■北条政子
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<御成敗式目と夫婦別姓>を考えてみる 補:夫婦別姓と選択的夫婦別姓とは どちらも夫婦が それぞれ結婚前の姓を名乗り続けること 選択的夫婦別姓は 夫婦が同姓か別姓のどちらかを選択できること
夫婦別称/選択的夫婦別姓 賛成派 よく云う 夫の姓を名乗るのが日ノ本の伝統などは勘違い 北条政子は実家名を名乗っていた それが明治以前の日ノ本の伝統 それは勘違い この勘違いの源が御成敗式目 御成敗式目では 妻は 夫とは別の財産を管理する権利があった いまの世の夫婦別称の考え方にも通じる部分から 北条政子は夫婦別称 実家北条家の姓を名乗っていたと
だが 北条政子 自分の名が「政子」なんて知らなかった 「政子」は本名でなかった その「政子」が歴史に名を残すことになったのは 当然源頼朝と結婚してからだ それでも冠される名が父から夫に変わっただけで 「頼朝の妻」と称されていた さらには将軍となった息子との関係で、「頼家の母」(愚管抄) 頼朝が平家を滅ぼし 鎌倉幕府を樹立させると 「御台所」(吾妻鏡) 頼朝の死後 出家して落飾すると 今度は「尼御台所」 さらに実家の北条氏が実権を握ると 今度は「尼将軍」という名に変わっていった
では「政子」は いつから出現したのか
建保六年(1218) 政子が六十二歳の折 朝廷(後鳥羽院)から従三位の位に叙せられた その際 記録に残すための名前が要請され 当時の慣例に従って便宜的に 父「時政」から一字もらって 「政子」と記録された
普通は時政の娘ということで 単に「大姫」(長女)とか「平氏女」とか呼ばれていた 当時の女性の名は 皇族か よほど身分の高い女性でない限り 亡くなったときにさえ 記録されることはなかった
どうやら「北条政子」は 江戸時代以後の書物に登場 それ以降に定着していった通称 ただし明治・大正の教科書では 「政子」や「平政子」は使われているが それでも「北条政子」とは記されていない
それが昭和になると 日本史辞典などが「北条政子」としたことで いつしかそれが本名だと信じられるようになった ある意味 「北条政子」は辞書用語だった
こうしていまの世では「北条政子」という名称に疑問を抱くこともなく 堂々と本名としてまかり通っている 大河ドラマでも便宜的に「北条政子」を使っているから 二重の意味で誤解を招く
−−−−−−★−−−−−− 支那と韓国では 結婚しても夫婦が別々の姓を名乗るのが原則 これは 儒教の教えや血の繋がりを重視する文化背景 でも 日ノ本は血の繋がりより《家》を核とした その文化背景をも考慮し 選択的夫婦別姓を考えよう
2025/05/09(金)  |
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