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小柄{こづか}工房


【『小柄工房』 事始め  角田芳樹{かくたよしき} (日本武道具)】

武道具店の店主に角田さん 以前から不思議に思っていたことがある
剣道の面/銅/小手/竹刀
作り工程を見る機会は少ないとしても 無くはない
しかし 日本刀となると ほとんど とっかかりがない

記念祭 刀物祭り 刀工が白装束に身を包み
鳥帽子を被り 焼き入れの場面 ちょっと公開するだけ

刀の鍛えとか焼き入れをやってみたいと思っても
「作刀体験入門OK」の看板がかかっている所など どこにもない

【角田 →  刀、作刀とはそれほど特別なものなかであろうか?
日本刀は世界に誇る火と鐵{てつ}の結晶として今では美術品としての枠組みで「保護」されているが、刀そのものを作りたいと思っても作れない仕組みになっている。
長さ云々のことがあるにしてもお役所の法の網がしっかり被せられていて、
カスタムナイフ作りのような自由さはないに等しい。
また、残念ながら多くの作刀家は「作刀行程を体験させてもいい」とは言わない。
そもそも素人が鍛錬場に立ち入ることを拒み、仕事場は見せるものではないと思う人が多いのである。それはそれで理解できない事ではない。】

しかしながらと 角田さんは云う
作るとすぐ売れる刀工は稀 多くの刀工 経済的に恵まれていない
高価で手の届かいもの ガラスケース越しに眺めるだけのもの  
居合愛好家 美術愛好家 投資家だけのものになっている
こんなことで日本刀 生き残っていけるのだろうか

角田さん そこであることを考えついた
それが 「小柄工房」であった
某刀工の作刀場に出向き 作刀現場を見 焼き入れを体験する
第一回目 角田さんから連絡 すっ飛んで行った

ちょこっと素延を体験し 焼き入れを体験
熱され赤くなった刃 すばやく水桶に突っ込む
「ジュウー」との音 いまでも 耳底に記憶さている

銘は何にします と刀工
頴男の 頴でと
鎺{はばき}の下に 「頴」と刻まれた銘がある
刃渡り14cm 小柄

平成十二年のハナシだ
その後 作刀体験  「Youは何しにニッポンへ」の一つになって
西新井大師の近くの小柄工房には 作刀体験するYouが訪れると聞いた

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GHQ 日本刀を恐れた
日本兵に闘争心を植えるけるものとして
報復を恐れ 民間人の日本刀も没収した 
敗戦後 刀劍界 生き残り策として
GHQに忖度した
2024/10/04(金) 雨


Infomation と intelligence


きのう  「刀劍はたや」さんのところの月めくりカレンダー
九月 破った  月めくりカレンダーも あと三枚

武道通信 十二ノ巻に“衣替え”
十一ノ巻  一ノ巻からの十ノ巻  巻頭 論客対談の合体本
ゆえに 飛ばす

十二ノ巻 特集
【IT戦争に勝つ!】
平成十二年 西暦2000年 すでにサーバーテロ 
ネット上ではじまっていたのだ
これを武道精神にひっかけて 【武の精神と知恵で学ぶ】とした

■嘉村 孝 → 中世の戦闘集団 一味同心
  官僚の責任を押し立てる新渡戸稲造武士道ではIT戦争に勝てない
■橘 薫 → 膨大な情報の荒海にこぎ出すにあたって 情報そのものを
 判断する力を身につけることだ それは自分の身体うぃ使って解くことで
 武道の「奥義」や「秘伝」に通じる
■佐々木 建 → 『五輪書』で勝つ
 目付 武具の利などIT戦争に勝つための戦い方が見えてくる
■吉田翰玄{ふみはる} → IT戦争と『葉隠』 公に奉すべき奉公人
 問題はInfomationではなくintelligenceとして
 私たちがNetに参加できるかだ 『葉隠』 にはIT戦争を勝ち抜くヒントがある

最後の項 耳を傾けよう
【Infomationとintelligence
◆情報とコミュニケーション
もともとの話に戻るとITの“I”ってInfomationなんである。intelligenceじゃなくて.
なのに両方とも日本語に訳すと「情報」になるんだが、わたしは「消費財としての情報」をnfomation、そしてintelligenceを、情報←コミュニケーション(情報)と式で考える。
この式を説明すると、情報がコミュニケーションによって新たな情報を生み、そして、新たな情報が、また、コミュニケーションしてさらに新しい情報を生むという循環を表している。これは、IT革命が起こる前から、ひょっとすると、人類が言葉を操るとうになる前からあったことを式にしただけだ。そしてITはこの循環のスピードアップし、関与者を爆発的に増やし、創造のプロセスよりも生産的にする。
では、政治的IT戦争に勝つため、すなわち、如何にしてITを駆逐して国民国家と対抗するのか、そして、勝利するか?
国民国家に対抗するには、それを相対化すればよい。その為には、@国民国家の領域を越えて、市民の活動の場を広げるか、あるいは、A地方分権を徹底して、各地域に市民の政治参加を可能にする公共空間を形成するかの二つの方法が考えられる。
この二つ、正に今日、Net上で行われつつある。Netはヴァーチャルであるが、国民国家の領域を越えて、私たちの活動の場を広げてくれるし、各人が持つホームページなどは、私たち政治的参加を可能にする公共空間と考えられる。
問題は、Infomationでなくintelligenceとしての私たちNetに参加・活動できるか。
『葉隠』にそのヒントが書かれている。
「わが智慧一部の智慧ばかりにて萬事をなす故、私となりて天道に背き、悪事となるなり。脇より見たる所、きたなく、手よわく、せまく、はたらかざるなり。眞の智慧にかなひがたき時は、智慧ある人に談合するがよし。その人は、我が上にてこれなき故、私なく有體の智慧にて了簡{りょうけん}するとき、道に叶ふものなり。脇より見る時、根づよく悎かに見ゆるなり。例えば大木の根多きが如し。一人の智慧は突っ立ちたる木の如し。」(一ノ五)*(一ノ六の間違い)

敢えて「五〇字以内で答え」ることもあるまい。
私を含めNetに参加する各人が、『葉隠』に触れ、「長け高き」奉公人となることを願ってまない。


★------------------------------★
次頁 「床几」 だった
日本武道具の角田さんが書いている
「小柄工房」のことだ
拙者 第一回参加者だった
次回はこれで
2024/10/02(水) 晴れ


強くなくてはならない


たとえ勝ったとしても
いろいろの戦争の反省 その後にやってくるもの
古代ギリシャの時代から そう だった
二十世紀になって
第二次世界大戦後 やっとこさ わかってきた
で どうする  

そこで 第二次世界大戦 一人勝ちの 米国
《プロパカンダ》  《情報支配》 だと気づいた

【兵頭 → この連載の第一節で紹介した「孫子」は、
最も上手な戦争は「伐謀{ばつぼう}だと書き残しています。
「謀」とは、戦争をしかけよとする心の動きです。「伐謀」とは、
そもそも外国が、自国に戦争をしかけて勝とうなど思わぬように
宣伝をしたり、工作をしなさい、というのです。
ただし、この「伐謀」が有効であるためには、
やはり自分が本当に強くなくてはならないでしょう。】

國ではなく 個人に置き換えよう
<やはり自分が本当に強くなくてはならない>
2001年 参議院選出馬 拙者のプロパカンダ
「自分の命は自分で守る 自分の國は自分で守る」

新総裁 自分の國は自分で守れるか

−−−−−−★−−−−−−
そうだ 杉山頴男Wikpedia
杉山頴男事務所設立2000年から
正しい 1998年 やっと戻った
2024/09/30(月) 薄曇り


目的


お互いに「自分が負けた」と 認めない
こんな場合 いったいどっちが戦争に「勝った」といえるのか

より損害が大きかった方が「負け」でしょうか
違います
こんな云い伝えがあります
古代ギリシャの王
戦争には勝ったが あまりにも多くの損害を出してしまった
そこから「ピュロス王の勝利」とは
<犠牲の多い 引き合わあない戦争>の意味で よく使われます

戦争を始めるとき 「目的」がある
どちら側にとっても「目的」がある
どちら側にとっても
当初の「目的」を達成できたと思ったら勝ち」

ロシア  当初の「目的」 達成できてない
ウクライナ  当初の「目的」などなかった
奇襲攻撃ではじまった戦争 受けて発つしかなかった

1941年の真珠湾攻撃とイギリス領マレー攻撃
米国 当初の「目的」などなかったのか

米国 当初の「目的」 あった
白人のアジア植民地支配にいちゃもんつける
黄色人の覇者 ジャップを叩きのめす

日ノ本 大東亜戦争の「目的」
欧米の経済封鎖からの脱却
アジア諸国を欧米列強による植民地支配から解欧

目的を果たして勝った米國
「大東亜」  気にいらない 
大東亜戦争 太平洋エリアでだけ戦争でないのに
「太平洋戦争」との名称に強制変更

世にいう 「戦後」
アジア諸国の植民地 独立を果たす
日ノ本の「目的」 果たされた

−−−−−−★−−−−−−
人生に「目的」を持ちなさい
少年少女に 大人は云う

「目的」などない
ただ 食っていければ それでいい 
敗戦直後が 懐かしい

敗戦直後の少年少女
八十、九十年代に
残りの人生 「目的」を持ちはじめた
2024/09/28(土) 曇り


女の子


Netflixのお蔭で
きのうUPするはずだった稿 失念した
一日置き 二日に一回 が定番

−−−−−−★−−−−−−
編集部へ 小柄でデブッチョな女の子 入ってきた
「週刊ファイト」から引き抜いてきた山本
飛んでいって 肩を飽 く
「○○○ちゃん 有名になって よかったね」
その小柄なデブッチョな女の子  照れくさそうに 二コリと
この女の子  ダンプ松本だった

女子プロレス  クラッシュ・ギャルズ 大人気
後楽園ホール 社から徒歩 五分ほど
初めて 女子プロ 観る
異様な光景だった 客席 女の子だけ

「週刊プロレス」 女子プロ 掲載
「週刊ゴング」も「東スポ」も足踏み
新日本プロレス 坂口さんから電話
「女子プロと一緒にされるのは 
プライドが許さないと若いモンが」
業界誌から脱却した強み 無視

プロレス嫌いの ただ売れればいい編集長と
悪態つかれていること 百も承知
プロレス 好き嫌いではない 興味ない
試合取材  リングでなく 観客席しか観てなかった
観戦レポート プロレス好きなスタッフ任せ

観客席⇔時代
<時代の精神>みたいなものにしか興味なかった
大宅賞受賞(1991)『プロレス少女伝説』の
マキちゃんもそうだったであろう
マキちゃん 女子プロ専任にしたの編集長のオレだった
マキちゃん プロレス 好き嫌いではない 無関心 興味ないと知っていたから
リングの上の<女の子>という<時代の精神>が見えると思ったからだ

あっ そうだ
前田日明に長与千種 ダッコさせ写真撮らせたのオレだった

『極悪女王』で ダンプ松本 想い出した
で 【中学生にもわかる「兵法」】
今回も振り替え
2024/09/26(木) 晴れ


弔い方


自民党総裁選/立憲民主党代表選 酣{たけなわ}
しかし 日ノ本人口の凡そ70% 仏教徒
要は 寺で弔い 寺に骨を埋めるルールなのに
このルール 壊れかけている
なのに これを言及しておる候補者 誰ひとりいない

で 「秋分の日」振り替え日
【中学生にもわかる「兵法」】も振り替えで
テーマ <弔い方> に振り替え
故人への想いを共有すること

小川さんの『宗教問題』では
早くから これらの問題に言及している

吾家の菩提寺 臨済宗
臨済宗でも 
最大一万五千近い寺を持つ曹洞宗でも
「僧侶数の縮小スピード化
二十年年後 僧侶数は40%減少する」と
曹洞宗 本山は推定
つづく浄土真宗でも 日蓮宗でも 同じ
でも 各本山 打つ手出す気配無し

文化庁宗務課 今年1月に公表 
宗教法人の約63%が年収300万円以下
世にいう「寺院消滅」の現実化
原因 →ほとんどの人がお葬式や法事をしなくなる
<弔い方> 忘れてしまう

自民党総裁選/立憲民主党代表選の諸氏
<生きてる人間>しか 見てない
<人は死ぬ>を 見てない

戦国もの 
TVドラマ/読み物で人気 あり続けるのは
<人は死ぬ>が
重低音で流れているからだ
2024/09/23(月) 薄曇り


審判がいない 戦争


『武道通信』十ノ巻  つづく

【中学生にもわかる「兵法」
「勝つ」とは? 最終的な「勝利」とは?
兵頭二訴二十八 】

野球/サッカーとかのスポーツ競技
将棋/囲碁とかの遊戯競技
勝ち負けを決めるのはルール
やる前から決まっている
審判/レフェリー/ジャッジがいて 
ルール違反者にはペナルティが課せられる
制限時間/点数などで勝負は決まる
誰もが文句のないような形で
一部熱狂的ファンが騒いだとしても  勝者と敗者に分かれる

ところが 國と國との戦争は 政府軍と反政府軍との内戦も
審判/レフェリー/ジャッジはいない
戦争はどちらか一方が好きなとき 好きな場所で始めることがきる
ロシア⇔ウクライナのように
互いが相手を非難する 審判がいないのだからルールは有っても
無いようなもの
両方がやめたくない場合 いつまで際限なく続く
ロシア⇔ウクライナのように

2022年2月24日  ロシアのウクライナ侵攻開始
この9月で900日に及ぶ

【兵頭 → さんざん追い詰められた側が、逆に国際世論を味方につけ、
外国から武器や資金も人手の加勢もつけて
長い時間をかけて相手をとてもいたたまれないようにし、
ついには元の国境の外まで撤収させていまった、
そんな経緯をたどった戦争もあります。
そして、やがてどちらからともなく、なんとなく攻撃を停止し、
しばらく銃声が聞こえなくなった後、双方の側が、「我々が勝利した」
と発表したりします。】

ロシア⇔ウクライナ いつ お互いに 「我々が勝利した」と宣するのか
国際世論 これまた 二つに分かれる
では 本当は どちらが勝ったと云えるのだろうか

それは 次回に
2024/09/21(土) 晴れ


明日 武道通信かわら版 配信日


『SHOGUN』 エミー賞 18冠したこともあるので
異國のひと なぜサムライ好きなのか
異國のひと いつからサムライ好きになったのか
一考してみた

◆19日 UPするの失念
2024/09/21(土) 晴れ


スサビの心


松岡正剛氏の項も これが最後だ

【松岡 → 茶の湯は遊芸のひとつである。芸術とはいわない。
遊芸は遊びであるが、日本で遊びというのはなかなか深い。
そもそも「スサビ」が「遊び」であった。

スサビ⇒荒び 
ルーツはスサノオにまでさかのぼる
スサノウの「スサ」 スサビの「スサ」からきている
風が吹きすさび その景色に心が動くこと
それがスサビの起源 これが遊びの発祥

スサビの心を持つことを 遊びの本懐としたからだ
誰が 
紫式部 清少納言 藤原道長ら 王朝の人々
「あわれ」とか「をかし」の感覚

スサビ=遊び 次第に和歌の流行とともに
「歌数寄」と呼ばれるようになる
<数寄> 平安の世の<好き> 色好み
鎌倉の世になり 歌道の風流を意味する<数寄>になる
歌数寄を中心に日ノ本の遊芸のかたちができあがっていった
このかたちは連歌に継承され さらに茶の湯に受け継がれた
その遊芸にも覚悟と作分があった

松岡氏 最後は「武道の中の日本」のテーマに従い 収めてくれた

【松岡 → 遊芸に覚悟と作分があるように、武芸にも覚悟と作分がある。
武芸という言葉は遊芸よりも新しいが、そこに流れるものは変わらない。
遊芸が徹底を旨{むね}としたように、武芸もまた徹底を旨とした。

−−−−−−★−−−−−−
「茶の湯」が「茶道」に
「武芸」が「武道」に
徳川家康 非武装のため
スサビの心を封じた結果

『SHOGUN』  家康モデルの<虎永>には
スサビの心 あったか?
2024/09/17(火) 晴れ


四畳半


「覚悟と作分」 その前に 「一客一亭」
辞書 → <一人の客と亭主だけの茶事>
茶室に 亭主と客の二人だけのイメージ 
違う 四人 いるときもある
亭主は その一人一人の客の心をもてなして
その客の心に従ってふるまう
これ 「茶振舞い」

茶を出すだけではない
当日の茶席をどのように用意するか
あれこれ考える
道具の取り合わせ
茶花や掛軸を選び
懐石の茶菓を組み立てる
当日は当日で その日の気象によっては
水の撒き方も変わってくる
寒ければ 湯の具合も変わってくる
こんな風に
気分をしだいに昂揚させ そして当日の客に対峙する

【松岡 → このような一客一亭の心は利休が茶の湯を大成する前に、
すでに武野紹鴎{たけのじょうおう}によって確立されていた。
紹鴎はもともとは連歌師で、その後は茶の湯に精通して、村田珠光{じゅこう}が発案した草庵をさらに「侘び茶」までつきつめた。四畳半という極小のスペースをつくりだしたのも紹鴎である。
のちに利休は究極の二畳台目を考案したが、紹鴎の四畳半という大きさこそ
その後の茶の湯のスペースを決定づける画期的なものだった。茶の湯のリングはここに決まったのである。それが茶の湯の「埒」だった。
武野紹鴎は一客一亭の心構えについて、「覚悟と作分」を説いた。
「胸の覚悟」と「景色の作分」である。
覚悟とは亭主の用意がそこまで徹底しているか、仮に徹底してなくとも、どこまで踏み切るか、そのことを迷わぬことをいう。
たとえば、床の間の茶掛け(掛軸)を本阿弥光悦なら光悦の消息(手紙)にするか、
それとも一休禅師の黒跡にするか、迷ったとしても、どこかでどちらかに踏み切らねばならない。それによって茶釜が決まる。茶釜が決まれば茶花も決まる。いや、茶花は決めないで当日を迎えようというのでもよい。…………
いずれにしても、そのような覚悟が決まれば、ついで景色をつくる作分もおもしろくなってくる。
元来、茶の湯というものは、その次第の全体が景色の連続でできている。景気というのは、露地の風景だけでなく、茶碗の形や色も景色であり、茶杓の一本にも景色があるというふうにとらえる。それら景色が連動していなければならない。それをつくるのが作分になる。このように紹鴎は「覚悟と作分」を亭主に求めたのである。】

ちょっとでも茶道 いや茶の湯をかじった者にしかわからぬなぁ

次回は「荒ぶる」が「遊び」になる話だ

−−−−−−★−−−−−−
実家が区画整理で東へ15mほど移動する際
老いた父母が新築した
その折 嫁いでいた姉が 四畳半の茶室をつくらせた
姉 茶道の師範していた “出張先”の出稽古用であった
二畳ほどの物置には茶道具が詰め込まれていた

そういえば 子供ころ六畳間の床の間に掛けられていた
能楽に出てくるような爺さんが描かれていた掛軸
どこへ いったんだろう…………
あの掛軸にしたら 姉 どんな「覚悟と作分」するの やら
2024/09/15(日) 晴れ


同朋衆{どうほうしゅう}


茶室といえば
 “一般教養” 安土桃山時代 だが
茶室空間 いつごろできあがったか
正確なところはわからない
博学のひと  松岡氏が云うから そうであろう
鎌倉 平安まで 遡るのか
それはともかく

【松岡 → 茶の湯の発達につれて登場してきたことははっきりしているが、
まだ空間的な変遷の細部はあきらかになっていない。
が、この茶室空間が興味深いのは、そこに数々の道具立てとともに、
作法のようなものが付着し(茶礼)、そこに従来にはまったくなかった
「もてなし/しつらい/ふるまい」の完成がしくまれていったというこである。
これを仕上げたのは、室町将軍のかたわらにいた同朋衆たちだった。
とくに有名なのが足利義政時代を前後した
能阿弥 芸阿弥 相阿弥の“三阿弥”である。】

<三阿弥>
能阿弥{のうあみ}/芸阿弥{げいあみ}/相阿弥{そうあみ}の父子三代の称
代々唐物の鑑識・管理や座敷飾りの指導などを職としたが
水墨画家としても著名である
能阿弥 「白衣観音図」
芸阿弥 「観瀑図」
相阿弥 「山水図襖絵」

彼らは もともと将軍の身辺をめぐる雑役に従事していた者たちだが、
その中には絵師/工芸師/庭師/能/狂言師など
特技を持った芸能人の一団であった
将軍の近侍として仕える同朋衆と呼ばれる者たちも
独自のサークルを作っていた
彼らにはこの時代の芸能をリードする者が多く
能楽の観阿弥、世阿弥父子や
連歌師の頓阿弥/琳阿弥/庭師の善阿弥などがあらわれた

【松岡 →同朋衆はともともは道具立てのための目利きの役目をもっていた者たちであるが、すぐさまスペース」・デザインのいっさいを取り仕切っていった。
床の間のデザインから作庭のデザインまで、かれらがもたらした才能は、今日の日本の美の多くの原型をつくっている。のみならず、かれらは絵師としても茶の宗匠としてもすこぶる有能だった。同朋衆は日本の最初のアートディレクターなのである。】

覚悟と作分
まだ 出てこない
次回へ
2024/09/13(金) 晴れ


空間文化史


さて 久しぶりに  松岡正剛 登場
【武道の中の日本<九>  覚悟と作分】
<作分>  <作文>ではない
作意  作者の意図だ

スポーツには ふさわしいスペースがある
と切り出し
かつての日本では このスペースのことを
「埒{らち}」といった
まだ 本題ではない 間口の話だ

【松岡 → 埒は古代からある言葉で、柵に囲まれた場所のことをさす。
一画といった意味をもつ。その埒の中で事が進み、事が仕切られた。
それを「埒があく」という。閉じた埒の中でなんらかの埒をあけること、成果をあげること、
そこに日本の「場所の精神」というものがあった。日本の格闘技もいつまでもそのような「埒のあけかた」を守ってほしい。】

その後 「埒」は さまざまな場面に出現する
その代表は 「庇{ひさし}の間」などの「間」
庇 → 建物の窓/出入り口/縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。
第二は鴨長明『方丈記』で有名な「方丈」
一辺が一丈(約3m)の正方形 一丈四方。
長明 このスぺースの中で書いたという洒落だ

日本の空間文化史にとって重要な「埒」であると 松岡氏
空間文化史と きたか
大谷のホームラン打球がスタンドに飛び込む野球場
米國の空間文化史なのだろうか

狭い日ノ本の空間文化史のはじまり
「九間{ここのま}」 縦三間、横三間

九坪ほどの部屋
特に縦三間 横三間の部屋
室町時代にはこれが正式の座敷の基準の広さであった 
正方形のリングのようなスペースだ
日ノ本人は 長い間 この九間を最も基本的なスペースとして重要視した

この九間につづいて第三に登場したのが
室町時代に入り流行した「書院」 「会所」
部屋の一隅に「床の間」や「棚」が加わった
これこそが 後の近世近代の“日本間”の試作品となった
と松岡氏

そこへこれらの考え方を破るスペース感覚が出現
それが茶室空間であった

次回 本題の 覚悟/作分
2024/09/11(水) 晴れ


東郷平八郎 乃木希典


さて やっと 「トーゴー」「ノギ」の話だ
エルトゥールル号沈没から十三年
日ノ本 ロシアと開戦
トルコ人 皆 アジア西端から一喜一憂し見守った

アブドゥルハミト二世 観戦武官を
日露 あわせて六十万に及ぶ将兵
十八日間 満洲の荒野で激闘を繰り広げ
世界史上でも希に見る大規模な会戦となった
奉天会戦に従軍させる

この武官 後年 回顧録
「両国民(日本とトルコ)は誠実にして名誉を重んじ 誇り高い国民である
日本の神道はトルコ・シャーマニズムと共通点を持ち
トルコ神話と日本神話の源流は同じものである」

<日本語の教授と友好に関してはしかるべき人材を約束した>
人物が茶人 山田寅次郎
将兵たちは海軍兵学校の練習少尉候補生であったからだ

寅次郎  トルコ人将校に日本語を教えるから貿易を営み
トルコとの架け橋になっていた
その山田
黒海に展開するロシア艦隊の動向を探っていた
山田に協力するトルコ人たち 高台から二十四時間見張っていた
ロシア艦隊が黒海からボスフォラス海峡を抜けて地中海に出 バルチック艦隊と合流するかを探り その動向を逐一日本へ報告していた

奇しくも  「天気晴朗なれども波高し」の秋山真之{まさゆき}
エルトゥールル号の生存者を送り届けた比叡/金剛の練習生の一員であった

日本勝利の知らせに トルコ人 狂喜乱舞
息子や孫の男子に「トーゴー」「ノギ」の名をつけた
という話

オワリに
落日のオスマン帝国を徹底的に解体し
明治維新にならった本格的な近代国家に向けて
決然と歩みだした青年将校らがいた
一九〇八年 こうした将校中心に革命 起こる
青年トルコ人革命
その中に トルコ共和国建国の父 アタトュルクがいた
彼もまた寅次郎に日本語を教わった将校の一人であった

いま エルトゥールル号遭難の場所としても知られる
大島の堅野崎「かしのさき}灯台 近くに建つ
エルトゥールル号遭難者 墓碑は
アタトュルクが献じたものである

−−−−−−★−−−−−−
拙者
日ノ本の○○○○になろうとした
なれこっないとわかったころ
男子が生まれた
○○○○と名づけた
2024/09/09(月) 晴れ


エルトゥールル号


小杉英了さん トルコの話
【トルコ―百年越しの民族感情
イランからの邦人脱出に唯一協力した国、トルコ。
新聞は金の力と伝えた。が、トルコ人なら誰もが知る
日本とトルコとの一世紀前の出来事があった。】


小杉さん 曰く
【日本人のために、危険を犯してまでも救援機を飛ばしてくれたその行為を、
当の日本の新聞が、あたかも金の力であるかのように言うその心根の腐りぐあいもすさまじいが、日頃、経済大国日本の諸外国における振る舞いを、斜に構えて酷評してみせるインテリたちの頭は、目先の利害や力関係で動く人間のあさましさは――まるで自分のことのように――分析できても、百年越しの民族の記憶が突き動かす心情など想像の埒外なのだろう。】

新聞 → 朝日新聞 一九八五年三月二〇日付け
朝日新聞の<心根の腐り> いまでもつづいているのだろうか
朝日新聞のChina Koreaの反日感情の<民族の記憶> いまでも大きく扱う

一世紀前の出来事 → エルトゥールル号の沈没 
明治二十三年 九月十六日 夜
諸氏 よく知ることであろうから省く
「トーゴー」「ノギ」の話だ
いや その前に  やはり一言 付け加えて置かねばなるまい

エルトゥールル号の生存者を乗せた 比叡/金剛 両艦
十月十一日 日本を発ち 翌年元旦 
祝砲の中 イスタンブール港に着く
トルコ側の歓待 熱烈
アジア人にしてはじめて近代化に成功しつつある
Japonya{ジャポンヤ}(トルコ語)が
海軍も漁民も 一つになって
傷ついたトルコ将兵の窮地を救い 手厚い介護の上 
本国まで送り返してくれたのである。

皇帝アブドゥルハミト二世 尽きせぬ謝意をあらわし 友好を求めた

日本将兵 ぴっぱりだこ
軍艦 千客万来
トルコ人 日本人の風俗習慣 何事にも興味津々
中でも皆が切望したのは 日本の武道
資料にある 剣道 柔道 角力(すもう}までもが演武された

1199年 建国以来600年
衰えたりといえどもオスマン=トルコ
尚武の気風を尊ぶ國 オスマン帝国
それが18世紀以来 西南部はイギリス フランスに侵略され
北方は絶えずロシアに脅かされる
そして19世紀末 エルトゥールル号沈没のころ
イスラームを体制理念とした老大国オスマン
動脈硬化の中 弱体化の一途を辿っていたのだった

日本使節団 帰国の途 迫っていたとき
トルコ高官 「日本の海軍士官 数名 このまま残してはくれまいか」
トルコの士官たちに日本語を教え 国交を深めたいのだ と

将校の残留はかなわなかったが 日本語の教授と友好に関しては
しかるべき人材を約束した

歓迎の熱風一過 比叡/金剛 イスタンブールの港を発ったのは
予定より大幅に遅れた二月十日のことであった

長くなった
「トーゴー」「ノギ」の話は 次回で

−−−−−−★−−−−−−
某君の総裁選出馬表明で
選択的夫婦別姓 是非 巷でにぎやかだ
『真似てみたい武士の妻の作法』で書かなかったかな
江戸の世の武士夫婦 <強制的夫婦別姓>
妻の羽織の家紋も実家の家紋

拙者 総裁選出馬表明の折
<夫婦別家紋>を呈す
2024/09/07(土) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


新聞に 小さな数字しか並んでない一頁があった
もったいない
この一頁に記事を載せればいいのに
高校生の俺 怒った

株の急落のニュース  巷で姦しい
株というもの
拙者 高校生のとき同じ
いや いまは 無関心

株も投資も 無関心
2024/09/05(木) 晴れ


「武」とは


床几
【「武」の素描
大保木不全{おおぼき ふぜん)教員】

名には覚えがある  会ったことがある
どこの誰であったか 記憶 甦らない

「武」とは 「武」の字義は
<戈[ほこ}を止{とどむ}>
天下泰平を願う 江戸の世で もてはやされた
が コレは大嘘だというハナシだ

大嘘の出所
中国の後漢時代 許慎{きょしん}の「説文解字{せつもんかいじ}」
説文解字とは 字を組み合わせて、新しい意味を表す漢字
<戈>と<止>を組み合わせ 「武」との漢字つくる
これが<戈[ほこ}を止{とどむ}> と流布

大保木氏 
これに ある種のいかがわしさを感じた
詭弁さを感じた 
で 中国語言語学者 藤堂明保先生 と出会う
「止」とは とめるのでなく、趾{あし}で進むこと」
と教わる

藤堂明保の著書 『武の漢字・文の漢字』
【◎「説文解字」の「武」については、『春秋左氏伝』を典拠としていて、左氏某が、
彼自身の作り上げた「武」に対する考え、彼の「戦争感」を述べたにすぎない。
◎「武」といいうのは「戈」(武器)をもって止{あし}で進むこと」、つまり危険をおかし
困難を切り開いて、荒々しく突き進むことを表しているのである。
◎武、腑、舞は同系のことばであって、そこには「むりをおかして荒々しく前進しる」
という意味が流れている。
『春秋左氏伝』をはじめ、歴代の儒家の書は、この「武」の原義をわざとねじまげている、
と言わざるをえない。】

そうか 幕府の御用儒者 「これだ!」と 喜んで家康に上奏したのだ

大保木氏 〆
「戈」(武器)をもって止{あし}で進むとき
近世武道家は「平常心」「無心」が必定と説いた
【大保木氏 → 過日あるご縁で、鉄舟の柔らかくて強い黒跡に参ずる幸運に恵まれた。そこには「剣術の極意は風の柳かな」とあった。己自身が「折れず、曲がらず、よく切れる」日本刀になること(無刀)を提唱した人の言葉である。】
2024/09/03(火) 雨


時代小説はつづくよ どこまでも


十ノ巻 時代小説特集 つづく
【時代小説、剣客列伝
剣客、秘伝のこころ 
上泉伊勢守から千葉周作まで、多くの剣客を語りついできた時代小説。
彼らの極めた剣の奥義は、天地の摂理を畏敬した心法であった
杉田幸三】
◆司馬遼太郎<千葉周作> 
北辰一刀流と無外流
◆池波正太郎<上泉伊勢守>
活人剣の妙締{みょうてい}(真髄)
◆司馬遼太郎<宮本武蔵>
喝当の打ちと四戒
◆大森曹玄<示現流>
刀は抜かぬ、是秘伝
◆八尋舜右{やひろしゅんすけ}
二刀構え柳雪刀
◆吉川英冶<柳生石舟斎
刀は無用なりけり

【説話「大名の女腹切り
武士の妻―松平安芸守吉長夫人節子
武士の妻は奥向きの采配はすべてゆだねられていた
梅本育子】

十ノ巻 時代小説特集  オワリ
あっ まだ あった 一作 飛ばしていた

【時代小説SHOW]へのご招待
時代小説羅針盤 ―失われたサムライ・スピリットを求めて
「サラリーマンの癒し、愉しみ」の先入観は崩れた。
時代小説はいまや世代、男女の枠を超え、読まれている
理流 (「時代小説SHOW」主宰 】

《理流 → 「時代小説SHOW」のホームページを開設したのは、96年5月、当時、時代小説をコンテンツにしたサイトは、他に一つもなかった。》
「武道通信」創刊より二年前
時代小説特集ということで HPにアクセツし
理流を知り 原稿を依頼したわけだ

まあ HPご覧なれ いまでも健在  天晴れ!

−−−−−−★−−−−−−
映画にもなった『武士の家計簿』(平成十五年)(2003)
劍をとっても………… いやいや 剣をとらなくとも
武士物語は ありつづけられること証明した
2024/09/01(日) 雨


「道」


武道通信かわら版で綴っている軍記物
強さへの憧れ 通奏低音どころか
執拗低音で響いている

三浦 実氏 「強さとは」との命題を出し
哲学的命題とし 一足飛びに
「日本は哲学なし」 中江兆民の言葉
【さぁ困った! 大変だ! と慌てたあなた! 朗報です。日本には、西洋のようにギリシャの時代から脈々と続くような体系的哲学はなくても、実践、経験によって緻密に練り上げられた「道」ってモンがあるんじゃないですか!】

そうか 當麻蹶速{たいまのけはや}だしてきたのは 「道」か

【この「道」非常にシンプルな、それでいて非常に厄介なモノなんです。
當麻蹶速の「強さとは」という命題の「道」的答えは。「頓に争力」すること、それも「生死を期はず」。西洋哲学のように脳味噌を使い、言葉を費やして答えを求めるのでなく、体を削って、命を張って答えを求める。考えより、まず行動、それも命を張った。で、その張り方は、「覚悟を決める」って肩肘った類でなく、淡々と、ときには清々しくも「死は結果」として受け入れるという張り方をする。結果より手段に重きを置く。】

「坂上の雲」 の坂の 向こうへつづく道
タイトルの意味が見えた

西洋近代哲学が生んだ文明が臨界に達しようとする いま
それに代わってくれる思想  「道」が何かをみせてくれそうな気がする 
と 吉田氏
して 洒脱さの極めで閉じる

【まっ、浅学の徒が、道なんてモノをこじつけようとしても、この程度ですわ。
と言うことで、先人のお知恵を拝借して締めようと思います。『この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道なし。踏み出せばその一歩が道となる。迷わず行けよ。行けばわかる。』(byアントニ……じゃなかった、一休宗純)】
2024/08/30(金) 台風


當麻蹶速{たいまのけはや}


三浦 実 軍国少年 日本男児の理想と正義
次 
1ページコラム「床几」
【坂の向こうにつづく道
 HP奉公人吉田翰玄{ふみはる}】

吉田氏  アポとった記憶ない
どなたかの紹介か 記憶ない

改めて  二十五年ぶりの讀む
タイトル 坂の向こうにつづく道  とは
「坂上の雲」 の坂の 向こうへつづく道なのだろう
文中に そのような文はなにもない
比喩に長けた御仁だ

冒頭 いきなり 『日本書紀』
【「四方{よも}に求むに、豈我{あにわ}が力に比{なら}ぶ者有らむや
何{いか}にして強力者{ちからこわきもの}に遇{あ}ひて
死生{しにいくこと}を期{い}はずして
頓{ひたぶる}に争力{ちからくらべ}せしむ
時代小説というお題を頂戴して悩みました。無い知恵絞りました 知恵熱が出そうです。】
洒脱だ

【で、挙句、思い浮かんだのが、夢枕獏著「本朝無双格闘家列伝。
その中に 『日本書紀』の當麻蹶速{たいまのけはや}と野見宿禰{のみのすくね}
の闘いを題材にした話がある。わたしも夢枕氏同様、蹶速の「死生{しにいくこと}を期{い}はずして、頓{ひたぶる}に争力{ちからくらべ}せしむ」の言が、彼の慟哭に思えてシビレました。これぞ「時代小説」の浪漫。】

HP奉公人吉田翰玄 検索しても出てこない
HP奉公人と名乗りながら
Google  Wikipedia圏外の御仁であろうか
何者であろうか

全文 掲載したいほどだが そうもゆかぬ
つづきは 次回で

−−−−−−★−−−−−−
夢枕獏氏 UWF援護射撃のインタビュー 座談会によく出ていただいた
「格闘技通信」とタッグを組み 時代と格闘した御仁だ
2024/08/28(水) 晴れ


“美”


柴田錬三郎
 『大菩薩峠』 机{つくえ}竜之助 念頭に書いたと云う
 『眠狂四郎』 

転びバテレンと武士の娘のハーフ
劍を円を描くように大きく回し 相手を誘い込んで斬る
アノ 円月殺法

映画  眠狂四郎 → 鶴田浩二  東宝(1956〜195)
当たらず
大映京都 眠狂四郎 →  市川雷蔵 (1963〜1969)
大当たり
その後 松方弘樹 当たらず
『眠狂四郎』 → 市川雷蔵 なる

シバレン(柴田錬三郎)
なぜ 転びバテレンに犯され生まれた子 にしたのか

シバレン 徴兵検査 乙種第三 召集 逃れるが
二年後 衛生兵として召集
輸送船で南方へ派遣される途中 米潜水艦の魚雷に遭い乗艦が撃沈
七時間漂流 奇跡的に味方の駆逐艦に救助される

シバレン 
敗戦国日本生きるに 
眠狂四郎になれとも云いたかったのか

『眠狂四郎』 と共に 大映の二枚看板となる 『座頭市』
原作 子母澤寛{しもざわ かん}  原作は 仕込み刀ではなく長ドス

映画化 三隅研次ら監督によって新たな人物像に
さらに 勝新太郎によって脚色・肉付けされる 

三浦氏
【人は、なにを“美”と感じるのかで、その人の生き方が大きく違ってくるように思う。美は理屈でない。その人間の真情であり、真情を基とした行為である。
たとえその行為がつたなくとも、時代に合わなくとも、そして古びていても、美は美であり、“美”と感じるか、感じないかは、その人間が祖先から受け継いできた遺伝子、感性、それに環境によって育成された感受性としか言いようのないものがある。
そんな私がここに挙げたい名品の一つがある。 】
三浦氏が挙げたのは
子母澤寛 『新撰組始末記』

子母澤寛の祖父 上野・彰義隊で闘い 五稜郭で闘い 
敗れのち北海道・厚田村へ
祖父の手ひとつで育てられた子母澤寛
賊といわれた祖父の無念の真情を 『新撰組始末記』に注いだ
讀賣新聞在社中 休日 十二時間も記者に揺られ京都へ
新撰組隊員を知る古老たちを訪ねた

机竜之助も 眠狂四郎も 好きになれなかった三浦氏 
近藤勇 土方歳三らに“美”を感じた

−−−−−−★−−−−−−
TVドラマ  『新撰組始末記』 (1961)
よく観たなぁ〜
近藤勇 → 中村竹弥 
三橋美智也の主題曲「あゝ新撰組」 良かったなぁ〜
♪武士という名に 命をかけて 新撰組はきょうも行く
レコード抽選にてプレゼント
当たる 届く あのペラペラのやつ
テレビ応募とやら これが最初で最後

ちなみに 母方のご先祖さん 幕臣
父方 越後長岡藩主 縁者
ともに戊辰戦争 敗者 賊軍
2024/08/26(月) 晴れ


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