HOME

アイコン
OLD 

ナショナリズム


武道通信かわら版 五日でなく四日に配信していた
正月ボケというのだろう

きのう 午後から雨 きょう 朝から雨
やっとお湿り
陸奥ノ國 大雪だそうだ
武蔵野ノ國 小雪でも ほしいところだ

さて 十三ノ巻
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
一水会代表をリクエストしたのは前田だった
どこかで木村氏が朝鮮民族と大和民族に遺伝子的共通性を語っていたとの
前田の弁 その記憶がある

格闘技ファンの鈴木邦男氏とは面識あった

鈴木邦男氏 葬儀
これは以前 記した
鳩山由紀夫 福島瑞穂 列席していた
かつての右翼/左翼の区切り 一水会 無くした
この対談 その魁ではなかったか
タイトル 「ナショナリズムの良心」とつけた
キーワードはナショナリズム

欧州 移民問題で揺れている
米國も 移民問題で揺れている
キーワードはナショナリズム
良心があれば悪心{あくしん}もあるだろう
*悪心{おしん}→吐き気ではない

良心⇔悪心
その線引きは----

次回
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
スタート
2025/01/07(火) 降ったりやんだり


♪あと 二日寝るとお正月〜


「行く年 来る年」
言語としての区切り
言葉による普遍性

今年
「民主主義」
専売特許と自負しているらしい大国 某国で
言葉による普遍性 崩れはじめた
「民主主義」が草刈り場化してきた

大海原を隔てたとはいえ 対岸の火事とは云えぬ

言葉による普遍性
まず 疑え
言語が生まれる前の
言語化されていない知 暗黙知

日ノ本民に共有される暗黙知
《下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちる所へ、
そこ万有の母がある。》

−−−−−−★−−−−−−
仕事初めは 
一月五日 武道通信かわら版 配信
松の内最後 お飾り外す七日
十三ノ巻
【論客対談 木村三浩 ナショナリズムの良心】
スタート
2024/12/30(月) 晴れ


死に向かって生き延びる


西部氏につづき
各氏の「武士道とは」に耳を傾けよう

【大保木{おおぼぎ}輝雄
 いまここに居る自分――山岡鉄舟のメッセージ】
≪山岡鉄舟の武道と剣術に託されたメッセージ
武士道とは いまここに居る自分を全身全霊で生き載{き}ることとみつけたり≫

【嘉村 孝  
中世武士道の再発見――武士道を国家の機軸とせよ】
≪江戸期の儒教武士道でなく 明治の官僚主義の武士道でなく
中世の武士道  「葉隠」研究家の一言≫

【吉田翰玄{ふみはる}
武士道でポン!――神のいない我らに武士道がある】
≪IТ時代で“中間”がなくなり “個”がポン!っと投げ出されたとき
西洋の神を持たない我らには武士道があったではないか!≫
“個”から命を懸けるべき一点につながる道 それが武士道≫

−−−−−−★−−−−−−
恐れながら 末尾に拙者の「武士道とは」

死に向かって生き延びる本能 衝動とか 欲望と云い換えてもいい
特攻作戦志願した特攻隊員 
死に向かって生き延びること
歴史修正主義などという浅はかな論議は無用
最期の言葉 「おかあさん」「おふくろ」
死に向かって生き延びる叫び
2024/12/28(土) 晴れ


「武士道というは……」の一言に要約されているもの


最後になる
西部氏の言葉に耳を傾けよう

【西部 → 近代とはパーフェクティビリティ(完璧なものになれる資質)という概念が、 十八世紀中葉の啓蒙主義の時代に尊敬されたことからもわかるように、愚か者が大量発生した時代のことだ。だから武士道が過去の帳{とばり}のなかに隠れてしまったのは当然のことだ。--------
 精神に垂直運動を忘れた精神は、まるで蟹の横這い運動のように水平運動するばかりである。--------
 自分の精神は早々と錆びつき崩れ落ちていく。このアンバランスを耐えがたいと思うのは、我が国についていうと、是非をなく武士道のことを想い起さずにはおれなくなる。
 事実、武士道というものが百年ほど前までは存在していた、という記憶だけが現代日本人のおけるモラル・マインド(道徳心)の証{あかし}となっている有り様なのだ。】

【西部 → 生きながられることを最高価値とすると、義を見捨てることの方が延命にとって都合がよいのである、というニヒリズムが強まる。つまり、人間の生命こそは一切のニヒリズムの温床であり、それゆえ生命尊重の価値にあっては、愚鈍であれ蛮勇であれ、狡猾であれ、許されることになる。
 このニヒリズムの根を絶つ必要が「武士道というは死ぬこととみつけたり」の一言に要約されているのであるから、やはり偉い古人がいたものだというほかない。】
 
【西部 → 「right」は名詞としては権利であるが形容詞としては「正しい」ということである。物事の正しさはどこからやってくるのか。それが自らの欲望からやってくると思う人間だけが、人間の基本的権利などという。自らの欲望を伝統の精神によって律すべきだと考える者は、歴史と道徳に基づく人間の基本的権理を尊ぶ。日本の思想史にあって、<権利>を否定し<権理>を追い求めた者の代表が、やはり武士達なのだ。

−−−−−−★−−−−−−
福沢諭吉は『学問のすすめ』で「right」を「権利」ではなく「権理」と訳した 諭吉の「理」へのこだわり
一万円札の顔 福沢諭吉 消えた
武士道も消えた
2024/12/26(木) 晴れ


文武浸透


虚無の根 = ニヒリズム
ニヒリズムといえば ニーチェ
ニーチェ <消極的ニヒリズム> <積極的ニヒリズム>
ふたつ あると
ニーチェ もし『葉隠』 讀んでいたら
これこそ積極的ニヒリズムだと 喝采したやもしれぬ

【生命は虚無の根――絶たんとした武士道の冒険】
西部氏 最後に『葉隠』で〆る

*そう ここで云っておこう
「氏」は「し」と讀むのではない 武士語で「うじ」と讀ませる
以後 ご了承を

いま 讀んでいたら
※そう ここで云っておこう「読む」 と「国」だけは旧字にこだわり
「讀む」「國」 
いま一つ「言う」は「云う」
そう もう一つ 「日本」は「日ノ本」 祖国は美称でいい
他国に押しつける「中国」 通史的呼称の「支那」でいい


本題に戻ろう
朱子学 → 知(文)と行(武)を分離したまま
陽明学 → 分離したあとで結合させる
西部氏 見事なレトリック
で これは根本において間違った解釈だと 西部氏
朱子学/陽明学の「文武両道」 間違っていると

三島由紀夫を例にとり
西部氏 「文武両道」は短絡的だと
「文武浸透」だと
三島 自らの行為 納得させるため
『文化防衛論』『太陽と鉄』を書かねばならず
自衛隊のバルコニーから檄文を撒かなければならなかった

【西部 → これまでの武士道「論」において見過ごされがちであったのは文武の相互浸透というという点である。つねに確認させられるには、決断の連続を認めたのが文章に外ならないという一事である。わかりやすい例でいうと、文は「寸{すんてつ}鉄人を刺す」ごとくに他者を傷つけうるし、逆に「物言えば唇寒し」のごとく自分を危地{きち}に追いやることもできる。--------
そしてその影響付与という作用は、他者への介入という意味で「武」の要素を伴うといってよい。そのような意味で、知(文)と分離することは不可能なのだ。--------私のいいたいのは、少なくも可能性としては、文(知)それは自身に死活の感情が込められていることである。】

−−−−−−★−−−−−−
大仰に云えば
業界誌からの脱皮した「週刊プロレス」 
編集長の記事 「文武浸透」であった
2024/12/24(火) 晴れ


西部 邁{すすむ}

【武士道とは……
現代日本のモラル・マインドを求めて】
特集 執筆者 掲載順に
西部 邁 
生命は虚無の根――それを絶たんとした武士道の冒険

大保木{おおぼぎ}輝雄
いまここに居る自分――山岡鉄舟のメッセージ

嘉村 孝  
中世武士道の再発見――武士道を国家の機軸とせよ

吉田翰玄{ふみはる}
武士道でポン!――神のいない我らに武士道がある

では 部西 邁氏から
学生活動家時代 逃げ足は速かった 俊敏さはあったが
武道と無縁
<さて日本人と武士道について自分は何が書けるか
と思案投首{なげくび}の姿でいる>と自問
思案投首とは  よい解決策がみつからず困って首をかしげているさま

首をかしげていたが あることに思い付く
自分のDNAに武士道があることに
<死を賭した行動への決断>に惹きつけられるもの
少年時代から そういう物語を好んで讀んだ
西部氏 かなり過激なセクトに属していたのも そのためか
“あの学生運動”イデオロギーなどの上っ面なものでなく
DNAではなかったか

【西部 → しかし、隠せば表れるの喩え通りに、そういう私の武士道への思いが人の気づくところとなったのであり、私にその思いを記せとの依頼がきてしまったわけである。】

記せと依頼したのは拙者
青い目が書いた武士道モノ 讀んで 版元に問い合わせる
青い目に原稿依頼するため
青い目 つかまった
イザヤ・ベンダサンを真似てみたと 電話口で高笑い
青い目 西部氏であった

【生命は虚無の根――絶たんとした武士道の冒険】
次回 二十五年ぶりに讀んだ 感慨を綴ってみよう



−−−−−−★−−−−−−
拙者 頻繁に使う「武士の記憶の遺伝子」
登録商標しておこうか
このタイトルつけた本
いつか 刊{だ}すであろうから
 
2024/12/22(日) 晴れ


武道通信かわら版 配信日


死ぬのは 生きているから
でなく
死ぬということは 生きているからだ
西洋概念の
生 → 死 でなく
お釈迦さんの
死 → 生 なのだ

日ノ本庶民 死んだ日 
「命日」と呼ぶこと
すんなり受け入れていた
誕生日を祝うようになってから
生 → 死 となった

<武士道というは 死ぬこととみつけたり>
武士道から遠ざかっていった

死 → 生
コレ 傘張り浪人の《武士道》
と云っても コレ 十三ノ巻刊行から後年の持論だ
十三ノ巻
【武士道とは……
現代日本のモラル・マインドを求めて】
特集 執筆者の言葉 耳を傾けてみよう
2024/12/20(金) 晴れ


師走


2024 師走

傘張り浪人とは無縁な世界では
紛争/内戦/侵攻
走り回っているようだ

1978年の
アフガニスタン紛争から
シリア内戦
イラク内線
クルド・トルコ紛争
シリア|シリア内戦
イエメン|イエメン内戦
2020年の
ウクライナ|ロシアの・ウクライナ侵攻

陽が出て 陽が沈む のではない
太陽は動かない
地球が動いているからだ
地球が動いているから
紛争/内戦/侵攻 走り回っている

日ノ本 八十年間 
紛争/内戦/侵攻 縁がなかった
が 自然災害 人身事故 事件は
走り回っている

傘張り浪人 
書きまくっている

次回 十三ノ巻
【武士道とは……
現代日本のモラル・マインドを求めて】
2024/12/18(水) 晴れ


理想とした国


【ジョグジャカルタのサムライ】の最期の言葉に耳を傾けよう

――最後に何かありましたら
【石井 → インドネシアの独立については“俺はこんな国を作る為に、あの独立戦争を戦ったのか”という思いがあります、肉親への情を絶ってまでもここに残ったことの意味が、果たしてあったのか疑問に思うことがね。こんな国を作るためだったのなら、何もあんなお手伝いをしなくても良かったと思う。
 と言うのも、この出来上がった国は理想国家では無いわけだ。貧富の差がは離れちゃっている。建国当初は庶民が全部平等になる国を目指していたわけですよ。にも関わらず、50年経って出来た国は借金大国だ。借金で賄っている繁栄国家ですよ。
 結果的には、僕のオフクロが死んだことも何もしらないし、死に目にも会えないし、オフクロには不幸を重ねたけれども、そこまでしてインドネシアの独立のお手伝いをした。ところが出来上がってきた国はこういう国だったわけだ。
 僕らが理想とした国は、貧富の差がなく、平等にお互いに助け合いながら豊かになれる。、そういう国を理想としたわけですよ。ところが政治家の反省というか自覚が無い為に、ご覧のように高級車が街を駆けずる回っているその裏通りには、貧民街が軒を並べていて、そして街をちょっとご覧になればわかりますけどね、貧富の格差がこんなにある。しかも中国人(華僑)が、その富者の先頭に立ってるわけだ。
 ま、今更そんなこと言っても仕方がないが、私はあらゆる機会に人に知られていない独立の秘話を伝えていきたいと思っている。】

−−−−−−★−−−−−−
<日本とインドネシアの情報交流の促進に生涯を懸けた>
<日本とインドネシアの友好増進に貢献した功績により
日本政府から勲六等単光旭日章を授与された>
石井サトリアの経歴の裏にあったものは違った

これが 人の世と 云ってしまえばオワリだが
日ノ本から遠く離れた中東 シリアでも人の世はつづく
オワリは ハジマリ
2024/12/16(月) 晴れ


お元気ですか 拙者も元気です


そうだ 年賀状づくりの時期がきた
画像 例年どうり 日本刀 
駄句は 何にするか

行く年 逝った方々 
拙者 記憶するところ (敬称・略/享年も)

一月からすると
篠山紀信 83歳
小澤征爾 88歳
鳥山明 68歳
寺田農 81歳
笠谷幸生 80歳
大山のぶ代 90歳
西田敏行 76歳
谷川俊太郎 92歳
元横綱北の富士 82歳
中山美穂 54歳

七十八歳になった傘張り浪人より歳下の方も
逝く人 来る人(誕生) 世の習い

師走の青空に 叫んでみようか
「お元気ですか 拙者も元気です」
2024/12/14(土) 晴れ


市来龍夫{いちきたつお}


【ジョグジャカルタのサムライ】
ここまで六ページ あと残り七ページある
残り七ページ 気にかかった箇所 記す

石井氏 一人息子
インドネシアに残ろうとしたとき 心の底では
<おふくろ 待っているだろな>
父親も軍人  2・26事件 黒幕と同郷 
ちょくちょく出入りしていたことから 陸軍 クビ
満州へ飛んで満州国軍に
親子二代の他国軍入り

独立後 オランダ軍侵攻作戦
独立運動最後の砦 古都ジョグジャカルタ 包囲される
スカルノ大統領 オランダ軍に捕まる
独立運動兵士 多くは兵器は道端に捨て 軍服 脱ぎ捨て 
みんな普通の住民に変装して逃げ出す
わずかなインドネシア兵と元日本兵 ゲリラ作戦となる

<そう アサドがロシアに亡命 アサド政権崩壊
政府軍だった兵士 軍服 銃を路上に投げ捨てた>
歴史 繰り返す 百年後も繰り返すだろう

ゲリラ戦兵法書
市来龍夫{いちきたつお}がつくる
兵士ではない 報道記者
オランダ軍銃弾に斃れる 享年42

“脱走”という汚名から 皆 名前を名乗らない
「サトリア」 某政治家がつけてくれた
インドネシア語発音で「サムライ」

みんな 「サムライ」ではなかった
【石井 → あの頃は、百鬼夜行というか、いろんな経歴の人がインドネシアに残っておってねえ。しかも、インドネシアに残った動機もいろいろでね、日本の軍隊から持ち出した資材を溜め込んで、一生暮らしていけるような保証を作った上で飛び出した人とかね、こっちに女が出来たんで残った人とかね、必ずしも正義の為だけに残ったというわけじゃないんだ。社会正義とか独立とかじゃなくって、物欲の為の連中も結構おったわけですよ。
 結局そういった物欲につられて残った人達は、みんな失敗しているね。挫折というのか、溜め込んだ財産をインドネシア政府にとられちゃって、日本に追い返されちゃったりとか。中には病気で死んだ連中もいるし、必ずしも全部が戦死ではなんだ。

−−−−−−★−−−−−−

港区 青松寺の門を潜って境内
インドネシアの初代大統領あるスカルノから贈られた
大きな石碑が建っている
「市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり 
一九五八年二月十五日 東京にて スカルノ」

吉住留五郎
市来と同じくインドネシアに渡った新聞記者 独立運動に挺身 
享年37 病死
オランダ軍による拷問が身体を蝕んでいた
2024/12/12(木) 晴れ


大川周明


石井サトリア いや 石井淑普{よしなみ}が
なぜ インドネシアに出兵 されたのか

石井サトリア氏の言葉に耳を傾けてみよう
海軍 大學出 元大學生集め 予備学生つくる
それを陸軍 真似る
飛行機操縦 乗り物運転経験ない者 難しい
米國若者 自動車 乗り回している しかし日ノ本では

そこでインテリの大學生集め 訓練教育
ところが訓練が終わらないうちに ガソリン不足
本土決戦のためガソリン 訓練教育には使えなくなる

それで現地調達で訓練となりインドネシア ジャワ島に
当時 訓練學生 三千名 
やっと 飛べるようになったら 米軍 フィリピン上陸
練習機まで全部 前線に
一度も戦場で飛行機に乗ることはなかった

――では 一度も戦場で飛行機にのらなかったわけですね?
【大川 → ええ、僕らは空に憧れていて、同じ戦場で戦うにはね、
当時のお金で何万円もする戦闘機に乗って戦死すれば、ただ陸の上で虚しく死ぬより華々しいし、戦闘機を一人で乗り回し戦って空に散った方が、男の誉だと思って飛行兵に志願したわけですよ。】

ところが志願の夢は虚しく消え
それ以降 もっぱら雑用 ジャワは占領以来全く平和
――そこで終戦になった----
【大川 → 僕ら学生時代に、大川周明が当時、大アジア主義というものを唱えておって、岡倉天心が最初に唱えた“アジアはひとつ”という流れを受けて、ひとつの体系を作っておったわけだ。
 大川先生の塾に通って、その学説の読書会をやっておった。今のゼミと同じで、それを僕らは受け取ったから、若い頃の僕の思想はいうのはやっぱり“アジア解放”というのが心の柱になってたわけだね。それが日本は敗れるわ、かた やインドネシアは独立しようとする。この時代の大きなシフトが、これまでの植民地での被支配者が自ら独立しようとする潮流だった。人間で云えば誕生の時のやね。
 若い頃の思想が動機となって、独立戦争に参加しようという気になって、日本の部隊が引き上げる前に、僕はインドネシアの軍隊に飛び込んだ。】
 
−−−−−−★−−−−−−
大川周明
東京裁判 あのシーン 
前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いた
東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴
GHQ 大川の大アジア主義 影響力 大きかったとの判断だったろう
精神障害と診断され 訴追免除
入院中 以前より念願であった イスラム教の聖典「クルアーン」
全文の翻訳を完成
東京裁判終了後 まもなく退院
東京裁判で起訴された被告人の中では
裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった

“大川周明ファン” 精神障害は大川のフェイクだと噂した
2024/12/10(火) 晴れ


昭和十六年十二月八日 


詔書。天佑を保有し万世一系の皇祚を践(ふ)める大日本帝国天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

朕、茲{ここ}に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

抑々{そもそも}東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考、丕承{ひしょう}なる皇考の作述せる遠猷{えんゆう}にして、朕が拳々措かざる所。而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕{とも}にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る。洵{まこと}に已むを得ざるものあり。豈朕が志ならんや。

中華民国政府曩{さき}に帝国の真意を解せず、濫{みだり}に事を構えて東亜の平和を攪乱{こうらん}し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸いに国民政府更新するあり。帝国は之と善隣の誼{よしみ}を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃みて、兄弟尚未だ牆{かき}に相鬩{あいせめ}ぐを悛{あらため}ず。

米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱{からん}を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞{たくまし}うせんとす。剰{あまつさ}へ与国を誘(いざな)い、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与え、遂に経済断行を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。

朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍{いんにん}久しきに弥{わた}りたるも、彼は毫{ごう}も交譲{こうじょう}の精神なく、徒{いたずら}に時局の解決を遷延せしめて、此の間却って益々経済上、軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめんとす。
斯{かく}の如くにして推移せんか。東亜安定に関する帝国昔年の努力は悉(ことごと)く水泡に帰し、帝国の存立、亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起って一切の障碍を破砕するの外なきなり。

皇祖皇宗の神霊、上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚{しんい}し、祖宗の遺業を恢弘{かいこう}し、速やかに禍根を芟除{さんじょ}して、東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せんことを期す。御名御璽。昭和16年12月8日。各国務大臣副書。

−−−−−−★−−−−−−
臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。
2024/12/08(日) 晴れ


石井サトリア


インドネシア アジア初の植民地での独立は
他の植民地人民を奮い立たせた
各地に独立運動 連鎖反応起こす

脱走日本軍兵士の中にいたのが
石井サトリア氏
サトリアはインドネシア名 発音はサトゥリア

さて 石井サトリア氏のインタビューに移る
前に記した
<神崎さんの長年の友 映像ディレクター小路谷秀樹氏による
1955年春より 数次にわたりインタビュー映像を文字に起こし
神崎氏が構成したものである>

インドネシア人民が みんな独立を願っていたわけではなかったと 石井氏
三分の二はオランダが再び戻って来て方が生活が楽になると
アンチ独立運動 で
独立に加担した石井サトリア氏ら脱走兵 その彼らから何度も
オランダに売られそうになったことも 
同じ独立戦争を戦っているインドネシア人からさえも売られてそうになる

独立戦争 美談ばかりでない
石井サトリア氏 インタビュー
ざっくばらんで そして人間臭い話だ

−−−−−−★−−−−−−
「サトリア」氏 インドネシア国籍取得後の名
本名 石井淑普{よしねみ}

インドネシア独立後 インドネシア陸軍中尉として勤務
インドネシア空軍の基礎となる航空隊の育成に尽力
退役し 在インドネシア日本国大使館 約5年勤務
「インドネシア共和国独立殊勲章)」を授与
その5年後 インドネシア国籍を取得
仕事の傍ら 日本語 インドネシア語の図書翻訳の作業を熱心に続け
科学・技術移転に関する参考書 歴史的記録などの著作を多数刊行
日本とインドネシアの情報交流の促進に生涯を懸けた
1981年 私財を投じて「翻文館」を創業
インドネシア初の日本語ニュースレターを創刊
1996年日本とインドネシアの友好増進に貢献した功績により
日本政府から勲六等単光旭日章を授与された

1999年(平成11年)インドネシアのジャカルタで死去
享年77 遺骸はインドネシア陸軍の儀仗隊に警衛され
ジャカルタ市のカリバタ英雄記念墓地に埋葬された

インドネシア 親日國の中でもダントツ
そのわけは サトゥリアのような元日本兵がいたからだ
2024/12/07(土) 晴れ


本日 武道通信かわら版 配信日


流行語大賞 「ふてほど」
路線バスの中で 主人公 たばこふかしていたな〜
小学生の頃 
路線バスの中で お母さん おっぱい出して
赤ちゃんに乳飲ませていたな〜
中学生の頃
映画館 たばこの煙でスクリーンがよく見えなかったな〜
誰も 文句云わなかった 

過去は すべて正しかった 
いや 美しかった
2024/12/05(木) 晴れ


インドネシア独立宣言


八月十四日 スカルノ/ハッタ 
宿願の独立許可を
陸軍南方総軍司令官・寺内大将から与えられ
ジャカルタに帰還 祝賀に酔った 
ぞの翌日  日ノ本敗戦 終戦

混乱は省略

海軍 ジャカルタに武官府 設置
前田精{ただし}海軍少将 責任者に
前田少将 以前からスカルノ/ハッタと親しく
「独立塾」を開き  
インドネシア青年に愛国主義教育と軍事訓練を施していた
Wkipediaなどの知ったかぶりなどでは
<オランダ植民地政府がオーストラリアに逃亡したままという
権力の空白をぬった形で、
中央ジャカルタ東 スカルノ邸で スカルノとハッタの二人が
「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言した>

だが 事実は こうだ
前田少将が拉致されていたスカルノ/ハッタを部下たちに探し救出させ
日ノ本が財産目録としてインドネシアを連合軍へ引き渡すこと
<忍び難きを忍ばす> 陸軍の反対を押し切り
敗戦から二日後の八月十七日午前十時
あの劇的な独立宣言が行われた

《我々インド根人民は ここに独立の宣言をする
権力の移譲その他に関する事項は適切な方法により
可能な限り短時間に解決される
インドネシアを代表して スカルノ ハッタ 
ジャカルタにて 17―8−05 》
(05→皇紀2605年)
日ノ本製であった

オランダを後押しする連合軍のインドネシア開放軍げへ攻撃はつづいた
1947年 オランダは大攻勢に転じた
日本軍の武装解除 日本兵 収容所へ
しかし 日本兵脱走 インドネシア独立義勇軍へ
ゲリラ戦で抵抗
五年後 オランダ ついにキブアップ
インドネシアを共和国として認める
これがアジア初の植民地での独立であった
2024/12/03(火) 晴れ


大東亜戦争の目的は達した


週刊ベースボールの編集部にだけ テレビがあった
帰社すると 編集部入り口から黒山の人盛り
元帝国陸軍少尉・小野田 寛郎{ひろお}
投降シーン 映していた

二十八歳の元敗戦少年の胸中に由来したものは
なぜも三十年 日ノ本の敗戦を信じなかったのか

日本兵が独立戦争に身を投じたのは
インドネシアだけではなかった
フランス領インドシナ(仏印)/ベトナム/ビルマ

終戦五十周年記念 外人記者クラブ主催 
当時の話を聴こうとの企画
その第一号指名 坂井三郎さん
ニューヨークタイムス記者
「太平洋戦争 どう思うか」
そんな大きなテーマ 突然 尋ねられても困るが
ひと言で云えば
戦闘は完膚なきまでも負けるべくして負けたけど
戦争の目的は達したと思う

戦前は世界の独立国約五十ヵ国
五十年後経った いま百七十ヵ国
アフリカからアジア/南アメリカ大陸
アングロサクソン白色人種による長年 制覇されそして搾取された
ところの有色人種 全部 立ち上がった
米国さえもフィリピンを手放さざるを得なかった

【坂井 → これは日本国が大東亜戦争をやったからなんだ。
やらなかったならば、現在でもまだ白人種の制覇が続いているであろう。
それをもって侵略戦争というならば、じゃあ、それまで何百年間、
イギリスがインド、アジア、アセアンで何をやったか。
オランダなんかは本国の十五倍の植民地を持ち搾取しまくっていたではないか。昨日まで自分たちは侵略していたのに、それを排除するために現地に行かねければできないじゃないか。
それをもって侵略というなら、お前たちの何百年はなんだったんだ。…………
そう言わなければ百五十年からの我々の仲間が戦死した、その人たちにお前たちの死は無駄であったと言えるか。
そしたら石原慎太郎が壇上に上がってきて、先輩、同感ですと言いにきましたよ。】

ジョグジャカルタのサムライ つづきは次回に
2024/12/01(日) 晴れ


「後を頼まれた」兵士たち


【鎮魂の戦争論<二>
ジョグジャカルタのサムライ
――インドネシア独立戦争に身を投じた
日本軍兵士の証言1995
    神崎夢現{むげん}/装幀家】

そう <特攻隊>鎮魂の戦争論<一> だった
神崎さん 拙著の著書 ぜひ装幀したいと云ってくれていたが
版元専属装幀家がいたので実現できず 残念
(『刃隠』は私家版 通常の装幀料払えないので声かけず
というより連絡先 消滅していた)

ジョグジャカルタ → ジャワ島の中部南岸にある州の州都
伝統的なジャワ美術の中心地
インドネシア独立戦争の時(1945〜1949)インドネシアの臨時首都

ジョグジャカルタのサムライたち
インドネシアで終戦を迎える
武装解除/帰国命令を無視し脱走
五年間 インドネシア独立戦争に奮戦した日本兵士たち
この脱走兵の中に
“石井サトリア”(本名ではない)がいた
神崎さんの長年の友 映像ディレクター小路谷秀樹氏による
1955年春より 数次にわたりインタビュー映像を文字に起こし
神崎氏が構成したものである

ジョグジャカルタのサムライを生んだ 
時代背景を語らねばならない

1941年 連合国 ABCDライン
A→アメリカ B→イギリス C→支那 D→オランダを完成し 
植民地解放へ向けた日ノ本の南進を食い止めるべく
防衛強化にやっきになっていた
A/B/D 極東艦隊を増強 対日石油輸出を禁止
ハルノート&ABCDライン 
日ノ本 座して死を待つよりは」 大東亜戦争戦争 突入

まず インドネシアの石油資源を直接確保が必至
海軍 A/B/D 極東艦隊 撃沈し
陸軍部隊輸送の安全 図った
1942年1〜2月にかけ 続々と陸/海軍
インドネシア各地(各島)に敵前上陸敢行 
二ヵ月後 ほとんどの地域を占領
インドネシア国民の熱烈な協力があったからだ
それは 三五〇年の耐えがたきオランダ植民地支配からの解放
監禁・投獄されていたスカルノ 日本軍に救出される
同志らと共に日本軍に協力

しかし 1943年になると 米国艦隊の反撃
わずか二個師団を残し 太平洋前線へ
インドネシア 著しく手薄 

郷土防衛は現地人に任せるべし
インドネシア人だけの部隊設置命令が出され
幹部教育が実施
卒業した幹部将校の元に三万八千人の兵力が結集
スカルノと その盟友ハッタ(後の副大統領)
陸軍南方総軍 軍司司令官 寺内大将に呼びだされ
宿願の独立許可が与えられ 八月十四日 ジャカルタに帰還
ぞの翌日 日ノ本敗戦 終戦
2024/11/29(金) 晴れ


おかあさん かあちゃん おふくろ


田形氏 郷里は福岡の太刀洗飛行場から二十キロ
筑後川上上空で飛行訓練が行われていた
日頃聞こえる爆音をきっかけに八歳の田川氏 
パイロット 夢見た

【田形 → 私が飛行機乗りになりたいと言ったとき
母は「飛行機乗りは長生きできないが それでいいか」と問い、
「飛行機乗り以外は何もならない」と私は答えた。
すると母は私の人生が長いものではないと覚悟し、涙を流した。
親父は「男が決めたら命がで貫け、それができるか」と問、
私が「はい!」というと一言「じゃ、いけ!」と返した。
祖父母は私を応援した。】

飛行機乗りは目が悪いのは致命的だということを知って
母は 電燈のない我が家で一切勉強させなかった
ずべて学校でやるようにと
山や川で小鳥や小魚を追いまわすように言われ
明るい内に帰ると母 「
まだ明るいから遊んできなさい」と外へ追い出した
逞しさと強さ 優しさを教えてくれた母
戦闘機操十銃年間 母と常に二人三脚
数々の危機で踏ん張りを支えたのが母の涙だった

−−−−−−★−−−−−−
『武女』 出版打合せ 
「母」の話になったのだろう
坂井三郎さんから聞いた話を想い出し 話した
<天皇陛下 万歳」なんて云う者 いない
特攻隊員 最期の言葉
「かあさん」「かあちゃん」「おふくろ」>

版元の女性社長以下 皆 目 真っ赤に
「母」は生きつづけていた

「母」は ふるさとの原点だった
2024/11/27(水) 晴れ


あとを頼む


「陸軍准尉田形竹尾は第二特別攻撃隊長を命ずる
出撃の時刻は後刻示す」
特攻命令下る
【田形 → これだけの文面の命令が、私の二十九年間の人生より長く感じた。
 一瞬、走馬灯のごとく様々な思いが浮かび、数々の人との様々な思いが浮かび、数々の人との別れの場面を思い出した。ハッと我に返ったとき、逆流していた血が正常になっていた。そしてなぜか、エネルギーが充満するとうに全身がポカポカしてきた。しばらくして鏡を見ると目が目が澄み切っていて頬が笑っていた。「あ〜、これで私も教え子たちと同じになった」】

航空特別攻撃戦死者四六一五人の気持ちにようやく到達した瞬間
その翌日 終戦
「生かされる」ことになる

【田形 → 私に課せられた指名とは特攻隊員の遺言をいかにして伝えるかであった。真髄といえる遺言は「後をたのむ」だけである。遺言は書面等で多く残されているが肉親や近親者に宛てられたもので、日本に宛てた遺言は「あとを頼む」にずべて含まれてる。生き残った私が何を頼まれたか、なぜ彼ら特攻隊員が死んだか、その精神が目的とすることが何であったかを一生かかってでも解明しなければならない。】

−−−−−−★−−−−−−
敗戦 その翌年 生まれた敗戦後少年
「あとを頼む」と頼まれたわけでないが
祖母の 「一対一なら日本の兵隊さん 負けなかった」
その一言に
拳ほどの石に “特攻隊”の小石を投げつけた 何度も何度も
「あとを頼む」と頼まれたわけでないが
2024/11/25(月) 晴れ


OLD 


Colorful Diary Falcon World