづき
補正することできるか

−−−−−−★−−−−−−
 この拙文をここまで書き終わった16日の午後5時頃、小林氏から電話をいただいた。それは、ある程度予期していた電話でした。
 開口一番、「先の会見で前田さんが、「小林さん、それは枝葉の事ですよ」の一点張りだったんで、もう一度、話し合っても無駄だと思い、原稿で答えることにした。自分で原稿を書くゆとりは到底なく、スタッフの時浦に自分の考えを述べ、まとめてもらった。あれは、わしの原稿だと思ってもらって結構です」というものでした。
             ※
 よしりん企画から原稿が届いた翌日の9月15日、後楽園ホールでリングスの試合があり、前田日明と二人で小林氏、時浦氏のへの対応を話し合いました。西尾氏との対談、小林氏と(よしりん企画)事務所での会見、そして小林―前田会見の三つの場に、常に同席していたのは私、杉山一人であり、その場にいた人間の声で伝えることが一番と、私が『返答』に答えることにしました。
 その折、前田日明は『返答』の項目への異論として自分の意見も入れて置いてくれと、手短に語ってくれました。
 社会道徳の基本は隣(の人)に関心を持つことで、そこから己と他人との関係を計っていくことであり、それは千年経っても変わるものではなく、「時代によって次々に変更される」というものでもない。『返答』の「儒教は秀でた聖人君子が寓者を治めるというのが理想」という認識は一面しか見ておらず、本質的なものではない。また、「一芸に秀でる」者を尊敬するのは日本独自のものとあるが、「史記列伝」に包という所に丁という料理の達人がおり、その神業を人々は褒め讃えたという話しがある。このような話しをあげたらきりがない。これらは何千年前の中国の話。「一芸に秀でる」者を尊敬するのは日本の独自のものとは言えない。そして「将来、アメリカへ行くことを考えている」との発言は、自分の好きな日本が、どんどん壊れていく、いたたまれない気持を言ったんだ、ということでした。
 そして開場の時間となり腰を上げかけたときです、「この『返答』、本当に小林さん、掲載されていいと思っているんですかね。本人、本当に読んでいるのかな。前田がそう言ったと、小林さんに伝えてくれませんか」と。そんなことはあり得えるはずがないのですが、とにかく前田の意を汲み、翌朝、よしりん企画に、この前田の伝言をファックスしました。電話は、その件でした。

■――――――――――――
「在日」は日本人の問題
薫習が生む独自性
次に 最終編

−−−−−−★−−−−−−
ファックス あったな その昔
卓上電話 家と事務所の二台 破棄する際
NTTの人 もう一台 ありませんか と
その 番号 云う
記憶にございません と
NTTの人 ファックスではないでしょうか?
そうだ ファックスだ 
ファックス あったな その昔
2024/02/01(木) 晴れ


独自性を生かすこと 排外に非ず


■――――――――――――
「私」の心意気で開く歴史、民族関係

 確かに一冊も読んでなく、また海外の権威ある説も知らぬ日本人でありますが、日本が中国、朝鮮文明とは「似て非なるもの」とも「日本はアジアの一員でなく」とも思っていません。
 前田が西尾氏との対談で、問題提起したのは「徹底的に応用利用しているんであって、ちゃんと学んでいないといえば学んでない」というところに「日本文化の独自性を強調する西尾氏の歴史観にある種の危険性を感じた」からで、
西尾氏の独自性の強調は結果的に、その独自性ゆえ「国を守る」意識だけが強く感じられ、日本の若者たちが将来に向け持たなければならない、「攻めていく国」に必要な民族間の共感、交流を切ってしまう排外主義の危険性を前田は直感したのです。
 西尾氏の国を思う気持、憂国の情はよくわかります。我々とて同じですから、その気持の表現として、日本は昔からオリジナリティがあったんだ、他の国に学んで(影響されて)国造りをしたんではないんだ、と言われるのはわかるのですが、日本のこれから育っていく若者たちに、伝えたいという前田の気持ちに答えてくれてないのです。ここを直接、西尾氏に聞いてみたかったのです。
 先の小林氏との私的な会見で前田が「自分の子供が読むかもしれない教科書ですから」と言い、在日の存在と、その心情を語ったことで、小林氏は前田の言わんとする「民族の共感」を理解してくれたのではないでしょうか。
 しかし小林氏、時浦氏の組織は負けるわけにはいかないのでしょう。明確な目標があり、実現させるべき課題があり、そこへ向け一歩、一歩、実績を積み上げていかなくてはならないのですから。失うべきものがあってはならないのです。
 だからこそ失うものがない「私」の心意気によってこそ開かれる歴史や民族関係といったものがあると思います。自分の独自性を生かすことで、少しでも相手を排外することにならず、かえって相手固有の独自性を刺激し、それを解き放たせる、そのようなオリジナリティの表出というものが、人間には可能だと、前田日明と『武道通信』は信じているのです。この技に関しては、組織は5苦手で、個は得意なのです。ゆえに「オリジナリティと排外主義は表裏一体」には異議申し立てをいたします。
 なぜなら、独自であるということが、一人一人が排外的と感じ、敵愾心を煽るだけで終わってしまいます。それゆえの戦争でしたら、体を張って反対します。小林氏も再三、戦争は国家政策の延長での策だといわれています。そのとおりです。それゆえ私も戦争肯定論者です。
            ※      
この拙文をここまで書き終わった16日の午後5時頃、小林氏から電話をいただいた。それは、ある程度予期していた電話でした。

つづきは次回に 

−−−−−−★−−−−−−
そう 小林氏からかかってきた電話
杉山頴男事務所の電話  今月末日をもって遮断
メールの御時勢 かかってくるのは
選挙やらアンケートやらセールスやら

HPトップの 杉山頴男事務所 電話番号 削除するの
サーバーに入ってトップページ探したが みつからない
や〜めた そのまま 悪しからず
2024/01/30(火) 晴れ


試し合い


青天 雲一片もない
空気は乾燥 風も適度に
洗濯日和だ
道着 野袴 筒袖上着 洗濯

−−−−−−★−−−−−−

【薫習{くんじゅう}が育{はぐくむ}独自性がある
『くる会」がめざすこと』への返答
杉山頴男(『武道通信』発行人】

■――――――――――――
組織防衛理論優先への寂寥感
 一読、見事な批判文ながら、人の魂を縛りつける、硬直した意図が感じられ、
寂寥感を禁じ得ませんでした。小林よりのり氏と筆者・時浦兼氏は、やはり「私」よりも「公」を優先させる立場に立つのだと、痛感させられた文章だからです。
 友情の上になおかつ批判が成り立つと信じての、小林氏と前田日明との《私的》な会見でした。前田日明は私に、こう言いました。「小林さん、この『返答』、本当に掲載されていいと思っているんですかね。本人、読んでいるのかな。この前(『返答』文中、二回目は前田氏本人も加わりの項)、今まで誰にも話したことがなかったこと(在日の心情)を胸襟して、まごころで話したつもりなのに、それに対して返ってきたものが、これではがっかりですよ。あの時、小林さんは何度も頷いてくれた。その感想が聞けるかと思ったのに。ましてや、この問題提起に、これまで何の関わりもない人間に代弁させたりして、がっかりですよ」
 私と同じ寂寥感を前田日明も感じたのでしょう。その起因は、この批判文が小林、時浦両氏が「新しい歴史教科書をつくる会(以下略称・「つくる会」という組織運動の一環を担う立場において、「つくる会」という組織防衛の論理を極力優先させたものであり、そのスタンスに清明心を感じられなかったからです。
 このような態度に徹するのは、組織運動の一翼を担おうと決意した人間として当然のことでしょう。その意味では組織特有の緻密な批判方式、たとえば、
一、どこまで事前に意識していたか、勉強していたかでもって優位に立とうとする姿勢。
二、相手の論理の矛盾を探り、その論理が自壊するまで、そこを徹底的に突く批判方法。
三、最後に、結局のところ賛成か反対か、敵か味方かを迫る、二者択一な追求。
 以上をすべて、組織防衛の理論として理解できます。この三点は右であれ左であれ、組織に特有な防衛本能です。ですから、このような主知主義的な態度をとるのです。組織にどう関わるつもりなのか、という一点を、組織運動体は突いてくるわけです。
 『返答』文中、現状のサヨク教科書〜/新しい教科書をつくる〜/自分で新しい〜と、言うように。
 そして「つくる会」の独自性「オリジナリティ)を強調するためには、文中にあったとおり、戦略的に「排外主義的な」態度をとろとします。ですから前田日明、「武道通信」が「つくる会」に問題提起(異議申し立てでなく)をした場合、排外的に批判するわけです。
 でも前田日明と『武道通信』は、「つくる会」と同じ志を感ずるところがあって、自分たちの志の“技術”がどれほどのものか、会長である西尾幹二氏にお話をお聞きしたいと、胸襟を開いて前田日明の言うところの試合、すなわち
“試し合い”を挑んだわけです。
 前田日明が「人類最強」と形容されるアレキサンダー・カレリンに試し合いを挑んだのです。オリンピック三連覇という世界の権威「カレリン」を定規として、一匹狼の自分自身の実力を計ってみる試し合いでした。
 一匹狼には、元来、たくさんの弱点があります。たとえば組織的に情報を集めて、理論武装したりする余裕はないし、事前に意識できないこともたくさんあります。それは、その場に身をさらしてはじめて湧く直感を信頼して率直に胸を開けば、必ず相手が用意周到な理論武装をして、しかも主知主義を戦略として来られた場合、盲点を突かれます。間違いなく、一本取られます。

■――――――――――――
「私」の心意気で開く歴史、民族関係

この項 次回で
2024/01/27(土) 晴れ


日本人・前田日明氏への返答


七ノ巻
【「つくる会」がめざすこと
 日本人・前田日明氏への返答
監修/小林よしのり 筆/時浦兼(よしりん企画)】
――― 本誌前巻「つくる会」への歴史観を問う―
日本、日本人とは何か?」への反論掲載

【本一冊くらい 読んでください】
古代、中国文化圏から日本が独立して独自の文化圏を持っていた過程
『新・ゴー宣』69章 『古代史―国のはじめ・天皇のはじめ』
に書かれれてる
あなた方は 読んでないのかと
まずは左ジャブ 攻撃

【儒教が根付かなくて 本当によかった!】
白川静/加地伸行/ひろさちや/陳舜臣
誰ひとり 「日本に儒教が根付いた」など云っていない
『醜い韓国人―われわれは「日帝支配」を叫びすぎる』の
朴 泰赫{パク・テヒョク}も
(儒教)黒から白まで色合いに分けたとすれば
中国と韓国は全くの黒 日本は限りなく白い近い薄い灰色
次は左ストレート

【オリジナルとは排外主義だ】
≪帝国書院 中学歴史教科書P15
「儒教は中国だけでなく、漢字が使われた東アジアに広まりました。
朝鮮、日本、ベトナムなどです。これらの国々でも、儒教は政治や生活に大きな影響をあたえました。」
これなら現在の歴史教科書を守れと、主張なさったほうがいのでは?≫

づづけて
「武道」を掲げ 「武道精神ヲ以テ今日ノ日本を生キル」……
「日本」「日本」を連発する雑誌なのに
日本文明の独自性を主張したら途端に「排外主義」
だったら「日本」という語はすべて「アジア」に書き替えるべき
次は左フックのボディーブローだ

オリジナルとは排外主義だ こう書いてある
「リングス」のオリジナリティを主張するには
「新日本」でも「全日本」でも「パンクラス」でもなければ
K−1でもないと強調
これは排外主義
他団体と「共感」しますなどと云わないでしょう
「排外主義」との非難 オリジナリティを認めないと主張すると同じ

「他民族への共感」 他でもない
人間の自然性にまったく根ざさない薄っぺらな人権派的理念にだけ支えられた
左翼なのだ
アジアで戦争したからとの左翼の自虐史観
続けざまに 左ストレート連発

【学説にこだわって何が悪い】
前田が再三「学問と教育は違う」から「学説云々なんか」にこだわるなと
発言している
一口に学説と云ってもピンからキリ
が 教科書をつくる以上 学説の優劣にこだわるのは当然
トンデモ歴史観への傾向と対策
文明史家・偽史研究家 原田実氏を講師として招いてる
「正論」で書いている(平成十年五月号)
勉強する気があるなら読んでください
<本一冊くらい 読んでください>と
右フック

【歴史は道徳の道具じゃない】
前田 「歴史教科書は道徳教育につながる」何度も主張
対談で「どういう人間を育てたいのかという理念が根底にな いといけない」
西尾氏が反論 「歴史は道徳教育の場にならないし またそれをすると間違いが起こる」
相当 不満のようであったが
戦前の「皇国史観」に前田 批判的であったが
昭和十六年 「初等科国史」で尽忠報国{じんちゅうほうこく}の理念
歴史教科書が道徳教育につながったではないか
最後は KO狙った左アッパー

KOした選手を慰めるように
【前田さは 日本人ではないのですか?】
≪日本独自の価値観があればこそ、新日本からUWF、そしてリングスへの深化もあり得たのです。ここまで日本独自の恩恵を受てけヒーローになった前田日明氏は、誰よりも日本人であることの誇りを誇っていいはずだと私は思います。……小林は「前田は日本人だ」と言い張っております。≫

次ページで拙者がしゃしゃり出ている
ここは 「武道通信」発行人の出番だと

−−−−−−★−−−−−−
ミス日本 グランプリに
昨年 日本国籍の異邦人
彼女の日本人としてのアイデンティティー いかに

日本国籍取得の
韓国人/朝鮮人/中国人/台湾人」
だけでなくなって 久しい 昨今

生粋の日ノ本人としてのアイデンティティー いかに
じっと 日本刀 みる
2024/01/26(金) 晴れ


在日の日本人としてのアイデンティティー


山本周五郎/藤沢周平らの時代小説
跡目争い/藩の財政再建策での派閥争い
こちとら 暗殺などの物騒なこともおこるが
要は見解の相違

「つくる会」と めざすところは同じだが
要は見解の相違

六ノ巻
【思考のリングス
エールとしての警告。「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史観を問う
日本、日本人とは何か?】
編集部企画・構成 筆・吉田健吾


五ノ巻
儒教は日ノ本に定着しなかった←西尾氏
≪西尾→≫日本の場合の儒教は学問で終わっているんじゃないかと。≫
≪前田→えっ、儒教が学問だけで……≫
同巻で この一言に前田、反論
【儒教は日本に根づかなかったか? 】
コレ 先に記した

リード
≪ 五ノ巻、西尾幹二―前田日明対談における
前田日明の問題提起をめぐって
日本は、他文化の影響を受けたのでなく、独自の力で独自の文化を築いた……。この日本文化の独自性を強調する西尾氏の歴史観にある種の危険性を感じた。自分は文化とは、民族的共感の蓄積だと考えるからだ。」
この前田日明の問題提起の重大な意味を、そのとき、まだ本当に理解していなかった。しかし、この問題提起の意味を問う過程で、「日本、日本人とは何だ?との問いに≫

全十三頁 解説していけば長すぎる
中見出しだけを追う
≪プロローグ パンドラの箱≫
「在日韓国人/在日朝鮮人な/在日中国人/在日台湾人」という日本人と
「日本人のアイデンティティー」を探す新しい歴史教科書が入った
パンドラの箱を前田日明と一緒に開けて見なければならない」

≪パイロット版ゆえの問題提起
教育理念への疑問≫
≪「武道通信のヴィジョン
生き方を探る「試合」≫
≪中国とは別の文明圏である日本
純正日本文明圏とは≫
≪日本の歴史究明の動機
歴史教育は道徳教育≫
≪西尾氏への長文の手紙
ニーチェ的苛立ち≫
≪前田日明の“正しさ”の一点
誰のための教科書か≫
≪エピローグ 西尾、小林氏の誠実さ≫

次号 七ノ巻
【「つくる会」がめざすこと
 日本人、前田日明氏への返答
監修/小林よしのり 筆/時浦兼(よしりん企画)】

これには拙者が受けて立った
2024/01/24(水) 曇り


マレビト


大和朝廷の神々が出現する前 ずっと前
民衆の生活信仰から生まれた神
もともと その地に云い伝えられた神
山に降り立った神とか
子宝神 井戸神 

後者 他の土地から来た客神{きゃくじん}
村祭りの多くが この神を歓待する儀式
これがマレビト 去来する神

「マレビト」の命名は折口信夫
その神 常世の国から来訪することなど
現存する民間伝承や記紀の記述から推定
常世とは死霊の住み賜う国であり
そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていた
農村の住民達は 毎年定期的に常世から祖霊がやってきて
人々を祝福してくれるという信仰を持つに至る
その来臨が稀であったので
折口信夫 「マレビト」と

いまの世にもつづく
仏教行事とされている盆行事
このマレビト信仰との深い関係が推定される

来訪神のマレビトは神を迎える祭などの際に
立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされた
その来たる所は海の彼方(沖縄のニライカナイに当たる)
後に山岳信仰も影響し山の上・天から来る(天孫降臨)ものと移り変わった

「武道通信」 六ノ巻 松岡正剛
【客と堺の神々
 日本の神を語るには、日本にかつてあった「村」を語るのが前提になり、
注目されるのはマレビトとしての客神と共同体の境界を示す境神{きょうじん}である。】

【松岡→ 私の家のルーツは琵琶湖の北方にあたる湖北にある。このあたりはいままでも律令国家の条理機構が辿れる貴重な地域になっていて、古い部落社会の名残りが随所に残っている。
それを追ってみると、客神と堺神の流れというものが見えてくる。湖北の春はオコナイという行事で始まる。オコナイはサトが共有しているヤマ(入会山)に入る儀式で、それにあたっては入会山のさらに奥に控えるヤマ(神奈備{かんなび}⇒神の隠れこもれる)から神を迎えるという祭りが伴ってくる。
これが客神で、マレビトとなる。が、この客神がやってくるには村の「ここ」と「むこう」が分別されなければならない。そこで村の四囲{しい}(周囲)を含む境界にも堺神が生まれることになる。
堺神には道祖神{どうそしん}(道路の悪霊を防いで行人を守護する神)や橋姫{はしひめ}(橋を守る神)をはじめ、たくさんの石碑がある。かつてこの境界の神々のいるところに魔が棲み、異様な物語が生まれたものである。】
2024/01/22(月) 薄曇り


武道通信かわら版 配信日


「エートス/メンタリティー/アイデンティティーを
一つで著わす古語はなかったか。どなたか知らぬか。」
との談余で 締めくくった今号

きょう 昼飯どき 再放送の<光る君> 観るとするか

元JAL国際線パイロット
あの羽田空港での
JALと海上保安庁機 衝突炎上事故を考察
2024/01/20(土) 曇り


信長の盆山{ぼんざん}


築城間もない安土城天守閣一階 十二畳の居間
墨梅{ぼくばい}という墨で描いた屏風画をめぐらせ
その一角に書院を設け 夕靄に包まれた寺の鐘が響く情景
遠寺晩鐘{えんじばんしょう}の幽玄な景色を画かせ
その前に 盆山{ぼんざん}を置いた
盆山とは
盆の上に 気に入った自然石を配置し 風趣{ふうしゅう}を味わう

天守閣上層 いずれも金箔を敷き詰めた豪奢な屏風画
青や朱の鮮やかな瓦 周囲を圧する荘厳な美
しかし 信長がひとり籠る居間 
色を禁じた 黒染めの寂光{じゃっこう}が張りつめていた
信長 この中でひとり 盆山と向かい合っていた
石の霊感と対座していた
石からの言葉に聴き入っていた

のち 安土城の城郭内 西側に ハ見寺{そうけんじ}建立
盆山をハ見寺本堂に遷座{せんざ}させた

【小杉→心眼をもって、石の内部に入り込み、石の本質と一体化する、そのような石工集団だけに伝わる止観{しかん}の法とでも言うべきものがあって、
信長には、これを行ずる対象があの盆山であり、その行場が安土城一階の黒染めの居間であったり、ハ見寺本堂であったりしたのではなかったか。ちなみに
「ハ見」とは、ずべてを一つと見る、意である。
 ただ、それならなまだ、我と石との一体化であって、それを即、神とする根拠はない。】

安土城の土深く埋められたとされる蛇石 いまだ発見されることなく
盆山にいたっては行方も知れない

伴天連フロイス 
信長は自分自身を神として崇めさせるためこの寺を建てたと
彼らの神を宣伝するための口実である

動かぬ神もいれば
行ったり来たりする神もいる
次回は 去来する神 
マレビト
2024/01/17(水) 晴れ


石の声


安土山を支峰とする標高400mにある観音寺
観音寺城 古く鎌倉時代の昔から近江を所領とした
佐々木六角の山城
信長 この山城の石垣を見た 発見した

この石垣をつくった者たちは誰だ! 
安土城の石垣 この者らに作らせろ!

穴太衆{あのうしゅう}と呼ばれる石垣職人集団
信長を感嘆さしめた その技術とは

ほぼ自然のままの大きな石を積み重ね
その隙間に 小ぶりの石をたくみに積み込んでいく
四角四面に断裁した石を隙間なく積み上げられた 
ヨーロッパの城の城壁と対象的 対極の美

【初めて目にしたときは、
一見乱雑と思えるほどの荒々しさを感じさせるのだが、しばし対座していると、
大きな石のゆったりとした面もちがのびやかな基調をなし、その中に、中小の石がリズムカルにところを占めていて、絶妙なハーモニーが奏でられていることに気づくのである。】
↑ 小杉節である

小杉さん 残された安土城の穴太衆積みの写真 原稿に添えてきてくれた
安土城跡には 何回か足を運んでいたのだ

【(日ノ本の)湿潤な風土が石垣に厚く苔がむし そこへ蔦が這い 虫も這い
あたりはうっそうとした森 その石垣は人間の賢しらな意匠を超越した
ほとんど神遊びに属するがごとき自然の造形に変じているのである。
信長が穴太衆積みに惚れたとすれば、その理由はここにあろう。】

そうだ 信長 ヨーロッパの城に惚れて天守閣を作ったのではない
人間の賢しらな意匠を超越した頭上には<天守>がふさわしい

穴太衆を幕府お抱えとした
江戸城 再建築の大阪城
伏見城 篠山城 名古屋城 熊本城 金沢城など

『近江史を歩く』
穴太衆積み 継承する ただ一人の技術者 紹介されている
古来より 石をどこにどう積むかを見分ける技法
門外不出の口伝
その極意は? 不躾な質問に
ただ一人の技術者 こともなげに こう答えた
「長い修行を積んで 石の心と自分の心がぴったり合ったとき
自然に石の声が聞こえてくるんですよ。ここに置いてくれと」

信長も石の声 聞こえたのではないか

信長の神体石 次回に
2024/01/15(月) 晴れ


藤戸石{ふじといし}


むかしむかし ふたむかし前
日南海岸 鵜戸千畳敷奇岩から
真ん中が少し窪んだ
高さ 6cmほど 長さ20cm 幅15cmほどの 
片手だけでは持てない
石 拾ってきた

石が呼んでいるような気がしたから
拙宅に持って帰り いま線香置きになっている
線香の煙 石から立ち昇っているようだ

−−−−−−★−−−−−−
石の瞑想者――信長
人石一体の神化思想は、果たして権力浴に
とりつかれた信長の妄執にすぎないのか。
――小杉英了

小杉さんの語り かいつまんで
《桶狭間の戦いから十年足らず
足利義昭を奉じ 入洛 義昭のため館を造営
そのとき 一つの大石を庭に据えさせた
その名は「藤戸石{ふじといし}》
高さは180cm 幅110cm

藤戸石 思い出せない御仁 検索してみてくれ

『信長公記』→藤戸石を義昭の館に移す様はさながら華麗な祭礼を思わせた
石に綾錦{あやにしき}の美しい織布で包み 様々な花で飾り立て
太い縄を幾重にも渡し 笛や太鼓 鼓を打ち鳴らしつつ 移動した
信長 自らその場に立ち会って あたかも司祭のよう

さて 安土城の蛇石{じゃいし}だ
【小杉→藤戸石の移動さながら、一万人ほどの人手で、三日三晩かかって安土山に押し上げたという「蛇石{じゃいし}」は、長さ五間有余というから
十メートル近い巨石である。その石は、安土城天守閣の礎石とされたようだ。
『武功夜話』を見ると、このとき信長はことのほか派手な装いで、南蛮渡来の燃えるような火羅紗{ひらしゃ}の陣羽織を見事に着こなし、飾り立てられた巨石の上に仁王立ちになって、石の引き上げを指揮したと伝えられているが、この安土という土地が、石と縁が深い。】

安土周辺は 古くから巨石、名石の産地だと
安土城の足下 石部神社 安土山を支峰とする標高400mにある観音寺 
北には石馬寺 南には輿石神社 
石寺 石川など石を冠した名がつきない
だか この蛇に似た巨石 どこから運ばれてきたか明言していない

安土城天守閣の礎石とされたようだ→だが 埋める余地はない…………
そして いまだ発見されてない
龍となって天上に舞い上がってしまったか
高さ 6cmほど 長さ20cm 幅15cmほどの石ではない 
10mの巨石である
安土城 第一級の謎である

謎は謎にしておこう
謎ではない 確かなことがある
信長が見つけた山城の石垣
「穴太衆{あのうしゅう}」

それは次回に
2024/01/13(土) 晴れ


蛇石{じゃいし}


線香一本 火事のもと
指定難病 悲報のもと

「地震・雷・火事・大山嵐{おおやまじ}(台風)」
ロゴの良さから 誰かが 親父{オヤジ}とした

織田信長の「蛇石」 誰が名づけた
『信長公記』→「一万人の人数で夜昼3日で上せられた」
伴天連フロイス→「150人以上が下
敷きになり死んだ」
安土城 築城で石仏や巨石が集められた

「蛇石」→蛇紋岩 
暗緑色塊状のものもある
繊維状でつるつると滑らか 蛇の皮の紋様みたいなものもある
まあ 蛇に似ているから 誰しも「蛇石」と呼んだのであろう

愛知県新城市が産地 ここから運んできたらしいとの説
なんでまあ ホントかよ 

若き日の信長 この蛇に似た石 気に入っていたやもの
信長の石信仰 いつからかは定かでない

それはさておき
この巨石「蛇石」 いまだ どこからも見つからない
『信長公記』からは 天主台まで上げたと解釈されるが
ありはしない
天主台の下に埋められたのではとの説も
現代の調査では埋める余地はないと判明
「蛇石」 どこへいった?

六ノ巻
【信長の神体石の謎
 石の瞑想者{ストーン・メディテイター}――信長】
次回に
2024/01/10(水) 晴れ


祟り


野稽古にでかける途中

ムラサキシキブ 
  紫式部
  ソシ科

と書かれた木札がつけられた 小ぶり木がある

「むらさきしきみ」と呼ばれていたが
江戸の世 『源氏物語』が庶民にも讀まれるようになると
「ムラサキシキブ」と呼ばれるようになる
秋口に直径3ミリほどの紫色の実をつける
それが美しいから となったようだ

紫式部が才色兼備だったどうかは不明
江戸の世の人 才も兼ね備えた美人だと決めた

「光の君へ」 はじまったようだ
NHK 紫式部 才色兼備だと決めた

井沢氏 『源氏物語』にも
國ゆずりの怨霊への恐れがあると

【井沢→光源氏物語の中で、光源氏というのは、ライバルの右大臣家をやっつけるんです。で、右大臣がどこにあたるかは物語の中で書いてないですね。
 光源氏の「源氏」というのは、後の武士の源氏でなく、村上源氏とか清和源氏とかいった、天皇の息子や孫が源の姓をもらって、右大臣になったり左大臣になったりしている。
 その源氏(賜姓{しせい}源氏)なんですが、その源氏が当時、実際には藤原氏に負けて政治の世界から排除されている。要するに、当時の右大臣というのは藤原氏のことで、現実の世界では源氏はそれに負けているんですが、フィクションである源氏物語の世界では源氏は、実は勝っているですね。これってね、バランスをとってるんだと思うんです。
 紫式部は藤原家に使えていたんですね。で、藤原道長なんかが、それを応援してたんですよ。「おお、いいの書いてるな」と。】

井沢氏 これを現代風にアレンジしてみせた
読売ジャンアンツ球団の者が 「光るタイガース物語」を書いたり
タイガース球団の者がジャイアンツをコテンパンにやっつける話を書いて
ベストセラーになったらジャンアンツ球団社長が「おお、いいの書いてるな」
と褒める
つまりフィクション(あの世)では敗者/勝者が入れ変わる
菅原道真も あの世では右大臣になる

これも國ゆずりの怨霊への恐れからきていると

−−−−−−★−−−−−−
かつて 自然災害も怨霊の祟りとされた
コレ “常人”の無意識内での知恵ではなかったか
“貴人”への反感 反撥

旧田中角栄邸内で出火
コレ 金権政治への祟りではないか
関係ないか
2024/01/08(月) 晴れ


安土城


安土城 琵琶湖の西の方 
京都 さらに西の方 要は安土城 京都の東の方
平安京→「平安楽土」から名づける
信長 平安楽土から「安」と「土」をとり 安土城
天皇の都に対する対抗心
コレ 井沢氏の弁

一向宗がつかう「穢土{えど}」 この世の穢れた場所
徳川家康 信長よりさらに対抗心
穢土からとって「江戸」にした 開き直り
江戸は現世 そして天国
京は極楽という あの世の世界

江戸→東照大権現
「アマテラス」に対抗して「アズマテラス」
武士にとって京都(天皇) 滅ぼすべきではないが
祀り上げて 封じ込める
神話で 天照大神が大国主にやったこと

ここまでは井沢氏の弁

−−−−−−★−−−−−−
武士と朝廷の関係 一筋縄ではいかない
「武士」のはじまりは 「兵{つわもの}」 在野でアンチ朝廷 
朝廷 公家衆の用心棒 武装集団「侍」とは違う

いつしか “出征証明書”ともいうべき 「兵ノ家」が生まれた
この「家」 朝廷の策であった 牙を抜く策であった

本来 「家」とは高級官僚の呼称 ひっくるめて「公家」
「公家」と並立し得る「武家」として軍事的貴族となる

とき流れ 平安の世が終るころ
国家的行事を主催する「公家」 
祈る行為を軸とする宗教権門たる「寺社家」
戦う人々の集団たる武力担当の「武家」
三つ巴で国内権力を構成される

これに牙を剥いたのが信長
輪をかけたのが家康
「寺社家」を従属させ においた家康
祀り上げて 封じ込めた

“黒船”襲来で 二七〇年で賞味期間を終えた
2024/01/06(土) 晴れ


流通戦争


年こして 五ノ巻 論客対談

井沢氏の弁 中見出しにすると
【和の源は国ゆづり神話
神道は先住民の宗教】
国津神は縄文の神様 高天原は弥生の神様

【大きな和合でできた
大和{やまと}の国】
混合した文化 絶対的な文化を許さない

【熱田神宮参拝の意味
 武の神に死の覚悟を】
これは前田の弁を中見出しに
前田→死ぬ覚悟で臨んだ桶狭間
信長 熱田神宮にかっこいい死に様を与えてくださいと

井沢氏 それを裏書する弁
『信長公記』 桶狭間でなく桶狭間山
今川義元 山の上にいた 義元 信長が来るの見えていた
なぜ勝てたのか 信長自身 わからなかった
だから 信長 二度と大軍への奇襲作戦はやらなかった

【比叡山焼討は流通戦争】
井沢氏の弁
宗教弾圧ではなかった
比叡山延暦寺 戦国大名のようなもの 僧兵という武装集団 
領土は少ないが流通を握っていた 運送業を握っていた
それに金貸し 造り酒屋 
神社連合 市場を支配するためにカルテルを作っていた
その頂点が比叡山延暦寺

信長 対抗して「楽市」「楽座」をつくる
で 流通戦争 勃発

−−−−−−★−−−−−−
大本営 数倍ある敵に対して 「桶狭間れ見習え」
で 大失敗
信長 草葉の陰から云ってあげればよかった
あれはまぐれだ 二度とやるな!
2024/01/04(木) 晴れ


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