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インドネシア独立宣言


八月十四日 スカルノ/ハッタ 
宿願の独立許可を
陸軍南方総軍司令官・寺内大将から与えられ
ジャカルタに帰還 祝賀に酔った 
ぞの翌日  日ノ本敗戦 終戦

混乱は省略

海軍 ジャカルタに武官府 設置
前田精{ただし}海軍少将 責任者に
前田少将 以前からスカルノ/ハッタと親しく
「独立塾」を開き  
インドネシア青年に愛国主義教育と軍事訓練を施していた
Wkipediaなどの知ったかぶりなどでは
<オランダ植民地政府がオーストラリアに逃亡したままという
権力の空白をぬった形で、
中央ジャカルタ東 スカルノ邸で スカルノとハッタの二人が
「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言した>

だが 事実は こうだ
前田少将が拉致されていたスカルノ/ハッタを部下たちに探し救出させ
日ノ本が財産目録としてインドネシアを連合軍へ引き渡すこと
<忍び難きを忍ばす> 陸軍の反対を押し切り
敗戦から二日後の八月十七日午前十時
あの劇的な独立宣言が行われた

《我々インド根人民は ここに独立の宣言をする
権力の移譲その他に関する事項は適切な方法により
可能な限り短時間に解決される
インドネシアを代表して スカルノ ハッタ 
ジャカルタにて 17―8−05 》
(05→皇紀2605年)
日ノ本製であった

オランダを後押しする連合軍のインドネシア開放軍げへ攻撃はつづいた
1947年 オランダは大攻勢に転じた
日本軍の武装解除 日本兵 収容所へ
しかし 日本兵脱走 インドネシア独立義勇軍へ
ゲリラ戦で抵抗
五年後 オランダ ついにキブアップ
インドネシアを共和国として認める
これがアジア初の植民地での独立であった
2024/12/03(火) 晴れ


大東亜戦争の目的は達した


週刊ベースボールの編集部にだけ テレビがあった
帰社すると 編集部入り口から黒山の人盛り
元帝国陸軍少尉・小野田 寛郎{ひろお}
投降シーン 映していた

二十八歳の元敗戦少年の胸中に由来したものは
なぜも三十年 日ノ本の敗戦を信じなかったのか

日本兵が独立戦争に身を投じたのは
インドネシアだけではなかった
フランス領インドシナ(仏印)/ベトナム/ビルマ

終戦五十周年記念 外人記者クラブ主催 
当時の話を聴こうとの企画
その第一号指名 坂井三郎さん
ニューヨークタイムス記者
「太平洋戦争 どう思うか」
そんな大きなテーマ 突然 尋ねられても困るが
ひと言で云えば
戦闘は完膚なきまでも負けるべくして負けたけど
戦争の目的は達したと思う

戦前は世界の独立国約五十ヵ国
五十年後経った いま百七十ヵ国
アフリカからアジア/南アメリカ大陸
アングロサクソン白色人種による長年 制覇されそして搾取された
ところの有色人種 全部 立ち上がった
米国さえもフィリピンを手放さざるを得なかった

【坂井 → これは日本国が大東亜戦争をやったからなんだ。
やらなかったならば、現在でもまだ白人種の制覇が続いているであろう。
それをもって侵略戦争というならば、じゃあ、それまで何百年間、
イギリスがインド、アジア、アセアンで何をやったか。
オランダなんかは本国の十五倍の植民地を持ち搾取しまくっていたではないか。昨日まで自分たちは侵略していたのに、それを排除するために現地に行かねければできないじゃないか。
それをもって侵略というなら、お前たちの何百年はなんだったんだ。…………
そう言わなければ百五十年からの我々の仲間が戦死した、その人たちにお前たちの死は無駄であったと言えるか。
そしたら石原慎太郎が壇上に上がってきて、先輩、同感ですと言いにきましたよ。】

ジョグジャカルタのサムライ つづきは次回に
2024/12/01(日) 晴れ


「後を頼まれた」兵士たち


【鎮魂の戦争論<二>
ジョグジャカルタのサムライ
――インドネシア独立戦争に身を投じた
日本軍兵士の証言1995
    神崎夢現{むげん}/装幀家】

そう <特攻隊>鎮魂の戦争論<一> だった
神崎さん 拙著の著書 ぜひ装幀したいと云ってくれていたが
版元専属装幀家がいたので実現できず 残念
(『刃隠』は私家版 通常の装幀料払えないので声かけず
というより連絡先 消滅していた)

ジョグジャカルタ → ジャワ島の中部南岸にある州の州都
伝統的なジャワ美術の中心地
インドネシア独立戦争の時(1945〜1949)インドネシアの臨時首都

ジョグジャカルタのサムライたち
インドネシアで終戦を迎える
武装解除/帰国命令を無視し脱走
五年間 インドネシア独立戦争に奮戦した日本兵士たち
この脱走兵の中に
“石井サトリア”(本名ではない)がいた
神崎さんの長年の友 映像ディレクター小路谷秀樹氏による
1955年春より 数次にわたりインタビュー映像を文字に起こし
神崎氏が構成したものである

ジョグジャカルタのサムライを生んだ 
時代背景を語らねばならない

1941年 連合国 ABCDライン
A→アメリカ B→イギリス C→支那 D→オランダを完成し 
植民地解放へ向けた日ノ本の南進を食い止めるべく
防衛強化にやっきになっていた
A/B/D 極東艦隊を増強 対日石油輸出を禁止
ハルノート&ABCDライン 
日ノ本 座して死を待つよりは」 大東亜戦争戦争 突入

まず インドネシアの石油資源を直接確保が必至
海軍 A/B/D 極東艦隊 撃沈し
陸軍部隊輸送の安全 図った
1942年1〜2月にかけ 続々と陸/海軍
インドネシア各地(各島)に敵前上陸敢行 
二ヵ月後 ほとんどの地域を占領
インドネシア国民の熱烈な協力があったからだ
それは 三五〇年の耐えがたきオランダ植民地支配からの解放
監禁・投獄されていたスカルノ 日本軍に救出される
同志らと共に日本軍に協力

しかし 1943年になると 米国艦隊の反撃
わずか二個師団を残し 太平洋前線へ
インドネシア 著しく手薄 

郷土防衛は現地人に任せるべし
インドネシア人だけの部隊設置命令が出され
幹部教育が実施
卒業した幹部将校の元に三万八千人の兵力が結集
スカルノと その盟友ハッタ(後の副大統領)
陸軍南方総軍 軍司司令官 寺内大将に呼びだされ
宿願の独立許可が与えられ 八月十四日 ジャカルタに帰還
ぞの翌日 日ノ本敗戦 終戦
2024/11/29(金) 晴れ


おかあさん かあちゃん おふくろ


田形氏 郷里は福岡の太刀洗飛行場から二十キロ
筑後川上上空で飛行訓練が行われていた
日頃聞こえる爆音をきっかけに八歳の田川氏 
パイロット 夢見た

【田形 → 私が飛行機乗りになりたいと言ったとき
母は「飛行機乗りは長生きできないが それでいいか」と問い、
「飛行機乗り以外は何もならない」と私は答えた。
すると母は私の人生が長いものではないと覚悟し、涙を流した。
親父は「男が決めたら命がで貫け、それができるか」と問、
私が「はい!」というと一言「じゃ、いけ!」と返した。
祖父母は私を応援した。】

飛行機乗りは目が悪いのは致命的だということを知って
母は 電燈のない我が家で一切勉強させなかった
ずべて学校でやるようにと
山や川で小鳥や小魚を追いまわすように言われ
明るい内に帰ると母 「
まだ明るいから遊んできなさい」と外へ追い出した
逞しさと強さ 優しさを教えてくれた母
戦闘機操十銃年間 母と常に二人三脚
数々の危機で踏ん張りを支えたのが母の涙だった

−−−−−−★−−−−−−
『武女』 出版打合せ 
「母」の話になったのだろう
坂井三郎さんから聞いた話を想い出し 話した
<天皇陛下 万歳」なんて云う者 いない
特攻隊員 最期の言葉
「かあさん」「かあちゃん」「おふくろ」>

版元の女性社長以下 皆 目 真っ赤に
「母」は生きつづけていた

「母」は ふるさとの原点だった
2024/11/27(水) 晴れ


あとを頼む


「陸軍准尉田形竹尾は第二特別攻撃隊長を命ずる
出撃の時刻は後刻示す」
特攻命令下る
【田形 → これだけの文面の命令が、私の二十九年間の人生より長く感じた。
 一瞬、走馬灯のごとく様々な思いが浮かび、数々の人との様々な思いが浮かび、数々の人との別れの場面を思い出した。ハッと我に返ったとき、逆流していた血が正常になっていた。そしてなぜか、エネルギーが充満するとうに全身がポカポカしてきた。しばらくして鏡を見ると目が目が澄み切っていて頬が笑っていた。「あ〜、これで私も教え子たちと同じになった」】

航空特別攻撃戦死者四六一五人の気持ちにようやく到達した瞬間
その翌日 終戦
「生かされる」ことになる

【田形 → 私に課せられた指名とは特攻隊員の遺言をいかにして伝えるかであった。真髄といえる遺言は「後をたのむ」だけである。遺言は書面等で多く残されているが肉親や近親者に宛てられたもので、日本に宛てた遺言は「あとを頼む」にずべて含まれてる。生き残った私が何を頼まれたか、なぜ彼ら特攻隊員が死んだか、その精神が目的とすることが何であったかを一生かかってでも解明しなければならない。】

−−−−−−★−−−−−−
敗戦 その翌年 生まれた敗戦後少年
「あとを頼む」と頼まれたわけでないが
祖母の 「一対一なら日本の兵隊さん 負けなかった」
その一言に
拳ほどの石に “特攻隊”の小石を投げつけた 何度も何度も
「あとを頼む」と頼まれたわけでないが
2024/11/25(月) 晴れ


<決死隊> <必死隊>


特攻教官 田形氏の言葉に耳を傾けよう

戦闘機とて<決死隊>である <決死隊>の心境である
ただし <必死隊>である特攻との心境は全く違う

【田形 → 私は教官として年齢二十二歳から二十五歳の学徒と
十七歳から十八歳の少年航空兵五十名に特攻訓練を指導した。
それまで私は幾度もの航空作戦に参加し、夜間不時着による昏睡状態、航空機離陸中の爆撃等で幾度もの苦しみを味わった。また二機の飛燕戦闘機で三十六機のグラマンを相手に死闘を演じて生還したが、特攻教官としての八ヶ月は、それ以上に苦しいもので自分が最も惨めな時期だった。】 

なぜ 惨めな時期だったのか

【田形 → 特攻隊員の心理は通常戦闘の決死隊のものとは比べものにならない、より崇高なものである。教官をはじめとした決死隊は恐怖感、疲れ、死の恐怖を持っているが特攻隊員たちにはそれがない。目が澄み。頬が笑っていた。
そのために教官の私が八ヶ月間、精神訓話をやる必要がなかった、いや、特攻が決まっている隊員の方が精神性が高く、精神訓話など必要ないのである、
彼らは死ぬつもりで志願して目前に死があることを自覚している。しかも航空隊では戦況情報がいち早く、すべて入るので、いよいよ自分たちの死ぬ時期が近いことを悟るのである。
当時私は、八ヶ月間特攻隊員の兵舎を巡察していた。一部屋に20名ずつの寝室を見回るのだが、特攻隊員はほとんど熟睡している。これは訓練で疲れているのではなく、すでに生死を超越しているからだ。逆に教官や助教を見ると死の恐怖を感じてか無意識に寝返りを打っている。
 出撃前夜の特攻隊員は今生最後の睡りを噛みしめるように熟睡していた。
 昭和十二年十月、私の初陣前夜とは大違いである。生身の人間がこのような心境に達することは並大抵なことではない。ましてや十七歳から十八歳・二十二歳から二十五歳の若者たちは先々五十年は生きることができる。しかしそれでも十人に一人、五十人に一人の難関を志願し死んでいく。この心境は死の意識が身近にない普通の宗教家や哲学者が理解できる心境ではない。
だから指揮官が特攻指導をすることは無意味だ。私はこの形式的な指導に腹を立て、部隊長に文句を言ったことがある。
 私は十年間飛行機に乗っていながらも死の恐怖だけは越えられなかった。心の中に「助かるかもしれない」という意識があって観念的な生死観しか確立していなかった。決死隊として私は戦い、教官として彼ら特攻隊員を訓練したが、それでも必死隊の心境がわからなかった。しかし昭和二十年八月十四日、特攻命令をもらってようやくわかったのであった。】
2024/11/23(土) 晴れ


大西滝治郎


昭和十九年十月 フィリピン作戦
台湾沖 連合艦隊 通過
隼{はやぶさ}(陸軍一式戦闘機) 
十機で沖縄から台湾まで護衛
眼下 百隻以上の艦隊に小さな改造母艦 二隻
海軍戦闘機 上空援護がない
田形氏ら かつての無敵艦隊の戦力低下に目を真っ赤にする

フィリピン作戦 出撃した陸海軍戦闘機 約八百機
米軍 約千五百  従来なら劣らないない戦力
しかし 三年以上の操縦年数のパイロット 二割
五年以上で一人前と云われるパイロット 一割もいない

開戦当時 陸軍の旧式九七戦闘機一機が
五機のスピットファイア戦闘機(英国戦闘機)に引けを取らなかった
<どこで戦ったのか 上海戦上空であろうか
海軍とて同じであった
オーストラリアのダーウィン上空
零戦とスピットファイア 数度激突
喪失機 零戦六機 スピットファイア二十六機>

それが一転
味方戦闘機五機 グラマン一機に撃墜される有様も
フィリピン前線から帰還した兵士たち 泣きながら話していた
戦力低下 通常の作戦 まったく通じない

大西滝治郎中将も痛感の極み
不利を克服して勝機を掴むには
敵空母に対する体当たりしかないと意を強くした

特攻作戦 大西の発案との通説は非 
大西のフィリピン前線赴任 以前
すでに幕僚の総意として決まっていた
いや 真珠湾攻撃前から決まっていた

山本五十六からの大西宛の手紙
要約:日米開戦の已むなきに至るかもしれない
余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない
ついては この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してほしい
貴官(大西)は海軍大学校出身ではないから
海大出のような型通りの発想はしないはず
どうか余人に相談することはなく、自由自在に考えてもらいたい

−−−−−−★−−−−−−
御伽話 → 退屈をなぐさめるための話
いや 屈辱を慰めるためのに話す
真珠湾攻撃から特攻作戦やっていたら
米国国民/兵士 パニック化
「ハル・ノート」破棄
2024/11/21(木) 晴れ


明日 武道通信かわら版 配信


SNS <選挙の勝敗のカギを握る>
巷に飛び交っている

「流言飛語」も 「SNS」にとって変わられ死後になるか
ちなみに 由来
「根拠がないのに云いふらされる噂。 デマ。
「流言」は『書経』に「管叔{かんしゅく}及び其の群弟 国に流言す」ある
周の世の初め 武王の没後 管叔(武王の弟)たちが周公{しゅうこう}の
悪口を云いふらし、後嗣{あとつぎ}の成{せい}王を惑わそうとした

応仁の乱のはじまり もしかして 「流言飛語」やも知れぬ

あと数年もすると
「流言飛語」も 「新聞/テレビ」にとって変わられ死語となるか
2024/11/19(火) 晴れ


ミッドウェイ海戦


当時の生き証人の言葉に耳を傾けよう
田形氏 陸軍熊谷飛行学校入校 昭和十一年
航空パイロット志願 適正試験 日本一の難門ともっぱらの評判
<坂井三郎氏も云っていたな 目も抜群に良くてはならない 拙者の独白>
現役将校/下士官合格率 現役軍人中十人に一人ほど
少年航空兵(一般の青年)百人に一人
合格後 不適性者 ふるい落とされる
田形氏同期六十人中 卒業したのは三十六人 五割である

支那事変 起こる
昭和十五年より航空機パイロット増員 本格的育成 はじまる
しかし 誰でもなれるものではない
末期 特攻隊員として出撃した学徒 操縦学生にしても
十人に一人の合格率
命令で航空機パイロットになった者はなく 皆 熱望志願
開戦当時 操縦暦十年以上が一人前
その一人前 陸海軍で約千人 終戦までその九割が壮絶な最期を遂げた

いまではミサイル 主力だが 当時の主力は航空機 特に戦闘機
陸上戦 海戦でも制空権が勝利をもたらすと云っても過言でない
制空権をとられると日ノ本のような島国 
輸送船 航行できず補給路がたたれる

開戦時 陸海軍 航空機 約五千機
対して米軍 約1万機
保存数は半分でも 搭乗員の技量を加味すれば劣勢ではなかった

陸軍 二千五百機を内地からアジア全域に配置
一地域における配置機数は少ない
海軍 ほとんどが航空母艦主力 
一度に数百機を移動 終結させることができた
が 空港母艦が撃沈させられると 一挙に戦力を失う危険性

これがミッドウェイ海戦 的中
主力母艦四隻と数多くの航空機とベテランパイロット 一挙に失う
開戦から一年待たず制空隊主力を失った海軍
その頃から特攻の構想を考え始めていたのである

−−−−−−★−−−−−−
ミッドウェイ海戦 敗北の因 論説 数多ある
書棚から『太平洋戦争はなぜ負けたか』別宮暖朗(並木書房)
<兵頭二十八 著作 ほぼ全著 まとめて別所に収めておいたが
わけあり奥に仕舞い込んでしまい 引っ張り出すに一日かかる>

別宮氏 ミッドウェイ海戦ドーリットル空襲への山本五十六の
過剰反応から起きた
連合艦隊司令部高級参謀 黒島亀人 起草
アリューシャン作戦を陽動として 
かつ数地点から分進合撃を狙うという複雑な作戦
分進合撃とは陸軍の発想
明らかに近代的な海軍作戦が理解できない参謀の策であった
一方 米軍は海軍の暗号を解読していた
ミッドウェイに空港母艦艦隊が来ること 承知していた
2024/11/17(日) 晴れ


特攻とは………


【田川氏 → 戦後書かれた多くに特攻関係の書物や映画で、
特攻隊員たちの心境を純粋に伝えたものは数少ない。一部の作家が伝えている
特攻隊員の遺書が検問されいたということは事実無根である。整備兵が航空機に片道分の燃料を入れた事実もない。】

ガソリンが不足が騒がれていた当時にしてはタンクに溢れんばかりの燃料を入れていた 敵艦隊を発見できなかったり 故障したときに帰還できるように
複座航空機であれば特攻隊員と共に乗っていこうとする整備兵を皆で引きずり出すこともあった

【田川氏 → 特攻肯定論者として位置づけられいる。誤解もはなはだしい。
誰とて人間爆弾という非情な戦術に賛同するはずがない。歴史的観点や戦術面から特攻が検証されているが、私が伝えたいのは特攻の真髄、心である。
あの当時見た、目が澄んで笑っている清純な特攻隊員たちの心とそれを育てた故郷(大地)、これらを戦闘機パイロット、特攻教官と特攻員を経験した私の立場から現代に継承したいのだ。」

−−−−−−★−−−−−−
アメリカ軍公式資料
1944年10月〜1945年4月
航空特攻 沈没 55隻
戦死者 2,462名 負傷者 1,009名
航空特攻 損傷 23隻
(アメリカ本土へ曳航 その後処分も含む)

水中特攻(回天) 沈没3隻
戦死者 178名 負傷者 195名
水上特攻(震洋・マルレ) 沈没11隻以上
戦死者 150名 負傷者 91名

<米国戦略爆撃調査団
日本人によって開発された唯一
もっとも効果的な航空兵器は特攻機>

軍学者 兵頭二十九
むかしどこかで書いていた
近代戦で これほどの効果をあげた作戦はなかった


−−−−−−★−−−−−−
談余:
亡父 出征記念写真 昭和十二年八月十四日
前列中央 椅子に座る父 両脇に同じく椅子に座る祖父/祖母
後列中央 一歳児抱いた姉/赤子を抱いたもう一人の姉
その両脇に三人の妹 

後列の背に 出陣祝いの幟が数本 日の丸を掲げている竹竿だけが見える

前列に戻り 祖父の右隣に二人の弟 
祖母の左隣に五歳児 椅子に座った二歳児らしき二人の妹 

日ノ本史の中で 一番 
<美しい時代>であったのではないかと彷彿させる
老若男女 穏やかに死と寄り添っている
2024/11/15(金) 曇り


カミカゼ


特集 IT戦争に勝つ!」
の真逆の体当たり自爆

【特攻の心――元陸軍特攻教官、特攻隊員の伝承
 田形竹尾{たけお}】
聞き書き/松下大圭(ソフトウエアー技術者、本誌web編集員)

松下君だ 武道通信のサーバー ここは信用できると教えてくれた
PC「既刊案内」 “めくってみる”
十二ノ巻 【坂井三郎 追悼】
「大空のサムライ」が残してくれたことを語り合う。
 松下大圭 佐々木建 対馬憲泰 神崎無現 鈴木健二郎 小松直之

十九ノ巻
【追憶 坂井三郎 二年忌】
「零戦の空戦哲学」
松下君 『大空のサムライ』
人生のエポックメーキングだった

さて 田形氏のことだ
八月十五日前日 特攻命令を受ける
ソ連 不可侵条約を破り 日本本土への攻撃をしようとしていた
攻撃目標はウラジオストック
翌日 終戦の詔書 玉音放送 特攻中止

支那事変から大東亜戦争終結まで十年間 陸軍戦闘機パイロット
三度の重軽傷 度重なる危機をくぐりぬけてきた
特攻が実施されてから教官として特攻隊員を教育

戦闘機パイロット/特攻隊員の教育/特攻命令受る
この三つを経験し 戦後生き延びた陸海軍関係者は少ないはず
この経験から 戦後 特攻の真髄/心
伝えつづけて続た田形竹尾氏
じっくり耳を傾けよう

−−−−−−★−−−−−−
昭和十九年(1944) 十月二十五日
零戦 空母「サンティ」にて急降下
零飛行甲板に命中 42平方mの大穴を飛行甲板に穴あける
六名の戦死者 四十七名の負傷者

続く二機
護衛空母「サンガモン」「ペトロフ・ベイ」に向かってそれぞれ急降下
いずれも対空砲火を浴びて両艦の至近海面に墜落
残る1機 護衛空母「スワニー」に急降下
「スワニー」は対空砲火で応戦 零戦は火を噴いたものの
そのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中
機体と爆弾は貫通して艦内で爆発 七十一名の戦死者
八十二名の負傷者

米国戦略爆撃調査団
日本人によって開発された唯一
もっとも効果的な航空兵器は特攻機
戦争末期の数カ月間に
日本陸海軍の航空隊が連合軍艦艇に対して広範囲で使用した

欧州 自爆テロ 「カミカゼ」と呼ばれている
先の五月 ウクライナ軍の小型無人機を
欧米メディア 「カミカゼ・ドローン」と呼んだ

この揶揄に立腹する同胞 多し
特攻隊は軍人相手 非戦闘員は非

戦後まもない頃 日本軍に侵略されたという
フィリピンの映画館
神風特攻隊シーンが出ると 観客たち なぜか大喝采

“YОU”のサムライ好きの根っ子に 
「カミカゼ」があることを
武州裏店の傘貼り浪人は 知っている
2024/11/13(水) 晴れ


そして 荻生徂徠


杉田玄白 「自分の医学開眼にあたっては一冊の兵法書」
書いた徂徠
【松岡 → 私は青年時代からしばしば徂徠を読んできたのだが、
その徂徠に兵学思想が満水していることは四〇代になるまで気がつかなかった。
『孫子国字解』なぞのほかに、先に紹介した『鈴録』二〇巻があったのである。
徂徠は白石の戦史にも対抗していた。】

素行 軍師のシンボル 物部氏の家系との自負
その徂徠が『鈴録』の冒頭に掲げた一句
「兵は国の大事」
徂徠 支那儒学を日本儒学に読み替えたように 孫子を読み替えた
そして日本の兵学を「陣法」と「戦法」と「軍略」の
三つに分けて考えるべきだと最初に指摘した
「国の大事」にはこれらを混乱していては役に立たないと
また それには「形と勢」「奇と正」「虚と実」を
それぞれ分けて議論すべきだと

【松岡 →たいしたものである。いま、日本の軍事は「陣法」「戦法」「軍略」の三つのすべてがごっちゃのままにアメリカに負っている。
少なくともこれらを分別し、日本独自のものをもつべきであると徂徠は言ったのだった。
しかし、ここで話を最初に戻してしておくと、こうした徂徠の兵学が玄白の医学にも応用されたことである。「医は仁術なり」というけれども、むしろ医は武術なり」であった。
これは、江戸の儒学というものが二つの目的をもっていたことと関係ある。
ひとつは国政のための学問であろうとしたこと、ひとつは人間のための学問であろうとしたことである。
国政の学には当然ながら兵学が含まれている。もともと江戸幕府の国政は、秀吉の朝鮮戦役の失敗から学んでつくられている。
当時、世界最強といわれた日本の武士団が朝鮮の戦法に敗れたことは、江戸幕府をして根底的な組み立てに走らせた。国防論と戦争論を組み替えることこそが幕府の国政の第一義であった。
人間学には、医術が含まれる。もともと武は医の応用である、一打殺傷の技術も、致命傷を与えることも、あるいは間接技を決めることさえ、医学の論理に基づいている。
徂徠の学問は、そうした二つの学の頂点に立っていた。玄白がこれを学んだのは当然のことだったのである。
それにしても江戸時代の思想というもの、つねに自身の身体と進退を兵学としてとらえていたのである。】
2024/11/11(月) 晴れ


林羅山→山賀素行→新井白石


五大老の一人であった家康 伏見に学校 開設 
足利学校から三要元佶{さんよう げんきつ}を招く
そして 十万字の木版字を駆使して
さまざまな支那文献を次々 刊行させた
そのひとつに慶長十年刊行された 『武経七書{ぶけいしちしょ}』

孫氏の兵法 ここで初めてお目見え
それまで 孫氏の兵法 知っている者 日ノ本で指で数えらえるほど

江戸幕府 御用儒学の筆頭御用係 林羅山
軍学に取り組んだ 著作に『孫呉適語{そんごてきご}』
ここまでは江戸初期の軍学思想開拓期

元禄時代になると山賀素行が登場
理論面の軍学が 実戦面の兵学になる

素行 著作 『武教本論』『武教全書』
「主戦」に対して「客戦」を重視
客戦とは敵地に入って戦う戦法

ときは流れ 六代将軍 家宣の世
先代の生類憐みの令を廃止 柳沢吉保をクビ
側用人に新井白石を登用

白石 過去の戦さを「戦史」として研究
江戸兵学思想の基準を導き出そうとした
白石 著作 『孫武兵法択』『孫武兵法択福言』
桶狭間/長篠/関ケ原 近世史で特出する戦さの意味
白石によって初めて<解読>される

−−−−−−★−−−−−−
大石内蔵助/山本定朝 
同じ 万治二年(1659)生まれ

定朝 『葉隠』で遺している
「武士道とは死ぬこととみつけたり」
コレ 祖父に近い歳の父か 叔父に近い兄の言葉である 
コレ 拙者の持論 拙著『「葉隠」の妻』(未刊)

大石内蔵助
赤穂藩に流された山賀素行から受けた兵法
「客戦」で吉良邸に攻め入る
辞世の句
「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
コレ 内蔵助の武士道 
2024/11/09(土) 晴れ


武士道の登場


杉田玄白 『形影夜話{けいえいやわ}』
「自分の医学開眼にあたっては一冊の兵法書が大きなヒントになった」
一冊とは
荻生徂徠 『鈴録外書{けいろくがいしょ}』
『鈴録』二〇巻の補足版
玄白 こう書いてある
「譬{たとえ}て言はば、患者の形体は敵国の地理なり。
乃{すなわ}ち山川は釼易あり、高定あるが如し。これは地の定りある所なり。
然るに、其地常に異なる事あるは、必ず敵の謀形を設る所あればなり」

現代訳はこうだ
医者にとって人体は敵国を攻めるようなものだ。だからその敵国あるいは戦場の特徴をよく知らなければならない。それには兵学的発想が必要だ。それが医者の務めだ

また玄白 こうも云う
「人身の四肢百骸も定まりたる部位あり。其自然に違ふ所あるは、必ず痛む所あるの候なり」
現代訳はこうだ
人体は戦場なのである また多様な病巣や病根は敵の潜伏場所である

荻生徂徠 武芸者でも兵法家でもない 江戸中期の儒者
その徂徠の文章に玄白が引用したくなるほど<兵法のヒント>がいっぱい詰まっていたということは
江戸の兵法が意外と大きな裾野をもっていたことを暗示する
いったいどうして 島原の乱を最後に泰平の江戸の世なのに 
兵学など必要のなかったのに

【松岡氏 → これは武士道が戦乱のない泰平の世となって初めて登場してきたということの事情とともに、もっと注目されてよいことである。】

「合戦」「戦さ」を文献とし観察でき
戦術を考察できるようになったからであろうか

松岡氏 それを家康が『孫子』を翻訳刊行したことだと云う
つづきは次回
2024/11/07(木) 晴れ


きょう 武道通信かわら版 配信日


西尾幹二氏  十一月一日 死去 享年八十九
「武道通信」対談後 三、四年後 二度ほどお会いする
熱き心の持ち主であられた
合掌

2024/11/05(火) 晴れ


武醫同術


壱ノ巻から十ノ巻まで
「武道家のための日本武道医学」 連載していた
サリード・パリッシュから「武道通信」創刊前
東郷平八郎の自筆の色紙の そのまたコピーの色紙 貰った
「武醫同術」と書かれていた
パリッシュ 日ノ本武道医学のエッセンスだと云う
どこに仕舞い込んだか 忘れた 出てこない

【身体と進退の兵学
医学が兵学の影響を受けたことはあまり知られてない
――江戸期、医学と兵学の二つが結び付いて武士道をささえていった。
松岡正剛】

この<武醫同術>の話だ  醫は医の旧字
例によって 松岡氏 博学 披露

BBC日本語部長 二十五年勤めた トレーバー・レゲットの
『騎士道と武士道』
その比較論 煎じ詰めると「武士道は禅のインスピレーションを巧みに生かしている」と
しかし 武士道は必ずしも禅のインスピレーションだけではない
その基礎にあるのは
<医学と兵学>であると 松岡氏

なぜならば すでに禅は医学を前提としていた
禅の起源 ボディー・ダルマ(菩薩達磨)の面壁{めんぺき}九年の修行
壁に向かっての九年の座禅であるが その前に
『摩訶止観{まかしかん}』(具体的修行方法)に説かれているような
禅定システム(心を一点に集中し 雑念を退け 絶対の境地に達するための
瞑想)が発達していた

そしてその奥には 密教や華厳{けごん}(仏になる道)が
そのさらに奥には 陰陽タオイズム(道教)やインド・ヨガがあって
体のしくみの刺激や強靭とともに禅定{ぜんじょう}(心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想 またその状態)が得られる方法が数限りなく工夫さえていた

こうした歴史の流れを背景に 
禅は呼吸法を筆頭に 座禅/瞑想から懐石料理/普茶{ふちゃ料理に及ぶ
「体にいいこと」を徹底して集約した
だから禅が武道や武心の鍛錬に その医学が重要な役割を持っていることは
当たり前のことだが
逆に その医学が実は兵法や兵学をおおいに参考にしたり 
兵法/兵学の影響をかなり受けていたことは
あまり知られていない

松岡氏 武醫同術 との言葉は使ってないが
これが「武醫同術」なのである

特に 江戸の世の兵学が医学に与えた影響が大きかった
この話は 次回に
2024/11/03(日) 晴れ


二刀流


「無双流居合斬道」 話 つづく

前田  無双流居合斬道には奥伝 秘伝まで書いてありますね
古岡  世の中に広まった方がいいと考えたんです
     無双流居合斬道は剣道では習得できない実戦剣技で    す
前田  二刀流というのは他の居合流派にはないないですが
     これも実戦剣技ですか
古岡  結果的にはそうですが

結果的であった
片手抜きの逆竹斬りの日本一になろうと だんだん太い竹にしていった
「親父 身体 壊すぞ」と息子さん
休めるか と肩痛めてもやっていたら 「ブツーン」と神経切る
筋肉の固まりだった腕が手首ほどの太さに
いろいろな医者に見せたが ダメ
東大病院に行ったら 切断するしかない と
溺れる者 藁をもつかむで 漢方に望む託す
完治しなかったが 大分 よくなる
弟子の一人 「先生 右手が使えなかったら 左手で斬ったらどうですか」
古岡氏  俺も とうとう丹下左膳か
でも 待てよ 左に太刀を持って右手に小刀をもてばなんとかなる
二刀流は誰もやってない 二刀流を編み出してやる
結果的であった

当時七十二、三歳 二刀流で五人の敵(仮想敵)を技を代え斬った
一番元気な頃は3.5秒でした。カメラで撮影すると回転数がわかる
古岡氏  七十二、三歳のときの秒数 語らなかった
水瓶割りのときは神経切っていた後


でも大事なことは 古岡氏
水瓶割りも二刀流も それはそれだけの特技
系統立てた武道ではない それをわかっていただきたい
斬ったとて自慢するものでもないし 宣伝するのもおかしい
武道の本質ではない

前田  その道の達人だとわかるんですけど その道の先に社会性への広がりがないでね
前田 いいことを云う
古岡 残念ながらそういう方が多いです

−−−−−−★−−−−−−
三流以下の武道家の拙者の社会性への広がりとは
あっ そうか 「武道通信」だ
2024/11/01(金) 晴れ


無双流居合斬道


今回は 古岡氏 「無双流居合斬道」 話だけ

居合は戦後から
柔道は歳とったらできなくなる
中山博道の「夢想神伝流」を警視庁の師から学ぶ
猛稽古で二年半で全日本剣連盟の五段に
その後 平井阿字斎の「無雙直伝英信流居合道」に入門

正月 各警察署 武道初め 演舞
刀を持った踊り  とのヘイト
平井師 「斬るのは邪道」 大道芸だと叱る
ならば 居合と剣道と大道芸を 全部まとめたものを作ってやろう

斬る武道を修練しなければ剣道の発展はない
剣道は敵との間合い 敵の動への対応はすばらしいが
いまの剣道はまったく竹刀競技になってしまった
だから原点に還った実戦の古武道を世に広めたい
「無双流居合斬道」 創設

古岡氏 兵術要訓抄録(安建正寛著) 引用
「剣道の前に居合を学べ」
竹刀は才覚をもって勝てることはあるが
真剣勝負では才覚で勝てない

幕末 武士たち 初めて真剣勝負 体験
道場の<間合い>など まったく関係なかったと告白
「ヤー!」と斬り込んで 一瞬にして勝負は決まる

−−−−−−★−−−−−−
「武道通信」の一読者なる御仁 訪ねてくる 
「刃引きした刀で試合しませんか」
拙者 膝を打った
これがしたかったのだ 竹刀剣道でなく
2024/10/30(水) 雨


目釘


古岡氏の 日本刀のハナシ つづく
前田の質問も つづく

前田  実戦のときは 目釘は鉄目釘ですか
古岡  いや 竹が一番いい
     皮の部分と肉(腹)の部分があり 剣尻の方が負担がかかるから
     皮の方をもっていく 剣先の方は肉 色の濃い方が皮
     (剣尻→刃の方 剣先→峰の方) 
前田  二尺七寸以上の刀も目釘は一本でもいいんですか(前田日明刀)
古岡  二尺以上の長い刀は二本あった方がいい
     前田さんのは二本入っていましたね
前田  昔 処刑された罪人の死体を試し斬りつかったりしたが
     豚など死んで 何日かたつと硬く斬れなくなるといいます やはり人間も
古岡  人間も死ぬと硬くなるから難しい  豚が出たんで想い出した
     人間の斬り口が真っ白だという人がいるが違う
     斬った人間の肉の色は 赤味の灰色がかった色
     豚がぶら下がっているのを見ると 人間と同じだなと
     人間を斬ったことのない人はわからないでしょう

古岡氏 このあと  こう云った
当時はどうせ死ぬんだ 明日はないという気分
だから人もたくさん斬ってきた 戦争だからやるかやられるか
あれだけ斬っても忸怩たるものも 怖いということもなかった
でもいま 毎日 燈明をあげ祈っています
自伝を上梓したときも 申しわけなかったと燈明をあげました

−−−−−−★−−−−−−
江戸時代 後期の兵学者 窪田清音{すがね}
『刀装記』の中で「目釘は竹に限るべし」と
まず 第一に 刀の操法がヘタでも 目釘が折れるだけで
刃に亀裂が入る「刃切れ」が生じないとのことだろう

竹の質に こだわる御仁もおるようだ
三年以上の真竹{まだけ}を冬至の10日前に伐り 
それを三年間干したものが特に良いとか
目釘穴は丸いから 直径五〜七ミリ程度の円柱形に削る
これに椿油や菜種油といった植物性油を染み込ませ
強度を増してたりするとか

−−−−−−★−−−−−−

一万人の内 5216人だけが投票した  きのう衆議院選挙
わざわざ足を運ぶことのなかった 残り 4884人の“心の内”
探る方法ないものか
かれらの“目釘”は なんであったろう
2024/10/28(月) 降ったりやんだり


番外編


西田敏行 逝ってから十日経つ
大谷 ワールドシリーズで
追悼番組 ニュースも落ち着いてきた

西田敏行
映画 ドラマ まさに数多
武州多摩の笠貼浪人
観たのは ほんの ほんの一部
その中で 一番 印象にあるのは
もう 四十年前になろう
深夜帰宅の編集屋 TVドラマなど めったに観ないが
偶然 観た
TVドラマも馬鹿にならんな
と思わせたのが
「淋しいのはお前だけじゃない」
2024/10/26(土) 曇り


OLD 


Colorful Diary Falcon World