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中村泰三郎 試し斬り速度 00.8秒


中村泰三郎 当時 七十歳
全日本抜刀道連盟/全日本戸山流居合道連盟会長/中村流抜刀家
津本氏 まず見せられたのは
茶碗ぐらいの太さの青竹をポンと置くなり
袈裟懸け 角度45度に斬る 上半分が飛び 下半分は立ったまま
次に 巻藁 左右袈裟斬り 左右上方斬り 
横から一文字斬り 一瞬に巻藁が宙に飛ぶ

米國の映画会社 撮影
拳銃の早撃ちチャンピオン0.3秒
試し斬り速度 0.1秒ぐらいと思いきや
高速度撮影したら写っていなかった
中村泰三郎の振り 00.8秒 撮影者 驚く

次に 大きな板の上に 特大の巻藁 二つ重ね 一刀両断 
一個で人間の胴 一つ

ここから 中村泰三郎に促され 津本氏の巻藁初体験
「斬れると思って斬る 斬れないと思ったら斬れない
茶巾しぼりで 手の内を締めて」
パーンと下の板を叩く音だけ 何の抵抗もない 空気を斬った感じ
次は二つ重ね これまた空気を斬った感じ
中村泰三郎 初めてにしては大したもんだ 剣道高段者でも 斬れる者は少ない

剣道で 津本氏の相手は面を打たれると目から火がでる
小手を打ったら晴れあがる
皆から嫌われたと笑う
でも 抜刀ではそれがいいんすねと

中村泰三郎 今度は巻藁を 
剣道では横面しかやったことがない
刀身が巻藁に食い込んで 刀が5mmほど曲がった

次は 豚を斬ることに
つづきは次回

−−−−−−★−−−−−−
剣道をはじめる前 抜刀道場へ
模擬刀で型の稽古 半年ほどして 初めて真剣で巻藁斬り
真剣を持ったのは初めて
天然理心流十代 平井泰輔師範 何と云ったか覚えていない
右袈裟斬り 斬れた 巻藁上の方が床に落ちた

ガキ大将の頃 チャンバラで何人も斬った
巻藁 子分どもに見立てたのか 定かでない
2024/07/09(火) 晴れ


日本刀の斬れ味


津本陽
サラリーマンを辞め 三十半ば 郷里 和歌山市に帰る
大地浦 伝統捕鯨を材に『深重{しんじゅう}の海』で直木賞
剣豪小説でなく純文学
受賞後  実在の紀州藩士をモデルにた 『闇の蚊龍{こうりゅう}』
読んだ河口松太郎 『オール読み物』編集長へ
「津本陽に剣豪小説書かせろ」とハガキ

前田 → 『隼人の太刀風』『明治撃剣会』『塚原卜伝十二番勝負』 など
立て続けに出されましたね
前田 読んでいたんだ

津本氏 剣道は子供のころからやっていたが
日本刀で斬ったことなかった
(後述 子供のころ 進駐軍に没収される前 家にあった脇差で庭木を斬りまくった)
巻藁とかの抜刀はしたことなかったとの意味だろう)

薪割りの経験はある
剣豪小説を書きはじめたとき
斧で薪を割る瞬間の手ごたえ ぎゅつと粘りがある 
そこをバーンと叩く
そんな手ごたえを書いた

山本七平 「日本刀は斬れない」と どこかで書いていた
前田 ここで補足 「陸軍が配給したモリブデン製の量産された軍刀」 
コレ MCの筆入れだろう

『小説・新撰組―虎狼は空に』を書きはじめた頃(昭和59年)
剣豪小説を書きはじめて四年目ほど
日本刀の斬れ味を知りたくなる

文藝春秋の編集者に 「日本刀の斬味を試したい」と何気なく
何を斬るかとなって
巻藁とか竹じゃなくて 生き物を斬った方がよいということに
津本氏 新撰組史料にあった
土方歳三が催した 罪人の遺体 試斬会を思い出したのではないか
豚の腰から膝までの片腿(18s) 車に積んで向かった先が
中村泰三郎

つづきは 次回

−−−−−−★−−−−−−
拙者 津本陽 『下天は夢か』 しか読んはいなかった
読んでいたのは藤沢周平
他は司馬遼太郎 『梟の城』『燃えよ剣』

なぜ 時代小説  取り上げたか
そのときの 気分だったのだろう
時代の空気(精神) 読んだのだろう
サムライ・イレブン サムライ・ジャパン
が流布したころだった
2024/07/07(日) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


都知事選挙戦も あと二日

あのときも 7月も暑かったな〜
東京 7月平均気温 28.5℃ 最高気温 38℃

二十三年前
熱中症  熱中症 と大騒ぎすることなかったな〜 
2024/07/05(金) 晴れ


自画自賛


十ノ巻 
【時代小説礼讃!懐に時代小説、心に日本刀】
論客対談 津本陽

≪『時代小説』とは、特定の時代や時代背景を舞台にした小説であり、
物語の中でその時代の風俗や文化、歴史上の出来事などが描かれます。
一方、『歴史小説』は、歴史上の実在の人物や出来事を基にした小説であり、
その時代の歴史的な背景や事実に基づいて描かれる。≫

こんな後出しジャンケンの杓子定規の区分けなどどうでもよいが 
ここでは「剣豪小説」とした方か的確だった

論客対談 津本 陽
【礼讃!懐に時代小説、心に日本刀】
よいキャッチコピーだ 自画自賛

論客対談のタイトルもよい
【歴史の流れよりも ひとりの男の夢を追う ――津本流極意】
自画自賛

◆編集部前口上
「時代小説を読む」をやろうとなったとき、歴史小説と時代小説の定義が問題になった。
出版社の時代小説、歴史小説と銘うったシリーズ刊行物を見ても、その区別は定かでない。そうか時代小説の代表的なものが歴史もので、剣豪、捕り物、市井ものは時代s小説の一ジャンルだと納得。
前置きが長くなった。剣豪、歴史ものの大御所にご登場願った。我が編集長は大のファンである。池波、司馬、藤沢ら巨星が逝った今、津本陽氏が追う任は大きい」

最初に「編集部前口上」を読んでいたら 前置きは不要であった
編集部・拙者よくわかっていたのだ  
自画自賛

時代小説を読むをやろうと前田に告げつると
では 対談は津本さんをと前田
大御所に どうアポとったか記憶ない
名文の依頼書 送ったのだろう よくぞ出ていただけた
自画自賛

自画自賛は 胸の中に収めてきたが
寄る年波には勝てずか しゃあしゃあと吐く(笑)

第一中見出し
「日本刀の斬れ味を試す 人間の胴は巻藁一本」

つづきは次回に
2024/07/04(木) 晴れ


四次元


♪探しものは何ですか?
見つけにくいものですか?
カバンの中も 机の中も
探したけれどみつからない♪

手元にあった
武道通信九ノ巻
見つからない
机の上も 別書斎にも
消えた…………

よくある <ものわすれ>ではない
しまう場所を変えると 見つからなかったり
よくある
半月 一ヵ月して見つかる よくある
この手でない 消え方である

結論
異次元へ飛んでいった
「幅」「奥行き」「高さ」の三次元でない 異次元へ

素粒子の世界では この世の世界は四次元
「幅」「奥行き」「高さ」に加え
四番目の次元として「時間」 

この「時間」 いまある時間だけでなく
過去をも行き来するのではないか
<記憶の引き出し>も四次元の「時間」か

九ノ巻 刊行の平成十二年へ
飛んでいったのだろう

仕方が無い  次回
十ノ巻 【時代小説礼讃!】へ参ろう
2024/07/02(火) 晴れ


火葬場の煙


パイプの紫煙  
早朝の無風の中 漂っていく
木々の葉を揺らす風は見えないが
紫煙 漂わせる  大気 流れている

どこかの映画 こんなセリフ
「煙草は人と同じ 煙になって値打ちがわかる」
拙者の火葬場の<煙> 値打ち ナンボだろう

土葬文化のニーチェ パイプ吹かしていただろうか
もし 吹かしていたら
パイプの紫煙に 何をみていたのだろうか
紫煙は消えていくが また吹かせば 漂う
 「永遠回帰」  「永劫回帰」
インスピレーション したのではないか

ニーチェ
煙になった値打ちなど どうでもいい
煙になったあとの評価など どうでもいい 気にするな
いまの一瞬一瞬を充実させて生きろ と

このセリフ
その昔 武士が《禅》から みつけたセリフだった
火葬場の<煙>など気にするな
いまの一瞬一瞬を生きろ
2024/06/30(日) 晴れ


切亜断欧


前回述べたのは 中見出し一
西尾版「ツアラトゥストラ」  
中見出し二  切亜断欧の孤独
では こう記している
古代から日ノ本にとって文明の師匠であった支那の原理を
法家の冷酷な厳罰主義と見る
近代以降 日ノ本の目標であった西洋の その闇の原理を
三百年にわたる軍事革命と独善的な審判思想に見える

その上で
戦前戦中の空虚な理想――東亜一如とか五族協和等々――
を排することでアジアとの観念的な結びつきを切って棄てると同時に
戦後の空虚な理想――平和主義とか平等な市民社会等々――
をその背後にある国際社会のパワーポリティクをあばくことで断罪し
もって福沢諭吉の「脱亜入欧」ならぬ「切亜断欧」を説いて
孤立無援の戦略的立場を築こうと云う

それのみ 支那と欧米の闇の原理を抽出してみせるだけでなく
日ノ本人の漢意{からごころ}をあえて打倒するため
みずからが その闇の原理 西洋の闇の原理を身にまとってみよ
とまで云う
とりわけ西尾氏 筆が勇みたつのは
日本と韓国/朝鮮との近代史うぃ捉え直そうとする章においてである

【小杉 → 「彼ら西欧人の冷酷無比な、しかしも合理的な、それでいて異民族に恩恵を与えているようなスタイルをとりながら、さらに文明のオブラートで上手に包み隠して、あたかも上位文明を与えてやっているんだから、かかる処置は当然だといわんばかりの対応をして、利益を収奪しながら恬{てん}として恥じないスタイルは少し見習ったらよい」とか、「イギリス人の、自分の悪をもどこ吹く風と受け流す飄々とした語り口を身に着けることである」とか、「アメリカ人の、自己主張すべきときはなんのためらいも、けれんみもなく胸を張って自己中心の世界像を描き出す物怖じしない態度を学ぶことである」とか言うのがそれである。】
−−−−−−★−−−−−−
USA 「東京裁判」 独善的な審判だったとの謝罪声明
出すの いつの日か

「安楽死」は神に背く行為だったが
どこ吹く風と受け流し
オランダ/ベルギー/ルクセンブルク/スイス/カナダ
そしてUSA(6州)  「安楽死」OK

いまの世の日ノ本 文明のオブラートで
「安楽死」させた医師は殺人罪
2024/06/28(金) 雨


自由であることに耐えつつ

本稿 読者から
<ニーチェが「ツラトゥストラはかく語りき」を書いた家>
との写真が送られてくる
「数年前、スイスのリゾート地、サンモリッツに行きました。
そこから少し離れた小さな村にニーチェが「ツラトゥストラはかく語りき」を書いた家が残っていました。すぐ裏が山で目の前が湖です。空気が冷たく清澄で、太陽がとてもまぶしい土地でした」

白壁と明るい土色の屋根 白い煙突
九部屋ある ベランダに真っ赤な花
入り口のドアから長い白い石畳
背景 木々に囲まれている 
民宿といったところであろうか 
このどこかの部屋にニーチェ 滞在した
いま ニーチェの記念館、「ニーチェハウス」となっている
多くの観光客 訪れるのであろう

−−−−−−★−−−−−−
【小杉 → その意志とは、西尾氏が本著で繰り返し強調するとおり、中国と欧米に対する日本人の漢意{からごころ}をあえて打倒せんとするバッションであるが、この心情は、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』において、生命の混沌としたエネルギーであるディオニュソス的ものを現代に甦らそうとして、ソクラテス以降の論証的な知のいとなみであるアポロン的なものあえて打倒しようとした意気に通じるし、その際、ニーチェがとった態度、すなわち従来の古典文献的な研究態度から神話的な認識方法への転換もまた、本著の縄文文化や日本語の成立をめぐる一連の考察の中に生かされているのである。】

補:
ディオニュソス → ギリシャ神話で、酒の神。もと、北方のトラキア地方から入ってきた神で、その祭儀は激しい陶酔状態を伴い、ギリシャ演劇の発生にかかわるともいわれる。(英語 → バッカス)
アポロン → 古代ギリシアで崇拝された芸術と知識の神

【小杉 → 西尾氏が、本著を締めくくるあたって、ついに神仏を「信じることのできない時代に立ち至った、人間の悲劇の前で立ちつくしている自覚をもって、閉じなければならないのは遺憾である」、と述べたのは、苦渋の認識をのみこんだ人間に特有の恥じらいが、そう言わせたのであって、彼の真意はその直前の文にこめられている。
すなわち、存在の根源的不安に抗して、自由であることに耐えつつ、毅然と立っていられる人間になろうではないか、という秘めたる呼びかけがそれである。その自覚に立って、人間に神になれと要求したツアラトゥストラの「超人へのいざない」が『国民の歴史』をつらぬく通奏低音なのである。それを大仰に奏でないところに、近代人の含羞{がんしゅう}がある。】

−−−−−−★−−−−−−
西部邁{すすむ}氏
「武士道というは死ぬこことみつけたり」に
近代人の含羞などなく
《存在の根源的不安に抗して 自由であることに耐えつつ
毅然と立っていられる人間》をみた
十三ノ巻
特集 武士道とは― 現代日本のモラル・マインドを求めて  
●生命は虚無の根 ――それを断たんとした武士道の冒険
西部 邁
2024/06/26(水) 晴れ


『ツァラトゥストラは かく語りき』


小杉英了さんの『国民の歴史』  
書き出しの一句
【一言でいって本著『国民の歴史』は、西尾幹二氏の『』ツァラトゥストラ』である。】

ツァラトゥストラとは?

日ノ本歴 鹿鳴館落成した明治一六年 
ニーチェが書いた 小説仕立ての哲学書の主人公
山奥に住んでいたツァラトゥストラ
下山し  人々に語りかける

題名 『ツァラトゥストラは かく語りき』
語る その一つ 「ルサンチマン」
「妬み」や「そねみ」だけでない
このルサンチマンこそ <神>を作り出した原因だと云う

その二つ  「ニヒリズム」
日ノ本語訳 「虚無主義」
ツァラトゥストラの「ニヒリズム」
<この世に絶対に正しいもの 絶対に良いと思うもの
そんなものは何もない>
ニヒリズムを脱却する過程で出てくるのが

その三 「永遠回帰」
この世界 全てのも 大いなるものも 卑小なものも
まったく同じように永遠にくり返される

キリスト教的な時間
始まり(天地創造)があり 終わり (神の国の到来)があって
歴史はこの終点を目的として進行する
だが ツァラトゥストラ
永劫回帰する世界には それ以外の世界はなく、
そこには始まりもなく終わりもない
時間を直線で考えるのではなく 円環と云う

彼岸的な神 神の国 この世ではない理想の世界があるならば
それが人生の目的となり 人生の様々な物事は意味を与えられる
しかし 永劫回帰 到達すべきものはない 究極目的もない
いかなる世界内の物事も意味 価値もない

ツァラトゥストラ 思案する
全てのものは無意識に力の及ぶ範囲を拡大しようとしている
(コレ 宇宙の法則)

永劫回帰を乗り越えるのはこれだ
「超人思想」だ
虚空に一人立つ意志の力だ

−−−−−−★−−−−−−

虚空に一人立つ意志の力を持つ者を
都知事選立候補者掲示板から探す…………
2024/06/24(月) 晴れ


虚空に一人立つ意志の力


【ホームページ掲示板「思考の無名刀」
私たちは『国民の歴史』をこう読んだ
■西尾幹二著『国民の歴史』への感想が寄せられました。ご紹介します。】

小林よしのり氏との論争もあり
掲示板に多くの意見が投稿されたのであろう
さて 投稿ページの前に掲載された
小杉英了さんの『国民の歴史』

【『国民の歴史』を読む
秘められた意志
――ニーチェを思わせる虚空に一人立つ意志の力を人々の心の中に呼び覚まそうとした「超人のいざない]」が『国民の歴史』」をつらぬく通奏低音である。】  

小杉さん  二ノ巻から三/四/五/六/七/八と
寄稿いただいている  
三島由紀夫にも東洋思想にも教育思想にも織田信長にも吉田松陰にも民族の思想にも触覚を伸ばしておられるからだ

ルドルフ・シュタイナー研究家として ニーチェも“通過”している
そう 「通奏低音」 
小杉さんの原稿で初めて出会う

小杉さん 十二年前  小説を書き 霊を扱う何とか賞 受賞
本 送られてきた記憶
その後も 霊に関する小説 書いておられるようだ

小杉さん  巻末 こう閉じた
【私自身は、『国民の歴史』」の観点に、全的に賛同するものではない。
けれども、ニーチェ没百周年にあたる二〇〇〇年の今日、本著をニーチェの思想を
ふまえて読むことの意義は、限りなく大きいと思うものである。】

西尾幹二氏にニーチェを重ねる

つづきは次回
2024/06/22(土) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


きょう 武道通信かわら版
6/20 2024 通算574号 配信日

きょう 東京都知事選 公示日
立候補者 何人になるのか

あの 富士見通りに入る
三井住友銀行 前の候補者ポスター板
貼り切れるのであろうか
2024/06/20(木) 晴れ


弓馬の家


高校に入って 弓道部
高校 前身は父の旧制中学 
同じ弓道部 入れとは云われてなかった

一年生 毎日 千本浜 ランニング
弓道場では 的場(安土{あづち})の脇で
「あたり!」「はずれ!」の掛け声だけ
いつになったら弓 持たせてくれるんだ
で ヤ〜メタ
「巻藁三年」なんて言葉あること
四十半ば 弓道場の門くぐってから知った

多少 和弓と関わった拙者が 
軍学者の言葉 くだいて綴る

和弓のはじまり
上下で弾力生が異なる一本の木でつくられていた
根元の方が太い 先は細い
ゆえに 弓を持つ左手 弓手{ゆんで} は
下から三分の一のところ

平安の世になり
竹と木を合わせつくれるとうになっても
弓手の位置 下から三分の一

いまの世 グラスファイバー製/カーボン製も同じ
かつての武士のプライドを守りつづける
記憶の遺伝子を守りつづける

初の国産銃 村田銃の村田経芳{つねよし}
弓を研究 分析
強弓の遠射  全く当たらぬ
むかしの実戦鏃{やじり}  いまの的射用より矢先が重い
強弓で近距離を射たものと結論

元寇
大陸の騎射戦  一定の間合いを保つ
日ノ本の海岸線ではそれができなかった
日ノ本軍が接近戦を挑んできたので
元軍は二度とも陸営を嫌い 海上へ碇泊
海上に間合いをとった

支那 宋の世の著 『射経』
日ノ本の狩猟式射術
「相手に近づいてから発するので射た矢はすべて当たる」

軍学者
弩の製作に必要べからざる魚の膠{にかわ}
この膠の接着剤 連射していると軟化  威力が弱まってくる
高温多湿であるほど進みが早い
元寇の射手も同じだっただろうか
しかし 軍学者 それが第一の理由でないと

【兵頭  → もともと縄文以来の日本の風俗は、東北地方と北海道においてもなぜか「南国風」だ。何かはっきりしない理由によって、それが長弓による狩猟のスタイルと神話的だった。その長弓による狩猟者が、日本の武士の根源であり、それが中央貴族に対するほこりであったからこそ、わが国では、武家は「弓馬の家」、武士は「弓矢とる身」と自称して、元寇の頃までは、武士の「表道具」は刀や長柄でなく、弓(和弓)だったのである。 】

※月曜(17日) UPするつもりだった 失念
  健忘症に非ず
2024/06/19(水) 晴れ


和弓こそ 武士のプライド


軍学者 こう断言する
【兵頭 → 日本の武士は、昔からの和弓の外観とスタイルを、決して捨てようとはしなかったのである。それはあまりに古くより、日本武士の自己イメージと不可分のシンボルだったのだ。
彼らのプライドは、刀剣でも馬でもなく、自己の身長よりも大きくて、遠くからよく目につく、和弓を以てするサービズ(職務としての役務提供)の中にこそあった。だから鉾や長刀が廃れ、元寇以後に槍が採用され、「種子島」が普及しても、和弓のスタイルだけは不変だった。】

実は 奈良朝以前に 支那式「合成短弓」  導入されていた
2メートル20センチの和弓 馬上から前方 右側を射るのは難しい
左側を射る場合でも 墝{き}んだ弓元が馬に接触する恐れがあるから
射手は馬上で仁王立ちしなければならない 短弓ならそんな面倒は一切ない

歩兵用の「弩{ど・いしゆみ・クロスボウ}」も 導入されていたはず
しかるに 歴史的事実はどうか?

紀元前四世紀 支那でつくられた弩
日ノ本 壬申の乱(672) 弘文天皇側で初めて使われた
藤原広嗣{ひろつぐ}の乱(740)  双方 弩 使う
大宝令 「続日本紀」以後 正史に記されている
対大陸防備用 東北・蝦夷の騎射に対抗するため
後年にも弩手の増勢が進言されている

しかしだ
坂東武者の鎌倉の世以降 いかなる記録にも出てこない
現物も伝わることはなかった

鎌倉の世 中ごろ二度の元寇
元の射程200メートルの短弓 威力が半分のない長弓の武士を射すくめた
しかし 役後 大量に残されたはずの
その強力な短弓の構造を武士は模倣しなかった
むろん技術不足からでない

和弓は 日ノ本武士の自己イメージと不可分のシンボル
古代の記憶の遺伝子か

−−−−−−★−−−−−−
「それはあまりに古くより…………」
狩場 背丈以上の葦に覆われていた頃
長弓は 狩人の相打ちを避ける目印となった
その昔 軍学者 どこかで書いていたような気がする
2024/06/15(土) 晴れ


日ノ本武士 戦闘流儀


【「和弓」――日本の武士の誇り】
斎藤 浩(作家)
軍学者の本名
九ノ巻 連載併せ“三本立て”
 
まずは 軍学者の博学 披露
米國で『火器の誕生とヨーロッパの戦争』(1997)
武道通信 発刊 一年前だ
東洋の武人には西洋の騎士のように接近格闘を尊ぶ文化はない
遠距離からの弓射が好まれると記している
これに感化された日ノ本研究家
日ノ本で鉄砲が速やかに普及したのは日ノ本の武士にも
アジア型「遠距離志向」があったからだと
軍学者 常に 軽率/短絡の学者を嗤う
軍学者 異国の文献も鵜呑みにしない

貴族の「決闘」 剣から拳銃にシフトしただけ
ウィリアム・テル ロビン・フット
長弓特異とする永遠のヒーロー
アジア型「遠距離志向」 支那兵 ベトナム兵に認められる

日ノ本武士 戦闘流儀
できるだけ相手に近づき 敵の反撃武器の一歩外側から
正しく敵の急所に矢を射込むことであった

これは比較的初速の低い「長弓」をもってする上古の猪/鹿猟のスタイルを
そっくりそのまま人間相手の戦争に応用していたのだ

−−−−−−★−−−−−−
そのむかし 弓道道場入門
年配の先輩 曰く
射位から的場の距離
城の堀の幅の長さ
もっともらしい うまくできた作り話

射位(射手)から的までの距離28メートルと決められたのは
戦前 武徳会 十五間半が全国基準となった
その根拠はどこからであろうか

そのむかし 合戦では槍隊と弓隊が一緒に動いていた
して 槍隊の後ろに 弓隊が陣取る
槍隊 三間槍である
繰り出して三間 繰り込んで三間 都合六間
双方あわせて十二間の間隔が必要
弓隊 その後ろに陣取るから 標的の敵は十五間としたわけだ

『日置流弓目録第三十七條 槍脇射様の事』とある
城の堀の幅の長さでなく
自陣と敵陣の弓隊の距離であった

−−−−−−★−−−−−−
父 武徳会弓道大会(京都)
いまで云えば インターハイか
父 丁度 弓 引き絞った「会」のとき
皇太子(今上上皇) 御観覧 で太鼓打たれる
外してしまった
あのとき 太鼓が打たれなかったら……
2024/06/13(木) 晴れ


日本史は朝廷のサバイバル・ポリティクスの歴史


軍学者 騎士道と武士道の違い
騎士道 → ゲルマン的な尚武の気質 
キリスト教という宗教的権威によって矯正されてきた
武士道 → 古代的な野蛮/殺伐を
政権外部の宗教的権威でなく 一貫して朝廷自身が文教政策によって矯正してきた
これはi支那の政治と儒学との関係とも異なる
朝廷外武力の蛮風を抑制し馴致していることは
現代の日本の史学者も真に認識していない

【兵頭 → 朝廷による「武家」馴致の最初の試みは、聖徳太子による仏教の輸入だ。
古代的武家であった物部守屋がこれに反対して、かえって誅伐を受けた。が、
この事件は、宗旨{しゅうし}争いなどではない。事と真相は、物部氏のような狩猟/戦闘者気質の保存継承者を、朝廷が仏教を鞭にしていよいよ矯正・馴致に乗り出したのだった。朝廷による仏教製作のターゲットは初めから物部氏であった。それなればこそ
守屋は、自家伝統のエトスに殉じなければならなかったのである。】

平安の世も末 近畿の武家 大分公家風に懐柔される
が 奥州の安倍頼時/貞任父子 まだまだ原始武家的なビヘイビア(振る舞い)残していた
『古今箸聞集』 安倍貞任と討手の源頼義との間で和歌の上の句下の句のやりとりがあった
コレ 京都公家の誰かの作り話
たとい奥州だろうと坂東であろうと和歌が詠めるような者でなくば立派な武士ではない
いや 日本人とはいえない という文教宣伝
戦国末の太田道灌説話も 同様な意図によって文化人グループがこしらえた
*ガッコのセンセイ この逸話 得意げに教えていたな
 記憶に引き出し 開く

軍学者の話 最後まで聴くことにしよう で この項 おしまいしとしよう
【兵頭 → 和歌には、季節の花鳥や、きまり切った名所を詠んだ定形的なものが多いが、その定形的感受性で万民を包絡しようとする国民情緒統一の政策こそ、朝廷が『古今集』編纂いらい一千年以上おしすすめている文教事業の真髄であろう。
鎌倉三代将軍実朝がすっかり公家文化に籠絡{ろうらく}されてしまったこと、この流れに反撃した北條氏が三上皇を島流しにしたことなどなど、日本政治史は「和歌文化」対
「狩猟/戦闘文化」を中心軸として振子が動いている。
仏教も儒教も、その二文化角遂{かくちく}(競り合う)の道具として利用されているにすぎないのだである。見方を変えると、日本史は朝廷のサバイバル・ポリティクスの歴史である。 *サバイバル・ポリティクス→戦略的自己防衛とでも訳そうか
表面的武力の所在だけを追っても、この日本国の文化的連続性は掴めない。
たとえば対米開戦前の御前会議で昭和天皇が「四方の海…」と明治帝の御製を郎詠した意図は何だったか。それは真珠湾以前において既に敗戰のときに備えたアリバイ作りをしたものに他なるまい。しょせん朝廷和歌文化の手先にすぎない小説家・文人に、宮本武蔵の純粋戦闘者のエトスを言語化した『五輪書』が理解できないのも、考えてみれば当然なのであった。
徳川時代は、和歌文化が狩猟/戦闘文化を最も長く馴致し得た時代となるが、そのとば口にあって武蔵は、自在自得の野蛮な戦闘文化のエトスを捨てることを拒み、和歌文化に拮抗するテキストとして書き残してみせたのである。それが西国熊本で完成したのも、きっと、偶然ではありえない。】

−−−−−−★−−−−−−
『精解 五輪書 宮本武蔵の戦闘マニュアル』 兵頭二十八著(2005刊)
一年前刊の『あたらしい武士道: 軍学者の町人改造論』につづき
拙者 新紀元社に売り込んだ
軍学者 (『ヤーボー丼』に綴った武蔵の技を映像化したかった
拙者のブレーン 佐山聡/田中光四郎/鎖帷子剣士に演じていただいた
2024/06/11(火) 晴れ


説明言語


軍学者 語り続ける

 『ヤーボー丼』で 『五輪書』の解義は書き尽くしている
以下 本稿 宮本武蔵を日本政治思想の中で
どう位置づけるか これについて愚見を述べる

「武蔵」の名 いつ ついたのか
森鉄三{せんぞう}『宮本武蔵言行録』(昭和十五年)
父・無二斎{むにさい} 播磨國宮本村 剣法家
その子に 「弁之助」 と名づける
当時の軍記モノ 謡曲のヒーロー「武蔵坊弁慶」にあやかった
生長した後 武蔵と改名したとの森説 軍学者も同意

武蔵坊弁慶の名の謂{いわ}れ
生まれも育ちも近畿地方だが
荒々しい「ますらお」は東国から来る との京都人のイメージに便乗
古墳時代 人骨 東国の方が大きい
「ますらお」に「丈夫」の字が当たられたわけ

宮本村の武蔵の名乗りには
 「丈夫」「野蛮で洗練されていない戦闘者」「鎌倉武士」のイメージを
ことさら自己に重ねようとする気持

軍学者  『五輪書』のオリジナル・テキスト 
昭和前期の日本人の文章よりもはるかに讀みやすいことに驚いたわけ こう解釈する
武蔵 近畿から東以降では門人 つくれなかった
武芸者は東から西に上る その逆だと言葉づかいからして壁があった
武蔵には柳生家のような将軍家指南は無理だった
加えて「翻訳知識」を排した武蔵
外交 戦争準備 行軍その他「大分の兵法」を領主達に教えることができなかった
だから
巌流島の決闘以来 将軍や大名のお抱え兵法者として直接剣を持っての立会いを
拒絶されるようになる
その失意の放浪生活中 自分の会得している剣術を理論家しようとする
あらゆる職業/芸能を見学して「説明言語」を探した

それは 何であったか
それは 反和歌文化の日本文であった
次回につづく

−−−−−−★−−−−−−
武蔵の「説明言語」とは
頭の中で考えていることを 手/足の動きに変換する
武蔵があらゆる職業/芸能を見学/体験し 理解たのではないか
拙者の愚見を述べる
2024/06/09(日) 薄曇り


空前絶後の独立峰


宮本武蔵  十七歳で関ヶ原合戦
二十七歳  巌流島 佐々木小次郎
三十一歳  大阪夏ノ陣 冬ノ陣 諸説あるが 武蔵自信の記述無し
五十七歳 島原ノ乱 
それはともかく 馬上立身を願いつづけたがたが夢 叶わず
六十歳  『五輪書』  書き始める
二年後  九州熊本にて没する

火器全盛時代にあえて太刀にこだわり
軍学者の言葉を借りれば「太刀の徳を説いてやまず」

【兵頭 →  刀剣兵法だけで実戦を生き残り ほどほどの地位も得た片手刀術の「マスター」でもあった。さらには、自分が獲得したテクニックを秘伝めかさず日本語で完全マニアル化することを実戦した。これは、術すら極めずに道ばかり説くインチキ師範の対極であり、術{みち}を極めているからそれを道{言語}にできるのである。】

西洋近代科学に最も近いところに居た専門技術者
<吉川英治武蔵>とは別人であると 軍学者 断言する

軍学者  『五輪書』のオリジナル・テキスト 昭和前期の日本人の文章よりもはるかに讀みやすいことに驚き、『二天記』『小倉の碑文』なども参照した結果、武蔵の生涯、馬や甲冑への執念を強く持っていたことに注目した
軍学者 武蔵の剣法 二刀流といいながらも
片手馬上術の要素が濃く 足さばきを問わぬのもそのため
と推論した
(『ヤーボー丼』(1997)に一筆)
武蔵 最晩年に至もも「大身(大名)」になりたいとう自己の要求 
誤魔化そうとしていない

 『五輪書』  「武士の兵法をおこなふ道は、……主君の為 我身の為
名をあげて身をたてんと思ふ」
いったい このどこが「禅」であるか

武蔵にやや前後する柳生但馬
禅僧沢の己の本心や才能/地位などをつつみ隠す技を借り  
山鹿素行が宋の世の儒教の理論を無理にこじつけた兵法に武人論理学的な
装いをまとわせたこととは
同一に語ることはできない
宮本武蔵
日本思想史上 空前絶後の独立峰であった

−−−−−−★−−−−−−
宮本武蔵
武芸者として論じれば 鉄砲時代の落伍者であった
落伍者がなぜ 時代を突き抜けた

宮本武蔵
今日的テーマでありつづける
いまの世の  インターネットに接続する世の
落伍者から <宮本武蔵>が出現するやも
2024/06/07(金) 晴れ


武道通信かわら版 配信日であるが…………?

配信予約の「発行するまぐまぐ!マイページ
開いたところ、いつもの画面と違うものが
配信・予約にたどりつけない

で、まぐまぐにメールでと問い合わせ中

追伸:
<「マイページ」デザインリニューアルのお知らせ
マイページの操作性向上のため、デザインリニューアルをいたしました。>
ちゃんと讀めよ

メール 返事 来た
「マイページの操作性向上のため、デザインリニューアルをいたしました
デザインリニューアルに伴い
「反社会勢力ではないこと」に同意いただけますと
メルマガの発行が可能になります。」

武道通信 反社会勢力か?
迷ったので 同意しなかったのだ (冗談)
2024/06/05(水) 晴れ


吉川英治『宮本武蔵』


兵頭二十八 話はつづく

日露戦争後 「武士道」 関連書 巷に溢れる
大隈重信 苦言を呈する
「今日 武士道と云うものは 如何にも耳障りで絶えられぬ」
佐賀藩上士の出 大隈
「武士道」ブームに反比例し
血肉化 気質としての武士道 薄れつつあること憂いていた

長州藩士の出 乃木希典も同じ
山鹿素行の武士道関連書 書写し自費で印刷 学習院の生徒に配布

<国民皆兵> 
二百七十年間 非戦闘員づれした町人/百姓 成人男子 
皆 サムライになった された
焼き付け刃であること  大隈も乃木もわかっていた
これは 軍学者の文中にない 拙者の論

こんな時期 「宮本武蔵」 再発見される
新渡戸の『武士道』 日本に上陸 翻訳された翌年
宮本武蔵の伝記本 刊行
これを基に 立川文庫から『武士道精華宮本武蔵』
何度も判 重ね 剣豪の名 巷に流布される

ここで 昭和初期 吉川英治『宮本武蔵』
国民的人気 博す
吉川英治 国民的作家に

以後 戦後にかけて 吉川版武蔵を基に ドラマ/映画
娯楽作品なれば 美剣士佐々木小次郎などの
ディテールは面白ければいいこと
ただ一つ 吉川に罪がありとすれば
武蔵と禅を分かち難く結びつけたこと
『五輪書』 「天を排し 観世音を礼し 仏前に向ひ…………」
『貞永式目』以来 武家文書には伝統的に神仏尊重の衆辞がある
密教由来の「五輪」という概念を含め その範囲を飛び出していない

合理主義者/宮本武蔵の実像 甚だしく歪められた
もともと日本文化の主流には収まり切れない武蔵の近代思想を真正面から
解読しようとする日本人の文学者や思想家はいなくなった
では 本当の武蔵とはどのような人物であったのか
次回につづく

−−−−−−★−−−−−−
祖母 男子の孫 映画館へ連れていった
『明治天皇と日露戦争』
敗戦後少年に武士道を観せたかったのだ
2024/06/03(月) 晴れ


日清戦争 → 日露戦争


九ノ巻 特集 宮本武蔵
トップバッター  もちろん 兵頭二十八
古{いにしえ}のこと よく知る 壮年の軍学者に耳を傾けよう

日清戦争  俄然 非キリスト教徒
日ノ本人への精神的/論理的背景に興味沸騰
奇しくも 1899年(明治三十二年)  これに最初に直答したのが
農政学者新渡戸稲造
「BUSHIDO The Soul of Japan」(武士道)
米國 上流人/知識層に大評判
その名声 日ノ本に還ってくる
井上哲次郎ら人文系学者 嫉妬から批判

新渡戸も気づかされたように
それまでの武士階級 武士道とは何かを 
テキストブックをもって教えられたことはなかった

明治三十三年  おそらく旧幕臣 爪生喬 『江戸時代の武士』
「近古の侍の道は今の民の道たらざるべからず」としか
武士道の意味づけ できていない
明治三十四年刊 『武士道発達史』 足立栗園
「従来かかる研究の著書は皆無で 武士古来の状態をさへその沿革を詳らかにしたものがない」

『葉隠』 山鹿語録』などは どこかにあったろうが
私蔵書写本であった  誰もが讀める版本図書ではなかった
つまり 日清戦争の軍人の頭の中には
「武士道」などの文字は一つもなかった
文字は一つもなかったが 血肉化された何かはあった
「武士道」なる概念が頭に中にあって戦ったのは日露戦争から

以上
【日本思想史からみた宮本武蔵
和歌文化への対抗 空前絶後の孤立峰】
の前文としておこう
2024/06/01(土) 晴れ


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