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右翼は終わった


十四ノ巻
【前田日明編集長対談
 論客対談 論客・松本健一】

対談に入る前に 巻頭「論客談言」
【一人で居ても淋しくない男になれ            
――頭山満、北一輝から「右翼」のレッテルをはがしたとき】

松本健一  気になっていた評論家だった
いや 「評論家」というレッテルをはがしたとき
気に入る人だった
記憶は定かではないが
『右翼・ナショナリズム伝説』を讀んでからか

【松本氏 → 右翼は終わった。とわたしが最初に書いたのは、
一九八九年にベルリンの壁が壊され、共産主義がイデオロギー的に
敗退していった、そのずぐ後のことだった…………
右翼はナショナリズムを代弁することによって、
左翼の革命=共産主義に対抗してきた。
そうだとすると、左翼の対抗勢力としての右翼も終わったのである。
右翼が背負っていたナショナリズムは、
現在では、木島等(長崎市長)や石原慎太郎などの保守勢力によって
十分引き取られてしまっている。
だが、そうだとすると、これまで右翼の象徴的存在だった
頭山満というひとは、まったく過去の存在になり、旧い右翼の人々の
追憶の対象となるだけなのだろうか。また、その思想的意味など永遠に
なくなるのだろか。】

松本健一 頭山満から「右翼」のレッテルをはがしてみた
それで何が残るか と
すると 記憶の中から 頭山満の一言
「一人で居ても淋しくない男になれ」という言葉が
つよく浮かび上がってきた と云う

−−−−−−★−−−−−−t
前巻の論客 木村三浩氏が本にしたい原稿がある
タイトルが決まらない いいタイトルないかと 相談された
木村氏の心情 察して
「右翼は終わってない」といったもので良いのではと提案

『右翼はおわってねぇぞ! 新民族派宣言』(2001刊)
巻末に前巻の前田日明との論客対談を載せたいと由
了解した
2025/02/18(火) 晴れ


オモテとウラ


「試みる」 
すでに『日本書紀』に使われている古い和語(倭語)
『源氏物語』をはじめ 多くの古典に登場
「こころみる」は「心・見る」
単に目を向けるでなく 魅入られる
『万葉集』「見る」「眺める」とあれば
飽きずして しばし没頭するとの意味
日本文学史では これを「見れど飽かぬ」の法則

武芸においても「試み」は最も重要な作業
試みのない技など 技になるはずない
武芸者 人知れず新しい技を試みた

しかし なかなか一人では磨けない
近世では「村」そのものが道場化していた
鹿島 塚原ト伝を生んだ 鹿島とか
柳生は「試みの里」と呼ばれていた
柳生一族をはじめ 
宝蔵院流鑓術の祖 宝蔵院胤栄{ほうぞういんいんえい}
宮本武蔵と対決した鑓の高田又兵衛
あの荒木又右衛門 弓術日置流の祖 日置弾正次 
弓術の吉田印西{いんさい}
いずれも柳生の里で試みた

柳生石舟斎 禅や能や茶の湯の嗜みから
「間合い」を武芸に取り組み 武芸にオモテ ウラを与えた
その子 柳生宗矩 オモテとウラの表裏一体を試みた

宗矩と同時代の織部も また茶碗のオモテ ウラをつなげた人であった
「武」と「芸」の「試みの同時性」が浮かび上がる

「試み」 英語で云えばリハーサル シュミレーション
しかし 本当の「試み」は
自分でも意表をつくものでなければならない
七代目市川団十郎(寛政→安政) 云った
「稽古中に自らに驚けるかどうか」が役者の真骨頂だ
2025/02/16(日) 晴れ


知識でも 知性でもないもの


 
【武道の中の日本<十一> 松岡正剛
試みの哲学
━━「試みる」とは心に没頭すること。
そうすることで自分が予想もしない
実験効果が出てくることを念じたのであった。】
 
松岡氏
「試みる」 心に没頭した者 挙げた
美濃焼を興した古田織部
ぐにゃりと歪んだ茶碗は人びとを驚かせた
「へげもの」(剽軽者)と笑われたが
その意外な「試み」がその後の茶碗の歴史をつくる

もう一つ
「かぶく」 歌舞伎の語源になった
もともとは「傾く」と綴った
傾くほど大胆だということ
中世では「過差」とも云った
いわば「やりすぎ」との意味
そして結びに 柳生の劍法がでてくる
 
いまどきの吾ら
AIと どうに向き合うか
この「試みる」で向き合えるのではないか

脳と同じシステムのように思われるが 違うらしい 
 ぐにゃりと歪んだ茶碗や
「傾く」こともない
つまり 心に没頭することはない

知識の蓄積 物事を判断する能力だけではダメなのだ
「心」という いまだ解き明かされていないモノに
没頭していくことだ

次回 柳生流の「試し」
2025/02/14(金) 晴れ


 漢{おとこ}

 
直木賞受賞後 司馬遼太郎 健筆 冴える
忍者小説からはじまり 時代小説 戦国史小説と多彩に
やがて 重厚な歴史小説へ
と 小川和祐氏 語る
※戦国史小説とは歴史小説 そのジャンルの一つ
事実(史実)にフィクションを加味
 
小川和祐氏
アノ『竜馬がゆく』(1962)すっ飛ばして
『燃えよ剣』(1962)『新撰組血風録』(1964)
 劍が出てくるからだ
土方歳三 → 和泉守兼定 通称「ノサダ}
近藤勇 → 長曾祢虎徹
沖田総司 → 菊一文字則宗
 
【小川和祐 → 作家は「漢{おとこ}」という言葉が好きだった。
「漢」が「漢」であることは、平時より動乱の時代である。
半世紀余続いて戦後の平和の男が「漢」であることが希薄になったことは事実である。
卑怯、狡猾、陰険、巧言{こうげん}。司馬遼太郎の「漢」が嫌う男たちが
なんと多いことよ。】
 
小川和祐氏 さらに嘆く
山里介山/林不忘/吉川英治/山本周五郎/山岡荘八まで
武道にも刀劍にも暗かった 刀劍が重要な要素となることはなかった
司馬遼太郎
江戸幕府開闢から半世紀後 発刊された
銘/系譜/秘伝/刃文/茎など 慶長八年(1603年)までの
最古の刀劍書
刀劍書の読破は刀劍と人間の在り処を発見させたにちがいない
多くの批評家の文学論はこの一点完全に欠落している
批評家たちは武道と刀劍にあまりに無知であった と

−−−−−−★−−−−−−
司馬遼太郎 土方歳三実家で土方の遺刀 
和泉守兼定の抜身を片手にし 見上ている写真
『文芸春秋』に載っていた記憶
『燃えよ剣』発行元 文芸春秋社 “番宣”だったろう
『新撰組血風録』以後 刀の出番はなくなる
刀から遠ざかっていく

刀劍書や ガラスケースの中の白刃{はくじん}より
司馬にとって一番のリアリティは
本名・福田定一 陸軍少尉
腰に下げていたろう 軍刀ではなかろうか

談余:
拙者 シバリョウ一番のお気に入りは
十巻手にしている『街道をゆく』より
『空海の風景』
2025/02/12(水) 晴れ


『石見重太郎の系図』


『越後の刀』と同時期に発表された
『石見重太郎の系図』
大阪夏の陣で豊臣が滅亡してから約百年後
主人公 某道場主
ふとしたことから 大阪方武将の系図を手にする
その武将の祖先は石見重太郎

石見重太郎と云っても いまの若い衆は知るまい
父の仇討ちをせんため諸国を旅し その途中
妖怪の狒々{ひひ}を退治した
狒々退治 これは江戸の世の講談話

豊臣秀頼に仕えた豊臣家臣
戦いぶりも尾ひれがつく
<夏の陣の道明寺の戦い
渋皮色の鎧に星兜の緒を絞め 十文字の槍を取り
黒毛の馬に黒鞍を置き 紅の鞦を掛け
三尺三寸の太刀を帯び 軍勢の先頭をきって駆けつけた>

まあ ここで戦死するのだが
大阪方でも仇討ちをしたことでヒーローになる
庶民も仇討ちモノが好きだった

さて 『石見重太郎の系図』の主人公 
その系図を贋系図もつくる表具師へ持ち込む
主人公を石見重太郎の孫にする贋系図つくる
それにはわけがあった 

大阪夏の陣から凡そ三十年後 三代将軍家光の世 
諸大名と旗本以上諸士 凡そ一四〇〇家の系譜集
『寛永緒家系図伝』を編纂
以後 武士にとって系図は後生大事なものとなる

主人公 贋系図は手にいれたものの
系図のほかに もう一品 証拠として添えなければならなかった
もう一品とは 正宗の短刀
これも贋作を差し出した
で めでたしめでたし 石見重太郎の子孫と認められ
馬廻役二百国 堂々の上士となった

太平の世のの系譜 現代の学歴 学歴など贋系図と同じ
司馬遼太郎 学歴社会への痛烈な批判を込めたと
小川和祐氏

ここまでの『越後の刀』 『石見重太郎の系図』
刀に視点を置いているが 
江戸の世の刀劍感 そのままだと小川和祐氏
曲亭馬琴/柳亭種彦らの講談師 刀劍への知識はない
伝家の宝刀という庶民の共通の古い刀劍感

その 司馬遼太郎 直木賞受賞以後 変わっていく
つつきは次回に
2025/02/10(月) 晴れ


 『越後の刀』


司馬遼太郎 『越後の刀』 登場する名刀
竹俣兼光{たけのまたかねみつ}
 
南北朝の世の名工 備前長船{おさふね}景光{かげみつ}
楠木正成の佩刀「小竜兼光」(国宝)の刀工
明治天皇 サーベル拵えにした
 
景光の子が兼光{かねみつ}
上杉謙信が景虎と名乗っていたとき
足利将軍義光から国主の格を許された
竹俣三河守から献上された太刀
 
その太刀 竹俣兼光
川中島合戦 謙信を火縄銃で撃とうとした武田軍の兵を
馬上から火縄銃もろとも斬り下した
以来 「一両筒{いちりょうづづ」と名を改めた
上杉家武運を拓く宝刀となる
 
謙信没後 「一両筒」 養嗣子{ようしし} 上杉景勝に
秀吉 天下統一後 景勝 大阪城に参勤
その折 「一両筒」 研ぎに出す
その際 贋作にすり替えられる

秀吉の耳に 石田三成に命じる
「一両筒」 無事 影勝の元へ
しかし そこは秀吉 強引に召し上げてしまう
本阿弥光悦の「太閤名物」に入り 大阪城奥深く秘蔵される
 
しかし 大阪城落城 すべて焼失
家康 「太閤名物」を惜しみ 城内 くまなく捜させる
しかし 投身になった刀ばかり
 
そこは家康 落城の際 誰かが持ち出したのではないか
「たけのまた(竹俣兼光}」を持参した者には黄金三百金を与えると
 
司馬遼太郎の『越後の刀』
竹俣兼光を物語にした小説
世は 大坂の陣の後
主人公・栃尾源左衛門 元上杉家の藩士で牢人
京都の借家で妻と暮らす 京の町を歩き回っているだけ
生活の面倒は妻任せ
ある日 源左衛門が長い菰包みを抱えて帰宅
それは太刀 その太刀を源左衛門が観ているときに
妻は何人かの人影の幻影を見る
夫の着物には血が付いている
刀を持ちかえったいきさつは何もしゃべらない
 
『越後の刀』 お讀みなされ
2025/02/08(土) 晴れ


蒙古來{きたる}


【刀と日本人・続
司馬遼太郎と名刀説話(上)
小川和祐{かずすけ}】

「日本刀」 いまの世 普通名詞になった
この言葉の語源
十一世紀 支那 北宋の世
詩人欧陽脩{おうようしゅう}の『日本刀の歌』
奥州平泉に金色堂ができたころ
極一部のインテリしかしらなかった この言葉
復活させ 流行語大賞にした人
頼山陽{らいさんよう}

『日本樂府』 蒙古來{きたる}  頼山陽                   
筑海の 颶氣  天に連なりて Kく
海を蔽ひて 來る者は 何{いか}なる賊ぞ
蒙古 來る 北 自{よ}り 來たる
東西 次第に  呑食を 期す
嚇し得たり趙家の  老寡婦を
此れを持し 來りて擬す 男兒の國に
相模太カ  膽 甕の如く
防海の將士 人 各ゝ 力{つと}む
蒙古 來る  吾は 怖れず
吾は怖る  關東の 令 山の如きを。
直{ただ}に 前{すす}み 賊を斫{き}り  
顧{かへりみ}るを許さず,
吾が檣を倒し  虜艦に登り
虜將を擒{とら}へて  吾が軍 喊{さけ}ぶ
恨む可{べ}し  東風 一驅して大濤に附し
羶血{せんけつ}をして 盡{ことごと}く 
日本刀に 膏{こう}せしめざるを

羶血とは「なまぐさい血」
膏{こう}せしめざるを とは 刃に人体の油をべっとりつける
日本刀で数多の蒙古兵をたたっ斬る ということ

詩吟  聴きなされ
https://www.youtube.com/watch?v=3GnWuPWQ0Ec

−−−−−−★−−−−−−
支那発のAIモデル「DeepSeek」
本当に コス 米國産の十分の一だそうだ
が 「天安門事件」
即座に回答拒否

AI戦争來{きたる}
日本刀で支那「DeepSeek」をぶった斬れ!
2025/02/06(木) 晴れ


明日は武道通信かわら版 配信日

 
風呂に浸かりながら 考えた
支那発のAIモデル「DeepSeek」
本当に 低コストで開発したのか
本当に 米國を凌駕できるのか

それはそれ として
AI戦争 加速させることはまちがいない
日ノ本 在日さんが 頑張ってくれてるようだ
 
風呂に浸かると 本当に生き返るのか
宇宙人のように
それはそれ として
羊水に中に浸っていると 
胎児だった幻想を持てる
地球人は 
2025/02/04(火) 晴れ


お別れ会


10月14日
空は 大空のサムライを心から迎えるように碧く澄んでいた
今年一番の日本晴れであろう
地下鉄乃木坂駅出口の「不撓不屈」のサインを目印に
Web編集員 六人 顔を会わせる
(松下大圭/神埼無限/佐々木建/鈴木健二郎/対馬憲泰/小松直行)

「あっ このサインだ」と云い 通り過ぎて行く若いグループ
武道通信ホームページを読んでいたのだろう
訃報を知らせたそのときから 丸一日で一千のアクセス

記帳を済ませたとき 前田日明も到着した
二人で控え室に向かった 途中 準備が整った式場を覗いた
祭壇に大きな坂井さんの遺影が飾られていたのが目につき中に入った
遺骨と戦闘帽 その前に置かれていた
突然 頭上でクック クックと何かが鳴いた
見上げると前田 ハンカチで目を押さえ嗚咽していた
目を逸らし 泣き止むのを待つ
終わらない 嗚咽 ますます大きくなる

祭壇の前で打ち合わせしていた道子さん こちらを振り向く
目で 前田日明です と
前田 アメリカで長く暮らしている道子さんとは面識はない
道子さん 前田のことは坂井から よく聞いている
14日 会うのを愉しみしている 先日 語っていた

道子さん 前田の傍に来る 前田の嗚咽 止まらない
道子さん 前田の背に手を回し
「さあ 思い切り泣いてください」
祭壇の遺影の前 連れていく
前田が泣いたの見たの 拙者 初めてであった

弔辞 小室直樹氏/山中志郎氏 続いて前田日明
『大空のサムライ』との出会い 坂井さんに初めて会った想い出
男の気概 誇り 教えてもらったことなど話す
最後に 昨夜 坂井さん 夢に出てきたこと

壇上の前田の背 見つめながら 会場に入る前
「軍歌って さみしいんですね」と云った前田の言葉 思い出す
会場には『海み行かば』『同期の桜』など流れていた
「そうだね」と答えたとき
坂井さんと生前 最後にあった日の言葉がが蘇った

地上で死水{しにみず}を幾度もとったが 死んでいくとき 
誰も「天皇陛下万歳」など云わない
死んでいくときは 「おふくろさん おかあさん」 
必ずそう云う 
散りながら肉体が砕けて魂が還っていくところはどこか
それは母親の魂なんだ 
そこに私は 本当の人間の姿をみ見た

式も終わりになったとき ご遺族が挨拶に立った
「父は生前 死んだら葬式も戒名もいらない
ただの坂井三郎で戦友のいるところへ送ってれ
そう申しておりました」

−−−−−−★−−−−−−
白洲次郎 遺言 たった二行
「葬式無用 戒名不用」

近年 “凡人”も「読経なし 戒名なし」
魂が還っていくところ 
“高額”な仏門墓石の下だけでないと
感じはじめているらしい
2025/02/02(日) 降ったりやんだり


市井{しせい}の人


某読者氏からラバウルの写真 二点 メールにて送られてきた
一、海底から熱湯が吹き出していて 浜辺が天然温泉になっていました
戦時中の日本兵は「ラバウル温泉」と呼んだそうです 近くに富士山を小さくしたような山があります
二、防空壕の内部です。天井に地図が描かれていました。
そうか 坂井さんら温泉に入っていたんだ
「生き返った……」などと つぶやいていたか

さて 坂井三郎追悼 つづき

密葬義から二週間ほどたった10月29日
Web編集員の松下大圭さんと坂井さん宅へ伺った
坂井さんの追悼記事の下準備であった
「お別れ会」を控え取り組み中と思い 長居はすまいと思いながらも
坂井家一同と会し 話は尽きなかった

遺骨が安置された祭壇の前に 
坂井さんがガタルカナル上空で九死に一生を得たときの戦闘帽が置かれていた
敵機の戦闘機を爆撃機と見間違えゴーグルを額の上に上げた
そのとき12.7ミリ記銃弾がゴーグルの縁に当たり逸れた
もしゴーグルを外さなかったら弾丸が確実に頭蓋骨を砕いていたろう

有史以前から人類に戦争は絶えることない
勝利を掴む気力 技 戦術を持ち得たとしても運がばければ生き延びてこれなかった いまある我らは皆 それら人たちの末裔である
坂井さんのご遺族も 吾もまた

坂井さんから聞く戦闘 戦争を言葉の上で理解できたとしても
敗戦後育ちの吾らには その体感はない
いま そういう者たちの「戦争論」が満ちている
それはそれで しないよりましだが 得てして正義 不正義の観念論に陥る
吾もまた同じである
そんな吾らが戦争を考える基軸となる存在が坂井三郎であった

「戦争と戦闘は違うんです」「軍閥と軍人は違うんです」「外国と戦うときは内戦思想ではだめなんです」
坂井さんの声が いまでも耳の奥にある

「父は一言で云えば律儀な人でした 自分がこうと決めたことは日々 欠かすことなく続けました」
道子さんが云う
「父は部下が寝るまで起きていて 朝一番に起きていたとみなさんから聞きました」
「母の寝ている姿みたことない と父は云っていました。部下を自分の子と想い 母親を見習ったのでしょうか」

坂井さんは市井の名もない 勤勉な人をよくたとえ話に出す
そういう人がこの世を支えている
坂井さん そう云いたいのだ
そういう人達が自分の國の国難に対し 国家の命として 
それぞれの役割で戦争を戦った
自分もその一人に過ぎなかった
パイロットの道を選んだのは自分である 死は覚悟の上
体当たりを命じられても「命日がちじまっただけ」と思う
だが敗れた
敗軍の軍人 勲章をもらえる義理はないが
「吾ら軍人は軍閥とは違う 天皇陛下から ごくろうさんの一言があってもいいだろう」
坂井さん 云う
かつて市井の人の道徳は天に恥じない人の道であった
天皇責任はイデオロギーではなく 
天から見た人の道に照らしたものだ
天皇も天から与えられた御霊である
そう考えたのではないか

その言葉 「撃墜王・坂井三郎」が云うのでない
市井の人 「三郎」言葉だった
それがこの日 ご家族からの話を聞き 理解できた

−−−−−−★−−−−−−
亡父の出征の折の 杉山家総出の写真
それぞれが それぞれの役割で戦争を戦っていた
2025/01/31(金) 晴れ


密葬義


9月29日 池袋 仙行沙羅ホールにて
親族と生前ごく親しかった方々による密葬義
遺言どおり無宗教葬
前日の通夜でお別れできなかったことから 無遠慮にも参列
喪主の暖子夫人の挨拶の後 参列者による菊の花の献花
順に遺影に向かってお別れした

拙者 遺影に向かってお別れ
胸中でこうつぶやいた
「坂井さん 最後にお会いした折 武道通信にはいくらでも協力しますよと
云ってくださったときの笑顔が忘れられません
あの笑顔には前田日明 杉山らが坂井さんの志を引き継いでいってくれるだろうというメッセージが込められているように思うようになりました
それにしてもまだ早すぎました」
 
休憩の後 棺が運ばれ 祭壇に飾られていた生花を参加者が
次々に棺の中の坂井さんを埋めつくすように捧げた
ご遺族が何度も何度も坂井さんの顔を見入り ハンカチで目を拭う
アメリカ在住のお孫さんの青年と少女 「不撓不屈」サイン色紙を手に
目から涙をあふれさせていた
 
棺を囲んでいた戦友たちから歌声があがった
「ラバウル航空隊」であった
戦友のお一人が歌い終わった後
坂井さんとはよく南十字星を見上げながら歌ったもんですよ と語った
棺は閉ざされ 日章旗が棺を包んだ
棺は車に移され 親族の皆様と火葬場へ向かった
 
沙羅ホールを出たばかりのとき 携帯電話が鳴った
前田日明からだった
明日 アメリカへ行くのに ある許可書の申請を忘れていたことに気づき
どうしても今日の密葬義に行かれなくなったというものだった
密葬儀の際 携帯電話の電源は切っていらから何度もかけたのだろう
前田 昨夜の通夜 深夜 棺の前に2時間いたという
ご遺族の話

 −−−−−−★−−−−−−
ラバウル航空隊
ニューブリテン島(現在のパブアニューギニア)のラバウル基地に結集し 
この空域に展開して戦闘に参加した海軍/陸軍の各航空部隊の総称

「ラバウル航空隊」歌ってみなされ
https://qr.paps.jp/RpDps
2025/01/29(水) 晴れ


最期の言葉


<坂井死と呼ぶと “他人行儀”な気がする
坂井さんと呼ばせていただく>と 巻頭 二十行あたりに
で 以後 坂井さん

後日 次女・次子さんからお聞きした 
坂井さん 死の当日の話

9月22日 米軍厚木基地内 米西太平洋艦隊 設立50周年記念 式典
夜会が催され 坂井さん 招待されていた
その日の朝 少しだるかったが熱もくない
二年前から懇意にしていた第五航空団司令官も同席することから会うの
愉しみにしていたので出席
言葉は通じなくとも心が通じ合う仲と坂井さん 話していた

ダンスパーティーがはじまるというので
こんな爺さんがいてもしょうがない そろそろお暇しようと
席を立って廊下へ出た
そのとき少し気分が悪くなった
その日 坂井さんに動向したのは近所の主治医
たまにおこる貧血か低血圧かと思ったが 計ってみるとあまりに低い

坂井さんに 基地内の病院か日本の病院 どちらがいいと訪ねると
日本の病院 言葉が通じるから
一番 近くの救急病院 綾瀬厚生病院へ

検査に入る前 坂井さんは 仰向けに寝かされていたので
呼吸がしにくいから寝返りうっていいかと聞いた
医師は検査しやすいから仰向けでいてもらいたいと
坂井さん この検査は私が寝ていても出来るんですかと聞く
医師 寝ていてもできます
「じゃ もう眠ってもいいかな」
しかし 検査が終わらない内に症状が急変 意識 戻らず
これが坂井さんの最期の言葉となった

綾瀬厚生病院へ入ったとき 坂井家に病院から連絡
兄(長男)が駆けつけたときは危篤状態

しかし肺は酸素吸入を受けているので延命はできる
奇跡的に1週間 1ヶ月後意識が戻るケースもあるが
ほとんど例はないと説明された兄
日頃 父が云っていた
「自分に意識がない状態で一日でも延命されるのはいやだ」
との言葉から 兄は延命しないと判断
私がその場にいたとしても 同じだろう

父は生前 よく云っていた
「何が起こって自分が死んだかわからなくて
閻魔様にお前、何でここに来たかと聞かれたら
自分が生きてきて してきたことを説明して
送ってもらうべきところへ送ってもらんだ」

享年84歳 坂井さん
魔王にどんな風に話したのだろう
きっと閻魔さん 我々と同じように 坂井さんの話に引き込まれ
1時間のつもりが2時間 3時間となったのではないか
2025/01/27(月) 晴れ


偶然


【現代のサムライ
訃報、密葬儀、お別れ会と過ぎゆく日々、
我が心の坂井三郎を追想する。 杉山頴男】

【9月23日、前田日明から坂井三郎氏の訃報を知らせる電話がなった。
奇しくもそのとき坂井氏の声を聴いていた。
《海軍の戦艦、空母の大型船を入居させる作業は父子相伝なんだ。その時、
私は戦争に負け、陸海軍はセロにされ、平和憲法を作らされたが、ああ、
ここに日本海軍はまだ生きていたと、涙がこぼれた。》
Web武道にのせる『英霊の伝達者―坂井三郎に訊け!』の第2回目の原稿をおこすためであった。】

奇しくも――との偶然、本当にただの偶然であろうか。

吾らがいる四次元(空間三次元+時間一次元)だけでなく
それ以外の次元から飛んでくるのではないだろうか

いま なんだかんだ話題のTVドラマ「ホットスポット」
主演女優 
以前 動画配信サービスParaviで主演 
「それ、忘れてくださいって言いましたけど。」
これも たわいのない日常会話の連続 
何話かで 奇妙な自称宇宙科学者なるものが現れる
自称宇宙科学者 「宇宙は<紐(ひも>で できてる」
これは 十次元まであるとの
神の領域「超ひも理論」を拝借したものだろう

異物が日常生活に飛び込んできても
日常生活は それを飲み込んでしまう
というハナシだ
「それ、忘れてくださいって言いましたけど。」

話がそれた
次回 坂井三郎追想 つづく

−−−−−−★−−−−−−
「ホットスポット」
山梨から見た富士山 
駿河國のガキども
「ウラ富士」と呼んで下にみていた
地元のTV番組 インタビューには来なかったが

沼津港から船に乗って 伊豆巡り
土肥{とい}から見た富士 抜群
2025/01/25(土) 晴れ


宣教師


【国の為に戦った誇り
ボールドウィン・Т・エッケル】
 
大正十三年 宣教師の両親とともに日本へ
幼年時代 日本で過ごす 
英語は話さず 日本語で話すよう教育
十年後(昭和九年) 米国へ
英語を覚えるのに苦労
昭和十一年 再び東京へ
2・26事件 目の当たりに
開戦直前 米國へ

開戦 通訳・尋問担当として
オーストラリアからルソンまで 戦闘を経験
三度負傷したが 運良く本国送還にはならなかった
エッケルが語った前歴

<八年前> ということは1992年 
友人である日ノ本のフリーランス記者に坂井三郎を紹介される
坂井さんが米國軍人と結婚した娘さんをロサンゼルスに訪ねてきた折

マンハッタン・ビーチでの坂井さんとの話を語る
下記 気になったところ

【山下奉文大将を尋問したが 私が会った日本軍人の中で唯一衝動を覚え、
どこの国でも立派に将軍の役目を果たしただろう。生き残った日本軍人の中で私が唯一敬意を評する人だった。】

【神戸の韓国人たちが「自分らは戦勝国だ」といった騒ぎが起こっても、
日本の警察はまったく無力だった。代わってアメリカ軍警察の手によって抑えられた。当時、私は軍警察大佐付きの通訳だった。闇市にはやくざや暴漢が横行していた。戦争の残した傷あとは深く、その愚文んかさを実感した。】

軍警察とはМPだろう
韓国人たちに最初に抵抗したのは日ノ本のヤクザだった

【話の中で坂井さんは、こう言った。
「広島・長崎の原爆投下のように、もし私がアメリア原爆投下を命じられたらおそらくやっていたでしょう。あれは軍事的決断だったのです。】

軍事的決断で国際法など無視
政治的決断でパリ協定離脱などなど

−−−−−−★−−−−−−
宣教師 布教の異郷にて 子らに母国語 話させず
そのむかし讀んだ 日ノ本軍人の回顧録
侵攻地 <鬼畜米>の精神で 牧師夫妻 斬首
牧師夫妻 これも神のおぼしめしと
淡々とした態度だった
日ノ本軍人 人として<負けた>と悟った
2025/01/23(木) 晴れ


遺影


【坂井中尉退隊、帽振れ 山中志郎】
聞き手・松下大圭
 
山中氏の話を聴いてみよう
 
昭和十九年 大村航空隊練習生として 教官坂井中尉の指導 受ける
練習生訓練 B29爆撃機の<激撃>訓練
<激撃>とは複数の戦闘機が敵機へ向かって順番に突進し銃撃する戦法
 
訓練の坂井中尉 鬼のような人だった
その日の訓練が終わりかと思うと 坂井中尉 教官たちを集め反省点を指摘し
今度は教官達の指導をはじめる
 
訓練機の零戦も11型から63型まで数々の改造でエンジンの馬力が大きくなる
すると機体が重くなり 宙返りするにもきれいな半円が描けなくなる
訓練業終了後 零戦が一機上空を飛んでいる
見ると坂井中尉
機上で試し 重い機体できれいな半円が描くコツをつかんで訓練生に教えるため
 
その後 松山を本隊とした徳島四〇七部隊に所属
そこに坂井中尉もおられた
本隊への連絡係として数度 坂井中尉の会う程度
目を悪くされ 空中戦をやることなく地上指導官の任に就いていた
 
戦後 お付き合い 背筋が張るような関係でなく 何でも話せる<坂井さん>
二時間の予定が三時間 四時間にも
『大空のサムライ』出版 ベストセラー
「俺が坂井三郎をここまで育てた」とやっかみ半分の元海軍の人びと
すると坂井さん 「ならばあなたも本を書けばいいではないか
書いた上で議論しようじゃないか」
いつまでもファイトの持ち主だった
     ■
【取材が終わり、山中氏は祭壇に掲げられている遺影を身ながら言った。
「顔に迫力ありますね。 中坊公平さんによく似ているでしょう。自分の信念を持った人の顔はこうなるのです。信念で生きた人ですよ。だから信念もって人と話すから
言うこともとても迫力があります。だから二時間予定が三時間、四時間になるんです」

山中氏のお別れ会での弔辞の最後の声がいまでも耳低に残っている。
「坂井三郎中尉殿、海軍航空隊を退隊されました。総見送りの位置につけ。
帽振れ、帽振れ帽振れ〜」】

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二時間予定が三時間、四時間になる
拙者も経験した
いまキーボードを打っている顔を45°左に向けると
壁に色紙  「不撓不屈  坂井三郎」
色紙は張られた テレホンカードの写真は遺影
2025/01/21(火) 晴れ


明日 武道通信かわら版 配信日


「ぼくは土星人だ 土星からきた」
そう云った記憶 はっきり覚えている 
周りには同じ学年の子らがいた
小学四、五年生であったか

旧東海道の裏手
大人たちが「新長屋」と呼んでいた実家の裏手
出来の良いシングルマザーの子
大學へはいけなかったが銀行員になったキンちゃん
学習塾開いていた
新長屋の子らが二、三人通っていた
幼き拙者 その中に混じっていたわけだ
子らの勉強机 細長い机が一台 
その子らの前で云った
「ぼくは土星人だ 土星からきた」

どこから「土星人」が出てきたじかわからない
「鉄腕アトム」 マンガ アニメ はじまっていたが
「ウルトラマン」 まだずっと後年だ 

書くという行為 
過去にあったこと 記憶という形で
現在に呼び寄せて記録し 
未来の自分に手渡すという一面がある

この奮戦日記
「武道通信」 一ノ巻から 現在に呼び寄せ記録し
残り少ない未来の自分に 手渡しているのやも知れぬ
2025/01/19(日) 晴れ


奇跡の人


【日本の教育の復興 小室直樹】
「お別れ会」での弔辞に加筆
 
世界航空史における20傑の一人であることを語る
奇跡というしかない 二つの生還劇
部下を一人も戦死させなかった
 
して 昭和十九年七月 特攻第一号
硫黄島基地から米國58機動隊 空港母艦に体当たり
神風特攻隊発足 四ヵ月前だった
して これまた奇跡的に帰還
 
【小室 → 坂井中尉は今後、日本の教育評論家になりたいとおっしゃっていました。
まことに教育日評論家におなりになっていたら、これ以上のことはありません。----
ご自宅に靖国神社方式の神棚を奉って、戦友だけでなく、敵味方の勇士を奉っておられる。
坂井中尉の意思は日本の教育の復興にあります。特に独創的あるのは兵学校教育の評価です。現在の教育に比べて兵学校教育は理想的であったと懐かしむ人は多いのです。しかし、その「理想的」とまでいわれる兵学校教育にも致命的弱点があったと、坂井中尉は分析しておられました。
他山の石として、今こそ傾聴に値する見識です。
その事始めに、大東亜戦争で戦死なさった方々の名誉を回復することだ。それまで「俺は絶対死なん」と、おっしゃっていました。ですから、私は少なくとも坂井氏の上官、斎藤大佐のように百歳まで生きていらっしゃると思っておりました。誠に残念でござおます。 】
 
−−−−−−★−−−−−−
<兵学校教育にも致命的弱点があった>
どこに? 坂井さんから聞いた記憶ない

<特攻第一号> 聞いていた
初の体当たり攻撃命令に
「腹にストンと落ちた」  
戦友と顔を見合わせ互いに笑った

坂井さんの言葉で拙者が一番に心に刺さったのは
「英霊たちは誰も太平洋戦争なんて知らない 大東亜戦争を戦ったのだ」
 
以来 「太平洋戦争」と書かない 使わない
それが慰霊だ
2025/01/17(金) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


追悼


追悼とは忘れ去ることができずして 追悼を誓う心のめでたさよ

十三ノ巻 【坂井三郎 追悼】
前田日明 巻頭言
【昨夜、夢をみた。暗闇の向こうに零戦が見えた。行って見ると笹井さん(笹井醇一中尉)、西沢さん(西沢広義飛曹長)の三人が楽しそうに話し合っていた。
近づてよく見ると坂井さんは、自分がいつか坂井さんの家で見せてもらった、若い頃の写真の顔をしていた。「坂井さん、若いですね」と自分が言うと、「そうか、よかった。戦友に会って、俺だけ年寄りの顔だと困るなぁと思っていたんだ」と答えた。
翌日の「お別れ会」の日、控室に行く途中、式場を覗いた。祭壇の中央に坂井さんの大きな遺影が飾られていた。そのとき昨夜の夢を思い出した。そして坂井さんは、もうこの世にいないんだ、という実感が突然、襲ってきた。いまはただ坂井三郎さんという漢{おとこ}に会えたことを感謝します。
平成十二年十月十四日 前田日明】

企画
日本の教育の復興 → 小室直樹
坂井中尉退隊、帽振れ →  山中志郎
国の為に戦った誇り →  ボールドウィン・T・エッケル
有志座談会 勇気をありがとう →  松下大圭/神崎無現/佐々木建/
        鈴木健次郎/対馬憲泰/小松直之
現代のサムライ →  杉山頴男
「床几」
真の葉隠武士坂井三郎 →  嘉村 孝
軍歌の心 →  小川寛大
 
次回から各企画 順に追って
2025/01/15(水) 晴れ


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