■「後を頼まれた」兵士たち
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【鎮魂の戦争論<二> ジョグジャカルタのサムライ ――インドネシア独立戦争に身を投じた 日本軍兵士の証言1995 神崎夢現{むげん}/装幀家】
そう <特攻隊>鎮魂の戦争論<一> だった 神崎さん 拙著の著書 ぜひ装幀したいと云ってくれていたが 版元専属装幀家がいたので実現できず 残念 (『刃隠』は私家版 通常の装幀料払えないので声かけず というより連絡先 消滅していた)
ジョグジャカルタ → ジャワ島の中部南岸にある州の州都 伝統的なジャワ美術の中心地 インドネシア独立戦争の時(1945〜1949)インドネシアの臨時首都
ジョグジャカルタのサムライたち インドネシアで終戦を迎える 武装解除/帰国命令を無視し脱走 五年間 インドネシア独立戦争に奮戦した日本兵士たち この脱走兵の中に “石井サトリア”(本名ではない)がいた 神崎さんの長年の友 映像ディレクター小路谷秀樹氏による 1955年春より 数次にわたりインタビュー映像を文字に起こし 神崎氏が構成したものである
ジョグジャカルタのサムライを生んだ 時代背景を語らねばならない
1941年 連合国 ABCDライン A→アメリカ B→イギリス C→支那 D→オランダを完成し 植民地解放へ向けた日ノ本の南進を食い止めるべく 防衛強化にやっきになっていた A/B/D 極東艦隊を増強 対日石油輸出を禁止 ハルノート&ABCDライン 日ノ本 座して死を待つよりは」 大東亜戦争戦争 突入
まず インドネシアの石油資源を直接確保が必至 海軍 A/B/D 極東艦隊 撃沈し 陸軍部隊輸送の安全 図った 1942年1〜2月にかけ 続々と陸/海軍 インドネシア各地(各島)に敵前上陸敢行 二ヵ月後 ほとんどの地域を占領 インドネシア国民の熱烈な協力があったからだ それは 三五〇年の耐えがたきオランダ植民地支配からの解放 監禁・投獄されていたスカルノ 日本軍に救出される 同志らと共に日本軍に協力
しかし 1943年になると 米国艦隊の反撃 わずか二個師団を残し 太平洋前線へ インドネシア 著しく手薄
郷土防衛は現地人に任せるべし インドネシア人だけの部隊設置命令が出され 幹部教育が実施 卒業した幹部将校の元に三万八千人の兵力が結集 スカルノと その盟友ハッタ(後の副大統領) 陸軍南方総軍 軍司司令官 寺内大将に呼びだされ 宿願の独立許可が与えられ 八月十四日 ジャカルタに帰還 ぞの翌日 日ノ本敗戦 終戦
2024/11/29(金)  |
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